今日は近代文学における作品上の女性像ということですが、作家の実生活上の女性像と作品上の女性像は、ある意味でパラレルですが、ある意味では作品の中の女性像は多種多様で、あらゆる可能性が全部その作家にとって十分なかたちで展開されているわけです。それをどういうふうに取ったらいいのか考えてみたんですが、結局、その作家が割合と自分の理想像に近いものとして、もちろんフィクションとして作品の中に登場させている女性像と、中には何らかの意味で実生活上から受けた自分の女性に対する批判みたいなものがあって、非常にネガティブな女性像もまた作品の中に登場させている。そういう二つのかたちが非常にわかりやすくて、また興味深いことなので、そういうところで文学の作品上の女性像を考えていけたらと思いました。
表題にありますように、近代文学、つまり近代日本社会における女性像ということで、いい意味でも悪い意味でも非常に大きな重たい問題として女性像を考えたのは、北村透谷で、彼が一番激しく、また最初だと思えるわけです。系統的にいえば透谷の仲間ですが、国木田独歩とか島崎藤村とか、日本の近代文学の黎明期にキリスト教的な思想の影響を受けた人たちの中で、女性像は非常に大きな役割を果たしました。実生活上も作品上もそうですが、それが最も鋭いかたちで透谷によく表れていると思います。
透谷の女性像は、いろいろなところから始めることができるわけですが、透谷は鋭くて、かつ非常に用意周到で、それは作品上も、実生活上も大変忠実に、誠実に女性を自分の問題、文学の問題にした人です。明治の女性像とそれ以前の、江戸期、特に徳川末期の女性像とどこが違うのかということから透谷は始めています。
それはかたちとしては、一つは徳川時代の平民思想は何だったかということの問題で、思想的な問題としてそういうことを表現していますが、もう一つは他人の作品、たとえばそのころだと尾崎紅葉とか幸田露伴などが半分江戸期的、半分明治近代的、その両方にまたがったような女性像を作品の中によく描いていましたから、その作品を批評するかたちで自分の考えを述べているのが一つ、その二つのかたちで透谷は江戸時代の女性像と近代、明治の女性像はどこが違うのか、まずそこから始めています。
透谷の考え方では、もちろん元禄時代以降に顕著なわけですが、武家階級がだんだん衰えていって、町人の階層がどんどん社会的に大きな役割を果たすようになった。武家世界の理想像である武士道と同じ意味合いで、何が町人社会の理想像なのかと考えると、それは武士道と対比した言い方でいえば、侠客道、男伊達というのか、いまでいえば何々組でしょうけれども、そういう男伊達の侠客道があった。
その侠客道の「侠」は男らしい正義感と男らしいこと全部と両方ありますが、その侠客道が武士道に代わってだんだん興隆してくる。その侠客道が興隆してくるということは、要するに町人のうちでも普通の町人ではなく、町人社会からも外れた、疎外された人たちが一種の男伊達として、あるいはやくざでもいいんですが、自分たちなりの正義感とか振舞い方をつくりあげていった。それが侠客道で、その担い手である侠客は、要するに町人社会からもはみ出してしまった人たちであった。
それと対照的に、町人階級の女性の理想像を求めるとすると、それは「粋」が女性の理想像だとなっていった。その「粋」の担い手は、やはり普通の巷の娘さんではなくて、遊郭の中の太夫さんとか、普通の町人社会の娘さんというところからはみ出した人たちであった。それが一種の女性の理想像みたいにいわれて、それは「粋」の道だとか、「粋」ということで、武家の才女みたいなものとは違った女性の一つの筋道、あり方を決めていったと透谷は考えています。
その風潮が大きくなっていくにつれて、武家階級もまた町人の風儀に染まるようになって、やはり武家もまた身をやつして遊郭に出入りするようになって、遊びであるとともに「粋」の道と「侠」に武家階級もまただんだん染まっていくようになった。それが江戸の末期になるほど理想像として持ち上げられてくる。江戸でいえば吉原の遊郭みたいなものが隆盛になっていく。これは元をただせば元禄時代から元禄文学として隆盛になっていく。そしてやはり文学の主体は西鶴にしろ近松にしろ、そういう遊里の文学、遊郭の文学で、それで何をいっているかというと、やはり「粋」と「侠」を強調して、戯曲とか文学作品の思想に置くという風潮になっていって、江戸期の文学は形成されていった。
透谷は、きわめて複雑だといえば複雑ですが、武家階級の武士道などに比べて、あるいは封建的な婦道に忠実な女性の生き方に対して、やはり「粋」と「侠」の生き方のほうが非常に開放的でいいのだと言っています。しかし同時に、それは明治近代文学の主流であったらそれはとても困るのだと。どうしてかというと、やはりそれは遊里、遊郭を主体にして遊郭の中で形成されたモラルとか思想であるから、それが近代文学の主流になることに対して自分は異議を唱えざるをえないと透谷は言っています。そこで透谷の明治近代の女性の理想像が求められていくわけです。
女性のことでいいますと、遊郭で形成された女子の道である「粋」と、明治近代の女性の理想像、それが何かわかりませんが、そういう理想像であるものとはどこが違うのかということを透谷は言っていますが、その一番主な違いは何かというと、「粋」という女性の理想像は、要するに酔わない。冷静さを保っている恋愛の仕方だということが巷の娘さんたちの恋愛とは違う。恋愛は一生懸命熱愛してくると、どうしても盲目になっていくということが重要なことになるわけですが、「粋」の場合はそうではない。冷静であることが「粋」の恋愛の特徴で、それは熱愛とか熱烈という普通の娘さんたちの近代的な恋愛の考え方と違う。そこが一番違うところだと強調しています。
たとえば、これは尾崎紅葉の『伽羅枕』を透谷はその例に取っていますが、遊郭の中の太夫さんの恋愛は、たとえば自分のところに通い詰めて来る町家の男性がいて、あまり通い詰めてお金を使い果たして、貧乏になって、無一物になって、それでも熱烈で通い詰めることをやめない。そうすると「粋」の本質は何かというと、そういう場合にそういう男はあまりに盲目的でだめだときわめて冷淡に扱ってしまって、刃傷沙汰になってみたり、その男が破滅したりしても、それは全然動じない。そういう非常に冷淡なところが「粋」の一つの側面である。
もう一つ、それもまったく裏腹ですが、そういうふうに通ってくる男がいて、自分のほうもその人が好きだという感情をひとたび持った場合には、男が破滅しそうになって、お金もなくなると、自分の身銭を切ってどこかに家を借りて、そこに男を住まわせる。それに対する衣食住の費用も全部請け負ってしまう。そして自分も破滅してもそれは一向かまわないのだというかたちで男に貢ぐ。自分がひとたび好きであれば、熱心に通ってくる男を身銭を切っても助けてしまう。そういう二つの面が「粋」の特徴だということです。
遊蕩の文学、遊里の文学、尾崎紅葉の初期の文学がそうですが、「粋」が持っている二つの面、冷淡な面と身銭を切って自分が身を滅ぼしても男に貢いでしまうというプラスの面と、その二つのことを非常によく描き尽くせれば、それはいい文学だということになる。初期の硯友社、尾崎紅葉などの文学の中にはそれがあるし、またやや封建的な倫理が加味されますが、幸田露伴などの作品もそれに類する。透谷は、これはいい文学だと思うけれども、しかしこれが明治文学の主流になっていって、また明治の女性の理想像なのだと言って、それが主流になっていくことに対して自分は明治文学のために悲しまざるをえないという言い方をして、そこでもう一度批判をしています。
では明治近代の理想の女性像は何なのかということになっていくわけですが、透谷は、たとえば『厭世詩家と女性』とかで、露伴の作品を批判したりして打ち出しています。透谷のやり方を見ていると一番よくわかるのですが、一つは『厭世詩家と女性』という文章が示しているように、実世界と架空の観念の世界、想世界があるとすれば、やはり文学者、あるいは文学作品は想世界に本領を発揮するものであり、またそこに生きるものが文学者だ。想世界に生きるものが複雑な実世界の波にもまれてくしゃくしゃになって、そこで自分は挫折してしまったということがあった場合に、それを唯一救済することができるものが、実世界では女性だと言っています。つまり想世界に打ち込むあまり、実生活に破れた男性にとっては唯一の実世界にある救済は女性であり、あるいは女性との恋愛であるという言い方をしています。
透谷は、実世界よりも想世界のほうに打ち込んで、そしてそれに破れたものという意味合いで、それを厭世詩人と名づけています。想世界に打ち込んで複雑な実世界の荒波にもまれて挫折する詩人が厭世詩人だ。厭世詩人をもし文学をするものの典型と考えれば、文学者はそうあらざるをえない。それはどこで救済されるのかといったら、やはり女性、そして女性との恋愛だという言い方をしています。
実際問題として透谷自身は、透谷の故郷である小田原とか、東京の三多摩とか、そういうところを中心に自由民権運動の左派の運動が起こるわけですが、透谷と友人の石坂公歴、その二人ともそこに関与して、やはり政治的に挫折する。挫折して参っているときに、当時の新しい女性の典型ですが、石坂公歴の姉さんの美那子との恋愛のうちに自分は自由民権運動の挫折から徐々に回復していく。実生活上もそういうことがあるわけで、石坂美奈子との恋愛を成就して、石坂美那子はキリスト教ですが、透谷はキリスト教に帰依することで美那子と一緒になるわけです。
透谷のそういう実生活上の生き方を見ていると、石坂美那子が持っているキリスト教的救済観念がある。キリスト教的救済観念とは何かというと、それは大げさであって、かつ観念的なもので、空想的だといえば空想的ですが、キリスト教の救済観念でこの社会をいい社会にしていくみたいな理想像を持っていて、初期の日本のモダンな女性はそれにひかれていくわけです。そのようにひかれていった非常に先駆的な人の一人が石坂美那子ですが、そこで透谷はキリスト教に回心することによって、美那子との共同生活に入ります。
だけどその共同生活は両方ともあまりに空想的ですから、両方ともだんだん実生活に足をすくわれていって、だんだん齟齬をきたしていく。晩年の透谷はそれで自殺をしてしまいますが、結局、美那子のキリスト教的救済観念が非常に大ざっぱでかつ空想的であったこともありますし、透谷の熱の入れ方、打ち込み方が自由民権の左派の運動に自分が加わっていったのと同じような調子で石坂美那子にならってキリスト教に回心していく。そういう回心の仕方の中にも非常に空想的な部分があって、それで両方がだんだん齟齬をきたしていくという結果になるわけです。
たとえば透谷が晩年になって自分の奥さん宛の手紙で文句を言っているところは、理想の社会を実現して、理想の男女の結びつきを求めて結婚するということで一緒になったにもかかわらず、あなたは実世界にあまり有能でない想世界の人間である厭世詩人的な自分の要素をだんだんいやになってきて、生活費がなくなったとか、足りないとか、もっと稼いでくれと、そうは言わないまでもそう言わんばかりのことを言うようになった。それは要するにあなたの理想が破れて、やはり実生活に足をすくわれ出したのだと、透谷は手紙でそういう非難の仕方をしています。
透谷は、全身全霊で自由民権左派の運動に入ったとまったく同じ調子で、やはり石坂美那子に傾倒していき、そして結婚したけれども、理想どおりにいかないかたちでだんだん齟齬をきたし、そして透谷自身が自殺してしまう。そういう破れ方をします。しかしよく見ていると、新時代のキリスト教的な感性を持った若い女性に対する透谷の打ち込み方は、僕らみたいないまの人間にやれといってもできないくらい、もう本当に全身全霊を込めてそれに打ち込んでいく。
透谷の恋愛の仕方を見ていると、そういう二人の間だけではなくて、石坂美那子の父親に対しても、自分はこういう理由でお宅の娘さんを好きになって、そして尊敬するようになって、それで一緒になりたいのだみたいなことを縷々心情を吐露して告白しています。もちろん弟である石坂公歴に対してもそうですが、つまりよく見ていると、一人の女性を好きになって恋愛をして、それぞれ理想を実現しようと思って結婚するというのに、どうしてこんなにいろいろな人に対して心情を吐露しないといけないのだろうかとか、自分のお袋さんに対してもそうですし、われわれにはちょっと考えられないぐらい全身全霊をあげて恋愛に打ち込んでいく。そして実生活がだんだんうまくいかなくなり、齟齬をきたしていくという過程で、非常に苦しい思いをして自殺してしまう。
そういう過程を経るわけですが、こういう恋愛の仕方や打ち込み方を主眼にして女性を考えたら、これは初めからだめになることがわかっているじゃないかと冷静に考えれば思えるわけですし、僕らが客観的に作品の上や書かれたものの上で、それを読んで解剖すればそういうことになるわけです。でもそんなことは全然及びもつかないように、非常に全身全霊をあげてご本人に対しても、また周辺にいる近親の人に対しても、また自分の近親に対しても、こうこうこうだから、自分はどうしても一緒になるのだみたいな心情を告白して、ものすごく吐露していることがわかります。
やはりここまでやったというのは、透谷のそれこそ詩人的な資質によるのでしょうけれども、自分の実生活上の経験からそうせざるをえないということがあって、そう考えたわけでしょう。しかしこれは大変なかたちで女性に対する過剰な思い入れをして、その思い入れが破れたときに自殺してしまうというかたちになっています。
石坂美那子は、自分なりに打ち込んでいったわけですが、石坂美那子のほうからいえば、あなたは初めは自分を尊重し、自分がやりたいと思っていること、あるいは遂げたいと思っている理想のことを非常に尊重してくれて、それで一緒になったはずなのに、だんだん私を単なる主婦扱いで、針仕事だけをしていればいいといわんばかりに、理想も何も持たない普通の女性並みの扱いをして、自分の細君だから何をしてもいいんだというような感じであなたの我というものが出てきた。これはやはりあなたが当初の理想を失ってしまった兆候で、自分は落胆せざるをえないというような言い方を透谷に対する手紙の中でしています。
両方で言うことは違うのですが、両方でがっかりしていく。つまり実生活上の、主として経済的な不如意に依存するわけでしょうが、相手に対してお前の当初の理想はどうしたのだという言い方になるし、片方もまた同じように要するに自分を新時代の理想を持っている女性として尊重してくれるみたいなことを初めは言っていたけれど、だんだんただのおかみさんと同じように扱うようになってきているではないかとして、また批判をする。いずれにせよ、その批判が両方とも非常に的を射ていると思うのですが、どこで的を射ているかといえば、それはやはり実生活がどういう生活なのか、どういうものなのかを知らないうちのあまりに大きな空想がどんどん破れていく。いま判断すれば、男女ともに踏んでいる過程としてそれは考えられるわけです。
それは主として日本の文学者であれば、透谷とか藤村とか、いわゆる『女学雑誌』によった巌本善治などの周辺にいた文学者のところに、そういう女性を理想とし、女性の理想を尊重しというかたちで恋愛し、結婚するやり方は、その系統の人たちが主に明治の文学の中で実行して、破れていくことが出てきたわけです。透谷もそうですし、国木田独歩もそうです。
国木田独歩もやはりキリスト教の当時の新時代の女性にあこがれと尊敬と、また理想像を求めて一緒になりますが、独歩の経済的不如意もあるでしょうし、また奥さんのほうから見ると、理想を遂げるどこではなくて、日常生活さえも不自由であってどうにもならないようなかたちでしかなっていかない。それで自分に対する気持ちがどんどん自分と離れていくし、また自分のほうももっと理想を持った男性かと思っていたらそうでもなくて、普通の男性が普通の女性を扱うというかたちにだんだんなっていって、こんなことでは自分は嫌だということで、奥さんは離婚して去ってしまうわけです。
独歩は、とてもひかれているのでなかなかあっさり諦めがつかないで、いろいろなことでもめるわけですが、しかしいずれにせよ奥さんは嫌気がさして離婚してしまう。その系統の女性に対する理想像と近代女性は何を持っているのか、何をしようとしているのかということについての男性としての考え方は、どんどん破れていくことになるわけです。
これが一番悲劇的なかたちをとらないで、何となく持続していたのは、たとえば島崎藤村がそうです。藤村は透谷や独歩に比べて鈍い人です。鈍いというのはばかだということではなくて、我慢強く早急でないところがあって、透谷や独歩と同じような理想像を持っているのですが、いざそれを実生活の中で実現する場合には、大変緩やかなかたちで、ある意味では非常にあいまいに実現しようとしたり、そのように理想を遂げようとしたりという生活の仕方をします。
透谷の場合のように非常に断層的な悲劇にならないで、何となく長く続いていくということがありえたわけです。藤村はそういう非常になだらかな、理想世界と実世界との離反に対して、それを解消する場合に早急な考え方を持たないで、徐々にという考え方を持っていたので、そんなにひどい悲劇的にならずに存続していったということができます。
ただ藤村の場合には違う意味合いで、自分の身の回りの世話をしてもらった姪と、恋愛関係というよりもただの男女の関係をしてしまう。近親ですから、またいろいろなことを言われて、自分でもこれはいかんと罪の意識を持ったりいろいろあるわけですが、そこでもし悲劇的なことがあったとすれば、そういうふうに近親でもって性的関係ができてしまう場合にどういうことになるのか。その場合、自分が自滅してしまうか、あるいは女性のほうが自滅してしまうか、どちらかになっていってしまう。
これは近親でなければ、嫌になったから別れるとか、齟齬をきたしたから別れるということで済んでしまいますが、近親の場合にはそういうふうにいかない。単なる男女関係の中にもう一つ近親性がものすごく絡まってきたということで、それが大変悲劇的だといえば、藤村の場合には姪のほうがそれで生涯をつぶしてしまい、どうにもならなくなっていってしまった。どこかに放浪したり、いろいろな職業に就いたり、わけがわからなくなってしまう。そのように姪のほうが自滅していくかたちで悲劇が訪れてくるわけです。
藤村は、そこでもまた粘り強さと鈍感さを発揮して、それでさんざん苦しんだではありましょうけれども、身を破るというところまでは行かないで済んでいって、太平洋戦争のあとまでちゃんと生涯をまっとうし、大文豪になりました。しかし女性のほうは悲劇的でした。
男女の関係における近親性はとても違う問題を提起します。それを真正面から取り上げたのは、藤村よりも一時代、あるいは一時代半ぐらいあとになると思いますが、夏目漱石です。漱石は真正面からそういう問題における女性がどうなのかということを取り上げていったわけです。
藤村の場合にはそこで済んでしまっているところがあって、姪はそうやってどこでどうなっているのかわからないような生涯を送ることになってしまうわけですが、姪ですから、藤村は心の中では心配したり、いろいろ気にかけたりしたでしょうけれども、それがさして自分のほうに精神的にひどく跳ね返ってくるというかたちでは男女関係を考えなかった。ただ悲劇的であることは確かで、これは独歩や透谷とはまた別のかたちでの悲劇性を持ったわけです。
日本の近代女性の典型を考えた場合に、僕らは文学作品からの影響だと思いますが、いつでもキリスト教的、つまり西欧的といってもいいのでしょうが、キリスト教的なモダンな教養を持って、少し学問を始めた女性を明治の新時代の女性の典型のように考えます。しかし抱いたキリスト教的理想がどれだけ地に足が着いているかを問う段になれば、まだとても空想的な域を出なかったのではないかと思います。
自分なりに悲劇を体験した人とか、そうでなければ教育者、つまり日本の女子教育のはしりみたいな先生になったり、女性の牧師さんになった女性は、明治時代の典型的なモダンな女性、新時代の女性と考えられます。これは徳川時代まであった「粋」の世界、遊郭の中での女性の理想像、玄人の女性の理想像とまるで違う、本当に新しい、一般の社会で通用するだけの広さを持った女性の新時代性ですが、だけどそのあり方は非常に空想的であることを免れなかった。
そしてその空想の部分からどんどん女性が破れていくことが多くあったし、男性のほうがまたそれに拍車をかけるように空想的に女性を考えたり、女性と詩人とを同じように考えて、詩人が実生活に破れたときに女性は救いなのだと、いまの言葉でいえば手段化するような考え方で、多く女性の愛情に寄りかかっていったということがあって、明治初年の女性たちというのはそれなりに挫折していくわけです。挫折しない人で、女子教育に一生を打ち込んだという人たちもまれにはいるわけで、それはもういまもある女子大学の創始者は、男性ももちろんいますが、男性もキリスト教系の、つまり島崎藤村とか透谷系の人たちが始めたりしているのもあります。また女性が初期の女子大学の創始者になっているというのは、いまある女子大学を見ても多いわけです。
それでは、それは挫折しなかった例ではないかといえば、それは確かにそうですが、その代わり婚姻とか恋愛とか、あるいは恋愛を成就するとかしないとか、そういうことに対して女子の教育者は無縁であったといってもいい。つまりそういうことを犠牲にすることによって自分は教育者になって、自分たちの代はだめだけれど、次の代の女性は本当に近代が身につくように自分は教育しようとした。そういう女性をたくさん生み出そうと思って自分は教育者になっていくわけです。
自分の代はそんな著しいかたちをとらないまでも、結婚とか恋愛は二の次、犠牲にして、そして独身を遂げながら女子教育に精を出した。そういう人たちもいるにはいましたが、それも挫折というならば、男女間における挫折の一つのかたちであるといえると思います。明治年代の近代的な女性と徳川期の封建時代における女性の理想像と違うところと、またその挫折の仕方はだいたいそういうかたちで終わっていくわけです。そういうかたちで挫折が遂げられるというとおかしいですが、挫折していくわけです。
文学作品でいえば次の代に受け継がれていきます。その次の代とは何かというと、典型的には鴎外であり、漱石ということになります。作風の違いとか資質の違いとかいろいろなことがありますが、僕が見ると、鴎外の描いている女性は、『青年』とか『雁』という鴎外の代表作がありますが、その中に出てくる女性が割合に典型的です。それはどちらかというと島崎藤村と相似たかたちの女性像を描いていると思います。つまり透谷とか独歩に比べたらはるかに後退したかたちで女性像を描いています。
鴎外の理想の女性はだれか、どんな人、どんなかたちだっただろうか、どんなふうだっただろうかと作品の上で考える限り、僕は『雁』という作品の中のお玉さんというお妾さんが鴎外の理想の女性像だと思います。これは医科大学が下谷にあったころ、そこの学生さんが何か買ってきてくれといえばお使いをして一銭とか二銭をもらうということをやっていた男がいた。その中で気の利いた小使いさんがいて、だんだんお金を蓄えて、今度は学生が今月は飲みすぎて送金されたお金がもうなくなったというときに、小額ですが金を貸してあげるという金貸しをして、それがだんだん大きくなって職業的な高利貸に立身出世してしまう小使いさんがいました。
下谷の練塀町の長屋にもめごとがあって、そこの住人の借金のカタに娘さんをどうする、こうするみたいなかたちになっていったときに、小使いさんから高利貸になった末造というおじいさんが、その娘さん、お玉さんを自分のお妾さんとしてもらい受けた。池之端の近くの無縁坂の途中に家を借りてやって、そこにお玉さんを住まわせてときどき通っていた。
そこに岡田という学生が散歩の通り道でそこをよく通る。だんだんとお玉さんと顔見知りになっていく。帽子を取って挨拶をするぐらいになって、だんだん親しくなっていく。お玉さんのところに末造は通ってくるけれど、それが奥さんにばれて、もめごとが起こり、頻繁に通うことができなくなった。お妾さんのお玉さんは、旦那があまり来ないし、寂しくなっていた。あるとき岡田が散歩の途中通りかかったときに、お玉さんが飼っていた小鳥が蛇に捕られそうになってバタバタしていたのを岡田が助けてやる。それからもっと親しくなっていく。
お玉さんは、旦那がだんだん来なくなるし、自分も純真な学生の岡田のさっぱりした対応を見ていると、やっぱり自分もかたぎの娘みたいにならないと、何となく人の道に外れるのではないかという感じがだんだん出てくる。旦那のこともあまり考えなくなって、岡田のことが頭にいっぱいになってきて、だんだん親しくなっていきます。
ところで今日は学生さんを呼び止めて、自分の座敷に上げて、よもやまの話をしたり、身の上相談をしたりしようと持って待ち構えている。岡田は、留学することになって、その送別会をしてやるという友だちがいて、その日がちょうど送別会の日だった。その前に不忍池にいる雁を捕まえてきて、それをひねって雁鍋にして送別会をやろうという話になっていた。それでたまたま最後のところを通らない。お玉さんは、待ちくたびれて待っているのだけれど、ついにその日は通らなかったので、岡田とお玉さんはそのまま別れ別れになってしまうというのが大筋です。
お玉さんがお妾さんで、だんだん満たされなくなって、自分の気分も何か新しい、何か違う気分が出てきて、やっぱり普通の娘さん、普通の女性に自分はだんだんなっていかなければだめなのではないかと思い始めるというところで、お玉さんという女性が描かれているのですが、それは鴎外の理想の女性だと思います。
鴎外は、作品を見ても、女性の描き方を見てもそうですが、要するに非常に外面的です。つまり個々の女性がどういう個性を持って、どういう資質を持っているかというのは、鴎外の小説の女性にとっては問題ではない。ただ非常に美人だったとか、こういう着物を着ていたとかということはよく描いてありますが、その女性がどういう内在的なものを持っていたかということは、あまり描いていない。
つまりどちらかいうと鴎外は青年時代から玄人筋の女性から女性像のイメージが始まっているので、お玉さんのような女性は何かやさしくて、おっとりしていて、旦那に尽くすことに疑いを持っていない、しかし岡田という学生の刺激で、自分のお妾さんという身分が少し嫌だな、やっぱり新しい時代の普通の女性になりたいと思い始めるというところを描いているのは、鴎外の女性像にとっては精一杯だったのではないかと僕は思います。つまりそれが理想の女性像だったのではないかと考えられます。
これは透谷とか独歩みたいな悲劇的な破れ方はしませんが、その代わりに透谷とか独歩に比べて、一歩、二歩後退した女性像を、鴎外はこれが理想だとは書いていないけれど、僕らが読めばそうなります。理想の女性像は、一歩も二歩も後退したお玉さんみたいなかたちで出てきます。これが理想の女性像だと考えていいと思います。
この理想の女性像、お玉さんみたいな人を裏返しにすると、『青年』という作品の中に出てくる非常に華やかで、軽薄な大学の先生の未亡人ですが、小泉純一という青年が主人公ですが、彼を誘惑して、関係を結びます。主人公の青年は、だんだん夢中になっていくわけですが、片方は遊びに類するものであって、自分と同年輩の絵描きさんと一緒に箱根に泊まりに行ってしまう。ただ泊まりに行くだけではなくて、その青年に、ここにいるから、あなたも来ないかと言う。青年はそこに行ってみると、ちゃんと男がいて、二人が一緒に泊まっている。青年は、これはいけないと思って、目が覚めていくという作品です。
その未亡人の女性は、ちょうどお玉さんの裏返しで、見かけ上は大学の先生の未亡人で、つまり外面はそうなのだけれども、内面はお玉さんが嫌だ、嫌だと心の中では思っている玄人筋の女性とちっとも変わらない。そういう裏返しの描き方をしています。つまりこれは鴎外の理想の女性像の裏返しですし、またある意味で鴎外の二番目の奥さんだと思いますが、その奥さんがそっくり同じような描き方をされています。
つまり『半日』という作品を見ると、奥さんが鴎外のお袋さんの声が気に食わないとか言って、同じ家にいても顔も合わせない。鴎外はしきりに機嫌をとるのだけれど、わがままで鴎外のお袋さんには全然口を利かないし、ぜいたくをするというかたちで、鴎外はそれを許しているうちに、どんどんどんどんおもしろくなくなっていく。明治天皇の前の孝明天皇祭で、宮中で何かあるというときに、出かけなければいけないのだけれど、奥さんと自分のお袋さんとのいざこざに自分も介入して、でも嫌になってしまって、出仕もしないでくすぶってしまうという小説ですが、この奥さんの描き方がちょうど『青年』の未亡人の描き方と非常によく似ています。つまりお玉さんを裏返しにしたような女性として描かれています。
鴎外の理想の女性像を考えると、それはお玉さんですが、もっと欲を言えば、やはりお玉さん的であって、しかも普通の巷の娘さん、素人の娘さんとかお嬢さんがきっと鴎外の実生活上の理想だったのでしょう。しかしそうは問屋が卸さない。鴎外にとってお玉さんの裏返しになるかたちでは、鴎外の二番目の奥さんは評判の美人であったわけですが、心の中でいえばちっとも自分に合わないし、母親をばかにしたりちっともいい奥さんではないという描き方をしています。
これはある意味では鴎外の理想の女性像が、透谷とか独歩とかがわが身を賭して女性を愛し、命がけで理想の生活を持続しようと考えて破れ、倒れてしまうというのに比べると、一歩も二歩も後退したかたちになってしまっている。しかし鴎外は鴎外なりの倒れ方したということはいえる。それは鴎外の女性像が、透谷や国木田独歩とは違う意味の至らなさと言ったらいいか、古さと言ったらいいか、その当然の帰結だと言えば当然の帰結になっているということができます。
鴎外は、そういうかたちで生涯を終えることには、本当におもしろくなくて、つまり自分は勲何等正何位という位階勲等もいらないし、何もいらない。石見の人、森林太郎でたくさんだから、お墓にはそう書いてくれと遺言して死ぬわけです。鴎外なりに一生懸命女性に対して求めるところと、理想とするところと、またそれが齟齬をきたして失敗して破れてしまうという体験をしていきます。
『半日』は、確か鴎外の全集を出すときに、奥さんが止めてしまって出せなくて、ずっとあとになってから公開されたと新聞か何かに問題が出たことがあったと記憶しています。それぐらいよくも書いてしまったねというくらい、見事な批判と解剖をやらかしていて、これはしょうがないなと思うくらいのところで鴎外は我慢に我慢を重ねるかたちで生きていったということができます。これは鴎外の古さというものが入ってきた問題だと思います。
漱石は、その点で玄人筋の女の人とは少しも関係がないということができます。しかし漱石の理想の女性像はだれかとか、作品の中ではどれだと考えてみると、僕らが客観的に考えれば、それは二人います。一人は、最初期の作品ですが、『虞美人草』のお糸さんという娘さんがいます。それが漱石の理想の女性像だと思います。それからやはり初期の作品ですが、もう少しあとの『坊ちゃん』の中に出てくるお清という婆やさんがいますが、これがやはり漱石の理想像だと思います。
この二人とも描かれた作品の中では、たとえ『虞美人草』の中では藤尾がモダンで、美人で、そして教養もありという新時代の女性ですが、この女性は悪いほうの代表というかたちで描かれています。いいほうの代表のお糸さんは、何も言わなくても男の考えている心の中をちゃんと察してくれて、かゆいところに手が届くようにしてくれる、そういう女性で、これは逆に女性のほうから見たら何てわがままなやつだと思うかもしれないように描かれています。でも漱石にとっての理想の女性像はそうなのです。
これは、現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがありますから、女の人から見るとそのほうが理想的なのかもしれないけれども、漱石から見るとどうも始末が悪い、どうしようもないという女性になっているわけです。
お糸さんは友人の妹ですが、控えめで、河野さんという主人公は哲学者で、ろくに口を利いたりしない、世間ずれをしていないという男性ですが、その男性が黙っているだけで好きなのです。最後に河野さんが藤尾という義理の妹とか義理のお袋さんに財産も家もみんなやってしまって、自分は家を出るというときにお糸さんの兄さんが、お前はどこに行くのだと聞くと、どこに行くか全然決めてないと言う。じゃあ、うちに来ないかと言った。俺はお前のところに行ってもしょうがないのだと言うと、いや、しょうがなくても、俺や俺の親父はどうでもいいけれど、お糸がかわいそうだと思うんだ、あれは黙っているけれどお前のことを信頼していて好きなんだ、万人がお前を裏切ったり敵になっても、お糸だけはそうじゃない、そういうことができる女だ、だからうちに来ないかと誘うわけです。そして、藤尾という華やかで、美人で、近代的で、教養もありという女性は、最後に自殺してしまうわけですが、そういうかたちで悲劇的に終わらせています。
ここが新しい時代と、男性の本音と、あるいは日本の男性がそれを象徴するわけですが、鴎外や漱石は特にそうですが、つまり西欧近代もよく知っていて、抜群の知識、教養を持っている男性が、どういう女性を好きなのか、どういう女性を理想とするのかといった場合に、鴎外をとっても、漱石をとっても、どちらも女性像はあまり芳しくないというか、近代的な女性ではないのです。教養ある女性でもないのです。そうでない女性を理想像としている。
これを一つ日本近代の弱点として見るならば、鴎外、漱石ほどの人、西欧近代の教養を十全に身につけていると思える人たちだけれども、それでもやっぱり西欧近代の身につけ方は、メッキの部分がある。それが一つの弱点なのではないかともいえるわけです。そうでなければ、考え方を変えるほかない。それはどう変えるかというと、西欧近代のサイエンスも文学も含めて知識、教養を日本の近代が身につけていくやり方が、日本における近代以降の理想像かといった場合に、それはもしかするとそうではないかもしれないという疑問を提起せざるを得ないところですし、疑問を提起できるところだと思います。
そのように疑問を提起して、考え方として疑問を提起するか、あるいはこれほどの大知識人でもやっぱり身についていないメッキがはがれてしまうところがあって、メッキをはがして本音のことをいえば、何と古めかしくて、男性に対して献身的で、控えめで、根性がよくてという女性がやっぱりいいということになってしまうわけです。
鴎外、漱石ほどの人はみんな建前みたいなことは作品の中ではほとんど言いません、本音しか言いませんから、ちゃんと本音ではこうなってしまうじゃないか。これは持っている知識、教養があまりあてにならない、メッキがいっぱい入ってしまうということに帰着するか、どちらかだと思います。そしていまの見方から、どちらかだということの問題に帰着するかなという考え方は、割合にはっきりした像を結ぶようになったのではないかと思います。鴎外、漱石にとってはそれどころではなくて、やっとこさ、そういうふうにしながら切り抜けてきたといえると思います。
『虞美人草』もそうですが、漱石の理想の女性像で落ち着く先は、初期の『坊ちゃん』の清という老女ではないか。腕白な次男坊の坊ちゃんがあまりのいたずらに、親父から怒られ、お袋さんから愛想をつかされて、お前なんかろくなものにならないとか言われて相手にされないで、兄貴ばかりかわいがられているのに、その老女のお清さんだけは、あなたは見どころがあって、さっぱりしていい気性を持っていると内緒でお菓子を買ってきてくれたり、何か気持ち悪いと思うほど、とにかく何くれとなく親切にしてくれていた唯一の人です。いまにあなたは立派な門構えの屋敷に住んで、お抱えの車を持つような人になるに違いない、あなたがそうなったら、私もまた雇ってくださいと言うわけです。
到底そんなふうになりっこないと思っているわけですが、親父が死んだときに、兄貴が親父の形見分けの財産分けでお金を何百円かくれて、お前はこれで勝手に生きていけと言われる。どうしようかと思っていると、たまたま神楽坂の近所の物理学校、いまの理科大学の前を通って、俺はここに行こうかと、そのお金を学費にして物理学校の数学科に入った。卒業して地方、四国の松山の中学校に数学の先生の空きがあるから行かないかと先生に言われて行きます。
自分のところではお清さんは雇えないからと親類の家に帰すわけですが、そうするとお清さんは、いまにあなたが家屋敷を持ったら、私を迎えに来てくださいと言う。『坊ちゃん』の筋書きがそうであるように、啖呵を切って先生をやめて、帰ってきて、お清さんのところに挨拶に行き、俺はこれから鉄道の技師をやって家を持つからお清さんに来ないかという。お清さんは、別に家屋敷もないし、お金もないけれどいい、喜んで行きますというところで終わりですが、そういうお清さんは、やはり漱石の理想像になるわけです。
いずれも仕方のないというか、理想像と、理想の社会像、理想の女性像、理想の人間像は本来的にいえばそれぞれみんな違うわけです。ですから社会像についても、あるいは男女像についても違ってしまうことはやむをえないわけだし、また個人についても自分が思っているとおりの人間に自分がならない、あるいはそういう性格にならないということも、またこれは次元が違うことで、矛盾することは当然ですからそれが普通ですが、そこを一致させるという考え方でいけば、鴎外、漱石といえども、いずれも少しも一致していない。つまり理想の社会像と理想の男女像も一致していないし、理想の男女像と理想の個人像、つまり自分自身が抱いている人間像も一致しないのです。
僕らの考え方を極端に言えば、一致していないのが本当であって当然なのだという言い方ももちろんできるわけです。またさっきのように要するにやっぱりメッキの部分があるのだ、だから西欧近代を身につけよう、身につけようと思って頑張って最大の努力をした人たちですが、やっぱり身についていないところがあるのだという解釈もできるわけです。
しかしもともとそうではないのだ、そういうのは理想像ではなくて、食い違うということはそれが本当のイメージなのだ、それは社会像、これは共同体像といってもいいのですが、共同体像と男女像が僕の言葉でいえば対幻想、あるいは対関係ですが、個人像、自己像と対関係の像ともまた違う。食い違うのは、次元が違うから当然です。だから当然だと考えて、また違う考え方が開けていくと思いますが、そのどちらか一つというのではなくて、どちらかだという考え方を現在ならばある程度取れると思うのですが、やはり西欧の近代もそうですが、つまり西欧の近代は、たとえば資本主義の成熟期を二十世紀からと考えて、資本主義の始まりが十九世紀の後半から、あるいは十七世紀の後半からというのもありますが、成熟期といえば十九世紀の後半のころに生まれた近代西欧的な考え方はちょっと危ないんだぜと考えることもできるわけです。
また危ないんだぞと考えないで、それは一種の人類の歴史の先進的な模範だから、そこに近づけ、近づけということで近づき、そして追い越せというかたちで日本の近代は駆け足をしていったために生じたメッキなのだとも解釈できます。しかし十九世紀西欧的な考え方自体が非常に特殊なものであって、人間の共同性と対共同性と個人性とは違うのだ、食い違うのは当然なのだという考え方をとるならば、そういう考え方もまたできると僕には思えます。
つまりそこらへんが鴎外、漱石が透谷や藤村、独歩のあとに女性に対する理想像を後退させることによって生み出していった理想像と、それから蹉跌、挫折、失敗というものとの実相だと僕には思えます。つまり鴎外、漱石のあたりまでの作品の上でも描いていますし、実生活でもそういうところで非常に苦労して、そこのあたりぐらいまでは到達したということはいえると思いますけれども、もし近代的な女性像、あるいは女性との関係像と近代的な社会像が一致しなければいけないと考えるならば、両者ともにまだ一致しないというところで本音の問題が出てくるというかたちが日本近代における女性像のあり方であったと思われます。
前半のところはこのあたりで終わりにして休ませていただきますが、あと日本の文学作品で女性像を拡大した、つまり大なり小なり女性像、男女の関係、つまりエロスとかセックス、あるいは対関係とか対幻想とか、対共同性ということになるわけですが、その女性の考え方を少し拡大したなと思える特別な例についてお話しして、その中間のところを僕は通ってしまおうと思います。
それであとは要するに太宰治もそうですが、ついこの間亡くなられた埴谷雄高さんが『死霊』という大長編の途中で亡くなられましたが、その『死霊』の中の女性像というところで、一つ何かというと、これは一種の戦争と革命という考え方を通過したあとに出てくる女性像を象徴しているように思います。これは太宰治の場合もそういうことがいえると思いますが、つまりもっと約めてしまえば、死という体験を通過したあとでの理想の女性像はどういうことになるのか、あるいは理想の女性像はここで壊滅してしまう、つまり終わってしまうのだという言い方をしていいのかもしれませんが、それはどういうことなのかということから述べてみたいと思います。ひとまずこれで終わらせていただきます。
(休憩)
では続きをやります。先ほど女性像、男女像を拡大したと申し上げましたけれども、それは二人あると思います。一人は、僕が好きな作家ですが、岡本かの子は男、あるいは男女関係の概念をちょっと拡大したというか、違う概念に直したと思います。つまり岡本かの子の考え方の非常に基本的なところは何かというと、個々の人間にはそれぞれ固有の生命量があって、生命量が著しく違う男と女がたとえば一緒になったとすると、それは破綻をきたしやすい。生命量は非常によく対応し合った女性と男性だったらうまくいく。
そうすると、その生命量とは何かということになりますが、この人は仏教ですから、僕は仏教の概念だと思います。この人の全部の小説に男女関係を描いているところはたくさんあるわけですが、その描き方は何といってもエロス的でもセックス的でもないのです。だけどエロスもセックスも含んだ、一種の生命関係、生命量関係だと小説作品自体がそうなっています。この人の作品は例外なしにそういうふうにできあがって、そういうふうに考えられているということがわかります。
具体的な例でいいますと、そんなに長い作品ではないのですが、僕の好きな作品で、『花は勁し』という作品があります。これはお花のモダンアートといいますか、モダン生け花の生命力あふれる女の先生がいます。自分の遠い親戚の絵描きさんの男がいて、結核性の病弱です。そして同じように芸術的なことに携わっているということもあって親しくて、その桂子というお花のお師匠さんがお金や食べ物を遠い親戚の絵描きさんに貢いでいるみたいな関係があるわけです。
ところで両方とも好きなんだけれども、同棲して一緒になるというふうにはどうしてもなっていかない。やはり少し離れたところに別にいて、そういう関係でお金を出したり、何くれとなく世話をしたりということはするのですが、いわゆる恋愛関係にもならないし、男女関係にもならないというかたちの男性がいるわけです。桂子はそばにいて、お花を習っている自分の姪をときどきその小布施という男のところにお使いにやります。
そのうちに姪と小布施は仲良くなって、それこそ男女関係になって、子どもを妊娠するというふうにいつの間にかなってしまった。お花のお師匠さんの桂子は愕然とします。自分が全然考えも及ばないようなことが、お使いにやっていた自分の姪と自分と愛人とか恋人ではないけれど、それに近いような関係で世話をしていた男とが何でそんなふうに一緒になってしまったのだろうかという疑問を抱きます。
結局、考え方が帰着したところでは、男のほうがそういうわけですが、お前さんみたいな圧倒的な生命力を持った人間と自分とは釣り合って一緒になるということがどうしてもできない。そうすると姪は、何となく自分の生命量とつり合った生命量を持っているような気がして、そして親しくなって、すぐ最後のところまで行ってしまったと、弁明とも何ともつかないような言い方をして、生命量ということが問題だと言うわけです。
作者自身の一種の恋愛観とか男女間の関係の核心になっているところは、生命量の流れの大小が人間の男女の恋愛の様相を決めていく。またなぜ恋愛が成立するか、なぜ男女の関係が成立するかというと、ほかのあらゆる理由ではなくて、その生命量が釣り合うことがその根本的なものだということです。つまり普通僕らがエロスとか、セックスとか、男女の関係とか男は女性を尊重するとか女性が男性を尊重するとか、そういう物語が実社会で始まるのはなぜかというと、それは生命量の流れが非常に釣り合った異性とたまたま出会うことがあったとしたら、そこでそういうことが成立するのだという考え方を作品の中でも述べています。
この考え方は岡本かの子のあらゆる小説の中に全部含まれていて、全部を貫いてそういう考え方をしています。そしてそれは何なのかを考えてみると、それはやはり仏教だと思います。岡本かの子は法華経の中でも観音普門品というのがあって、その観音経を教義とする観音宗という新宗教をつくってもおかしくないぐらい造詣が深く、また教祖的なものを持っている人で、自身も華やかで、生命量あふれる作家でした。それぐらい造詣のある人でしたから、仏教の本格的な影響をずいぶん受けていると思います。
だからこの人は日本の近代文学の中にいるということは、要するに一種の男女間の関係、あるいはエロスとかセックスという関係の問題を生命量の大小とか、生命量の流れの大小ということに置き換えてしまった、あるいは拡張してしまった人であって、この作家の特異さはそういうところにあると思います。この作家を真似することはなかなかできませんが、この作家がいるということは、いわゆる理想の女性像とか理想の男性像の概念に対して、非常に大きな根拠を与えるとともに、また一面からいうと、そういう考え方は社会的に、性的に、また容貌的にそういう問題を言っただけでは間違えるよという批判を同時にやっている作家です。
この作家がいるために男女間の問題を物語の筋に乗せる場合に非常に大きな役割をこれからも果たすだろうと思います。この人はちょっと真似することができませんが、大変天才的な人、作品も天才的ですし、いったん打ち込んだらどうしようもないほど魅力的な作家だと思います。これは桁外れに魅力的な人で、日本文学を大変豊かに拡張してしまった一つのやり方をこの人が初めてつくりあげたのだと思います。
だから日本における文学作品の中の男女の関係、あるいは理想の女性像、理想の男性像といわれて描かれているものを、生命量の流れの速さとか遅さとか、量の多さとか少なさとかということで全部解釈をし直すことができると思います。作品の中でそれくらいとても見事な展開の仕方をしている人だと思います。これは普通の概念とは違いますので、好きな人は好きで、打ち込む人は打ち込むけれども、そうでないとなかなか華やかに出てこないで作品としてもてはやされることはありませんが、大変な作品だと思います。当然、もてはやされるべきものを持った人ですが、そういうことではもてはやされていませんが、日本の近代文学の物語、特に男女関係の問題を軸にした物語の幅を著しく、非常に大きく拡張した人だと思います。
もう一つ、そういう拡張の仕方をしたと思えるのは、やはり谷崎潤一郎です。たとえば谷崎潤一郎の長編ですが、『細雪』という作品があります。この作品は、今度は逆に、われわれの普通の恋愛小説とか男女間に関係する物語を主体にした小説という概念に慣れた人から見ると、あまりに悠長で、退屈してしまうぐらいあまりに起伏がないように思われます。だけどこの人は男女間の恋愛関係を何が拡張してしまったかと考えていくと、それは男女間の理想の関係を描くにしろ、そうでない関係を描くにしろ、男女間の問題、つまり恋愛問題とかエロスの問題などは帰するところは何かといったら、天然自然の自然と同じ速さで推移するものが人間の中にある。
それは、一つは人間の年のとり方を考えると、だれがどう頑張っても、歳をとってくると肉体的に身体的に容貌容色が衰えてくるし、しわもよってくる。それはたまたま今日から明日を見ると、明日はしわが一つ増えていたというようにははっきり変わっていくわけではないけれども、しかし今日鏡を見てこうだった、十年あとに鏡を見たらどう変わっていたというふうに間隔を置けば、徐々に変わっていったことが明らかにわかる。人間の男女の関係の仕方も、そのように自然と同じ速さで変わっていくという様子が一つあるのだということなのです。
それからもう一つは、人間の容貌が変わる、おばあさんになってしわが寄るとか、そういう形状的なことではなくて、精神の、特に男女間の恋愛関係とか男女関係の推移の仕方の中で、急激にではないのだけれども、いつの間にか二十代のときと三十代のときはこう変わっていったとか、三十代から四十代はこう変わっていったとか、そういう変わり方がある。つまり自然と同じ速さで変わっていく変わり方があるのだということを、近代小説の中で初めて投入した人ではないか。そういう考え方を恋愛問題、あるいは男女間の問題、あるいは女性像、男性像の問題の中で初めて小説として書き分けていった人ではないかと思います。
これは二人とも昭和十年代までの間に生み出しているわけですが、この二人は非常に特異な位置を持っていて、特異な考え方、特異なやり方をして、特異な小説を描いていると思います。そうやって描いていくと、人間の身体的な変遷の仕方も、精神、男女間の恋愛感情の変遷の仕方もまるで自然がいつのまにか移っていくのと同じ速さで、同じように移っていくということがありうるのだという概念を初めて出したと思います。
たとえば『細雪』を普通の恋愛小説のつもりで読んだら、これは退屈だなと、谷崎ほどの人が書いてもやっぱり退屈だな、こんなものは筋も何もないじゃないか、ただゆっくりした移り変わりだけがあるじゃないかと思われます。これは船場の四人娘、長女から四女までの娘時代の華やかな遊びの世界みたいなものを体験しながら、だんだん歳をとってきて、それぞれ違う結婚相手ができて、それぞれ違う境遇になっていって、たとえば末娘は好きな男に入れあげて、家出同然にして家を離れてしまうみたいな、それだけの推移をものすごくゆったりゆったり、ゆっくりゆっくり描いているわけです。
これは普通の概念でいうと、何だ、何も書いていないじゃないかといえそうなくらい、起伏もなければ、ほとんど物語らしい課題もないし、起承転結もないといえばない。そういう作品ですが、これはやっぱりいい作品だということと、特異な作品だといえる。つまり人間の恋愛感情の中でも、いっぺんに夢中になってパッとほぐれてしまうという恋愛もあるし、ある程度夢中な期間があって、それから冷めていって、またほぐれてしまうという恋愛関係、男女関係もあるし、そうでなくてもお見合いで結婚したけれど、少しずつ少しずつ何となく男女の関係の調和が深まっていって、それで長続きしているというものある。ちょうど自然の季節が移り変わるのと同じように、徐々に徐々に、いつの間にか移り変わっているという恋愛感情や男女間の関係、あるいは女性とか男性の理想像がありうるのだということを初めて意識的に取り出されていると思えるわけです。
この取り出され方というのは、別に谷崎がそういうものを取り出そうと思って『細雪』を書いたかどうかというのは、無意識かもしれないし、すこぶるわからないところです。しかしたぶん谷崎は『源氏物語』からこういう考え方をつくってきたのではないかといえます。あの人も変わった人だから女の人の同性愛を書いてみたり、異常愛を書いてみたり、いろいろなことをしているわけですが、そういうことの果てに何があったのかといったら、自然の移り変わりと同じように移り変わっていく男女関係もあるし、男性像も女性像もあるのだということを初めて描き出したといえるわけです。その元にあるのは、やはり『源氏物語』だと僕は思います。
つまりそれをやったのは、谷崎のほかにはないわけです。これをほかの人がやったら、どこかに結節点、山場を設けないと小説なんて成り立っていかないようにしかなっていかないのですが、谷崎の場合には、山場なんかどこにもないけれど、大長編小説の流れにちゃんとなっている。これは勝手にそうなっているだけだというのなら、たぶん小説になっていなくて、読めやしないということになるわけでしょうけれども、そうではなくてこの人は自然の移り変わりと同じ速さで人間の恋愛関係の精神的、肉体的移り変わりもあるのだということを、そこに根本的に持ち出しているから、だからこれは小説になっているのだと僕には思われます。
そう思って意図して書いたかどうかはまた別です。ただ谷崎が『源氏物語』の影響を受けて書いただけなのかもしれないけれど、これを客観的に見ると、そのように見えるわけです。この拡張の仕方、つまり自然と同じように人間の恋愛感情も移っていくこともありうるのだと、そういう問題を取り出していった特異さは、谷崎の異常性愛を描いている特異さと同じぐらい、あるいはそれ以上に谷崎の特異な点だと思います。
異常性愛ならば、別にたくさん通俗的なものを交えたものがないわけではないのですが、そうではなくて、まともな文学作品として、自然と同じような移り変わりを恋愛感情、あるいは男女間の問題、あるいは女性像、男性像の問題として描いていったことは、谷崎の非常に大きな特色だと僕には思えます。
このことがどうして重要と思えるかというと、僕なんかはそういう考え方をとるわけですが、男性の理想像は何か、女性の理想像は何か、それはいつやってくるのかという問題を考えるとすると、僕はこの場合、女性の理想像が主要な問題になっているわけですが、女性の理想像は、僕はかなり年をとってからじゃないと描けないのではないかという感じを持っています。つまりまかり間違えば初老過ぎになってしまうわけですが、そうならないと女性の理想像は成り立たないのではないかという気がしてしょうがない。多くの恋愛小説における女性の理想像は、若いとき、青春期、思春期ということに持っていくわけですが、これは生理的な、身体的な花が主体になっていて、本当はわからない。
では本当の理想像は、相当年をとってからでないと出てこないのではないかと思えます。男の理想像はどうなんだというと、男の理想像というのはないのではないかと思っています。その代わりというのはおかしいのですが、皆さんがご承知のとおり、たとえば政治家でいえば、いかにも政治家という顔をしています。つまり政治家というのはご当人がこういう顔をしなければいけないのだと精一杯思っているからです。また大学の先生は大学の先生みたいな顔をしているでしょう。それはなぜかというと、大学の先生はこういう顔をしていないといけないと自分で思っているから、そういう顔になるのです。要するにそのように個々別々に、職業別顔という理想像をつくらないと、男には理想像はないのです。
だからこれが理想の男性像だというまとまったものはなくて、せいぜい男性の理想像をいえば『源氏物語』の主人公の光源氏みたいに、いろいろな女の人と関係して、結構本音でもってちゃんと付き合って恋愛しているのだけれども、ほかの女性からあまり恨みを買わないというか、恨みを買っているのですが表立った恨みを買わないということができるのは、やっぱり相当大したもんだぜと思えば、あれは理想像です。だけどあんな野郎はいねえと思えば、(笑)もう全然お話にならないやつだということになるわけです。
だから理想像は、個別的につくる以外にないわけです。そして個別的につくるときに一番つくりやすいのは、職業別理想像です。それは少なくとも生理的、身体的にもつくれますし、また形而上学的にというか、知識的、精神的にもつくれるわけです。ですから僕が一番信じていないのは、精神的に内面が深く、そして広くなれば、その人の顔も自ずとそうなっていくのだという言い方が男についてもあるでしょう。でもそれはうそだ、そんなことはないのだと思っています。だから職業別の理想像をせいぜい自分でつくって、自分の職業だったらこうでなくてはいけないと思っていると、年をくってくるとだんだんそれに似てきます。だからそれ以外にないのではないか。だから統一的な理想像は男性にはないというのが僕の考え方です。
女性の場合には、それがあると思います。ですからどうしたらその理想の女性像のようになるのかというと、少なくとも形而上学的にというのも僕にはよくわからない。つまり知識、教養、マナー、根性、情念、その理想はこうだと蓄えて、それを考えて、考えて、考えていくとそういう女性になるかというと、僕はならないと思っています。そういうふうにしてなるのは、だいたい何々女史というような立派さにはなるのではないかと思うけれど、いくら内面をどうしたとか、深くしたとか、茶の湯、生け花をよくやったといっても、それは西欧についての知識、学識、教養を蓄えても、それは理想の女性像にはなりませんよと僕は思います。
女性には統一的な女性の理想像がありうると思っています。だけどいつ、どういうふうに来るのかとなると、これだ、こういうふうにと言うのがとても難しいように思います。その場合に、それが理想像ではないとしても、唯一その基準、ベースになりうるのは、谷崎が描いた女性像みたいに、あるいは男女像みたいに、容貌から精神の状態から、自然と同じように推移していく男女関係を保っていった人は、少なくともそのベースとしての条件を持っているのではないかと僕は思います。つまりそれはちっても理想像ではないのですが、ベースにはなりうるのではないかと僕は思っています。
ですからこれは皆さんが賛成されるかどうかは別で、僕の勝手な戯言ですが、地方の農家とか隠居しているおばあさんなんかで、ああ、いい顔をしているな、しわの寄り方から何からいい顔をしているなみたいなおばあさんに出会うことがあります。あれは結局精神のところはそれほど活発に鍛えたとか教養を持ったとかということはないのだけれど、たぶん生活習慣とか生活についての考え方とか、そういうことではきっと割合に自然に近いところの推移の仕方を、素直にたどっていった人ではないかと思います。そうするとかなりいい顔だなと思える人によく出会うことがあります。
しかし、これが理想像だとはなかなかいえない。そうすると、それはちょっとあるようでないではないかということになるのかもしれないし、ないようで本当はあるんだよといえるのかもしれないけれども、僕はそういう意味合いで谷崎は、現代文学の中で、あるいは近代文学の中で相当すごいことを作品の中でやったなと思います。
変わったことはもちろん初期からやっているわけですが、サド、マゾとか、異常性愛とか同性愛とかをたくさん書いていて、やりきれないと思えばそうなってしまいますが、これは早発性痴呆だと言った批評家もいるくらいで、いやになってしまうけれども、でも少なくとも『細雪』になったらいやになってしまうなと言う批評家はたぶんいないはずです。これはやはりすごいなと言う以外にない。それはやはりそういうことに帰着するのではないでしょうか。
エピソードを思い出すのですが、フランスのサルトルが日本に来たときに、日本のテレビに出てきて、日本の仏文学者の加藤周一だったと思いますが、対談などをして、日本文学をどう思うかと加藤周一が聞いたら、サルトルは、一カ月かそこらでにわかに仕込んだのでしょうが、私は谷崎潤一郎の『細雪』がいいと思うと言ったのを覚えています。この人はよく文学がわかる人だと、(笑)僕は思いました。
ところがそのときに加藤周一が、いや、『細雪』なんかだめだと言いました。なぜだめかというと、あれはブルジョアの姉妹、四人四様の青春期からの生き方や生活の仕方をなだらかに描いているだけで、どこにもいいところはないと加藤周一は言うわけです。だけどサルトルは、そうではない、僕が思うには、とてもよくできた小説で、日本の社会の全体性、日本の社会がどんな社会なのかを知らない、触れたこともない人でも、あれを見ていると日本の社会がイメージとして非常によくわかるし、あなたが言うようなことはないと言うのだけれど、加藤周一はまだ承知しないで、あんなのは一部のブルジョアの社会に過ぎないのだという言い方をしていました。
僕はやはりサルトルのほうが正しいと思います。つまり加藤周一が悪い左翼がかっているわけで、(笑)主題主義的なのです。どういう主題であるかということで文学のよしあしが、全部とまでは言わないまでもある程度は決まってしまうみたいな考え方が日本の昭和初期の左翼文学からずっと、いまも大江健三郎さんまであるわけです。原爆のことを書いたらいいのだというのがある。そんなことは絶対ない。
谷崎みたいに初期には異常性愛の退廃的な作品で、大家になってからは『細雪』みたいにわけのわからないブルジョア娘がどうしたこうしたと、ただ筋もないような推移だけを描いて、こんなもののどこがいいんだという理解になってしまうのですが、それは違うのであって、それは主題主義的な考え方なのです。文学というのはそうではない。文学は、この作品が好きか嫌いかは百人いたら百人違うし、それは違っていいわけです。またどれがいいか悪いかというのは、主題がいいか悪いか、主題が退廃的であるか、そうでないか、主題が悪を描いているか、善を描いているかということでは全然決まらない。そんなことは関係ないのです。文学というのはそういうものではない。だからそういう考え方はどうしようもないわけです。
それはサルトルの考え方のほうがいい。サルトルも左翼ですが、文学がよくわかる人です。だからそんなばかなことは言わない。僕は見ていて、そのときにああっと思ったのです。サルトルはイデオロギー、思想について言うときには、ちょっとおもしろくないな、おもしろくない判断をするなということがたくさんありましたが、こと文学に関する限りはまことに見事な評価の仕方をしていて、よくわかる人だと僕は思いました。
それは一つのモデルになることなのです。つまりその手のことはいくつかあります。たとえば文学は言葉の芸術ですが、言葉、あるいは言語といってもいいのですが、言葉の移り変わりがやはりそうです。だれが言葉を移り変わらせるのかというと、それは全然わからない。いまでもわからない。
六本木の街頭で新しい言葉が生み出されて、それが広まっていくと考えたらいいのか、あるいはそうではなくて言葉の専門家である文学者が、精一杯芸術的な作品を書いていって、それが模範になって言葉が変わっていくのだと考えたらいいのか、極端にその二つを考えてみて、どちらで考えたらいいかというと、それはまったくわからない。つまり両方ともこっちだとはいえないのです。そして多くの文学の人、作家もそうですが、文学を読む人は自分の好みにしたがって、こういう作品がいっぱいあれば文学の言葉は時代につれて変わっていくのだと思います。
だけど文学に関係ないのだけれど、六本木の街頭で援助交際を実行している女の子と、援助交際という言葉を発明した新聞記者と、それをくさしている道徳家とか政治家と、だれが言葉について一番敏感かといったら、それは六本木の街頭で援助交際を実行している女子高生だといえる。新しい言葉をつくるのもそういう人たちだといえるわけです。だけどそれで全部かというと、そんなことはない。文学、芸術の専門家がいて、その専門家は十年一日のごとく言葉をもてあそんで、また言葉を訓練してきているので、これにかなうわけがないじゃないかという考え方もありうるわけです。それはある程度真理です。そのとおりです。
素人が街頭でその場で思いついた言葉なんかがはやるわけがないじゃないか、それが言葉を変えていくわけがないじゃないかと言えば、言えてしまうところもある。だけど、お前、それが全部かと言えば、そうではない。それは言葉の専門家がよく間違えていることです。俺らが一番言葉の芸術について純粋に考え、そして純粋に書き、純粋に表現して作品にしている、俺たちこそが言葉を変えている人間じゃないかと思っていますが、そうはいかない。言葉には書き言葉と話し言葉があって、話し言葉については、全然そんなのは関係ない。若者とか不良少女たちが新しい言葉を生み出していくわけです。
そうするとだれが言葉を変えていくのかというのはわからない。昨日と今日で違う言葉が出てきたとか、違う言い方が出てきたのはだれのせいだというと、これのせいだと一義的に指すことはなかなかできないように言葉はできています。
この手の性質を持っているものは、いくつかはあります。たとえば写真も同じです。写真というのは今日、だれかの写真を撮って、明日また同じ条件で、つまり距離もタイムも同じで、明度も同じで、そして同じところから撮る。そして今日撮ったのと明日撮ったのと比べてみると、違わない、わからないということはある。それでは今日撮って、同じ条件で半年あとに撮ったら違うわけです。
だれが、いつ違わせたのか。それは少なくとも人工的にはわかりません。つまり自然がそうさせている。自然がそうさせたという中には人間も生理的にいえば自然ですから、だから人間は生理的にいまと半年あととは違ってしまって、しわが一つ増えたとか、そうなってしまったのだという言い方もできるけれど、自然という意味合いはそれだけではない。その間に女性と恋愛関係をして失恋したというと、普通ならばしわが寄らなくていいものが寄っているとか変わってしまう。つまり精神的な要素も変わったということに入ってくるのです。
写真もそうで、今日撮った写真と明日撮った写真なら、まず変わりはない、同じじゃないか。それでは明日撮った写真と明後日撮った写真はどうか。やっぱり同じじゃないかとなる。それなのにどうして半年あとに撮ると違ってしまうのかというのは、なぞといえばなぞです。理屈は通せますが、だれのせいだとはいえないし、わからない。もろもろのせいでそうなってしまって違ってしまう。
言葉も同じで、そういうふうにできていますから、だれがこうさせたのだというのはわからない。文部省がかなづかいはこうだ、こうしないといけないと決めたからそうなったというのもうそで、役人ごときがそんなことを決められるわけがない。ただひとりでに決まってしまうとか、文部省が決めたというのは、少しはしゃべるやつに作用を及ぼすということはあるけれど、そんなのことで決まるわけがないのであって、だから決まらない。だけどいつの間にか変わっている。
それは恋愛も同じであって、人間の関係の中にはそういうベースがあるのだということを初めて昭和文学の中で、あるいは近代文学の中で谷崎は示せたと思います。こういう評価の仕方は、いってみれば異端の評価の仕方ですが、僕自身は、それはとてもありうることであって、またとても妥当なところがあるのではないかと考えています。
そこのところで、昭和初年の文学はそこを拡張した、非常に特異な、かつ天才的といえば天才的な二人の作家をあげて、そこを通り抜けるとします。つまり芥川龍之介とか有島武郎とか、その前でいえば堀辰雄が入ってくるわけですが、それが細かいことを言うとあれですけれど、本質的に女性像、あるいは理想の女性像を変えたとは、とても繊細でデリケートにした、つまり女性像を単に自然の移り変わりとか、恋愛感情の大小とか、そういうことだけではなくて、女性自身の心理の移り変わりの微細なことも女性の理想像に関与することがあるぜということを言えば、堀辰雄や芥川龍之介なんかは入ってくると思います。
でもそういうふうに言わなければ、本質的に女性像がここで変わったということはいえなくて、変わったということを言うならば、やはり岡本かの子とか谷崎潤一郎で言ったほうがわかりがいいし、そのほうが妥当なのではないかと思えます。
このあたりで日本の文学は革命と戦争という問題、これはやはり二十世紀初頭にロシアのマルクス主義が生んだ考え方なんですけど――もっと遡ればマルクスが生んだ考え方とも言えます――戦争というのは革命に転化するいいチャンスなんだ、革命というのは戦争や内戦に移りやすい、それから国際間の戦争になっていくこともある。つまりこれは相互転換するものだという考え方は、その相互転換というのはいろいろな意味で重要な問題なのだということはマルクスやマルクス主義があれしたことなんですが、そういうことは言えるんですけれど、そういうことも含めて日本の左翼運動は、文学も含めて政治運動、社会運動としても革命運動、あるいはその周辺でもっていろいろな文化運動をするみたいなかたちで、戦争へ突入していくわけです。そうではない人たち、純文学の人たち、純粋文学で、つまり堀辰雄みたいな人たちも、やはり戦争に突入しているわけです。
そうすると、その突入していった場合に、一番わかりやすく、一番単純に言ってしまえば、純文学の側も左翼文学の側も、両方とも戦争文学に入っていくわけです。日本の戦争文学の特徴は何かといったら、要するにはやりだ、はやりで書いている。いまは命を的にして戦場で、ドンパチドンパチと殺したり、あるいは殺されたりしていって、それが一番心に響くことだから、こういう文学を描こうとか、あるいは戦場に行かないで工場に行って、工場で労働者がいろいろなかたちで武器を生産するとか、軍需品を生産するということも含めていろいろな生産物をたくさんつくるようにしようということで、職場でいっぱい働いて戦争に貢献している。
それこそが最も積極的な場面だから、そういうのを描こうという考え方とかさまざまなではあるわけですが、いずれにせよ戦争の中に一様に突入して、それははやりとして突入していくから、あとで読むとばかばかしい、つまらないことを書いているなというふうにしか読めない。そういう作品になってしまったわけです。これは戦争の一つのくくり方です。この戦争のくくり方を、できる限り戦争はやりでもって戦争の物語を書いてというのではなくて、たまたま自分にとって切実な主題だから戦争を主題にした作品を書いたというように、はやりでもっていい加減に書いているのではなくて、かなり本気で書いているという人、比較的立派な人だなという人も少しはいないこともなかったのです。
順序よく例をあげてみますと、たとえば宮沢賢治という人がいます。これは太平洋戦争に入る直前に、あるいは中日戦争に入る直前にもう亡くなっています。書簡の中でシベリア出兵問題に触れたりしたものがありますが、それだけのことで別に先頭には関係がない。戦争中だとしたら太宰治という人がいて、これは戦争を主題にした作品を書いていますが、そんなに薄っぺらで、何だこれはという作品ではない、比較的いい作品を書いているといえる。それでも健康でかなりの程度薄っぺらな作品になってしまっていますが、そういう割合にいい戦争の処し方をしたじゃないかという作家もいます。
それから戦争中はまだ新人でもあり、文学作品を書こうとしているんだけれど、おおっぴらに公表したりというところにまだなっていなかったとか、あるいは戦争はそんなにいいものではないと思っていたとか、いろいろな原因があるでしょうけれど、戦争に特に迎合したとか便乗したとか薄っぺらだというものを書かないで、戦後文学として出てきた作家もいるわけです。
反対のほうから、たとえば埴谷雄高さんは、戦後まで雑誌の編集者をやったりいろいろな職業を転々としたりはしていますが、文学者としてはおおっぴらに作品を公表したことがあまりないという人です。そういう人が戦後文学の第一次的な文学をつくって、そして自分は『死霊』という作品をずっと書き続けて、終わらないうちに亡くなりました。
その『死霊』という作品は、「死」ということでいえば、左翼運動をやって、左翼運動がだめになってしまったところの「死」と、それから戦争で自分が兵隊には行かなかったけれど、丈夫な人、達者な人はみんな戦争に入っていって、死んだり、けがをした。そういう人の「死」と、つまり二重の「死」を踏まえたうえで、たとえばドストエフスキーならば『悪霊』という作品がありますが、つまり結構意地悪く社会を攻撃し、抵抗した人たちのありさまを描いたものですが、自分は悪霊では済まないで、死霊という以外ないような全面的な戦争の中に入っていってしまったという体験もその中に含まれていると思いますが、『死霊』という作品を書いたわけです。
何が特徴かというと、今日の主題でいえば、もし死の世界、全部が死んでしまった、そういう世界に女性があって、そういう世界の女性がそういう世界の男性、つまり幽霊に等しき男性と恋愛したらどう振舞うだろうかということを、『死霊』の中から導き出そうとしますと、出てこないことはないわけで、出てきます。それは日本の文学の女性像としては、非常に珍しいのですが、やはり類例がないと言いましょうか、つまり死霊というかたちで死を体験した文学は、日本文学しかないのです。
たいていは途中戦争に入っても、抵抗の文学みたいなかたちはあったのだみたいな、そういうふうに西欧ではあったりしますから、あれはナチスに抵抗したのだというふうにいう文学はあったとなっていますが、日本の場合にはそういうことはありませんので、二重に死んだというかたちの体験しか持っていないですから、これを主題にした場合には勢い、世界に類例のない文学だということになります。その類例のない文学を、類例のないかたちで書いていったのが、この『死霊』の埴谷雄高さんという人だと思います。この中に理想の女性像が出てきます。
宮沢賢治のように、戦争の直前に死んでしまった人が、死の女性、あるいは死んだ女性を描いた作品が一つだけあります。それは詩の作品ですが、未定稿で一つだけあります。それを読んでみましょうか。
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十戔だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壷にさして
店へ並べて居りました
夕方帰ってきましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円で売れたといふのです
これは宮沢賢治特有の中間にある言葉ですけれど
・・・その青い夜の風や星
すだれや魂を送る火や・・・
そしてその冬
妻は何の苦しみをいふうのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
これが宮沢賢治の詩です。これはなぜ読んだかというと、一つはこれを読みますと、やはりこれは生きている女性がいて、それが自分と一年間同棲していて、花をもらってきたのを出しておいたら売れたので、果物を買って自分の帰りを待っていたというのではなくて、ここで出てくる女性は、やはり死んだ女性の姿、あるいは女性の理想像を死んだところで描いているとどうしても思えるわけです。
なぜ理想像かというと、宮沢賢治という人はご承知のように、結婚なんかしたことがないし、女の人と恋愛したこともない。だからこれは架空のことです。この「わたくし」も架空ですし、同棲していた妻も架空のものです。ですから宮沢賢治の詩の中で、唯一架空の詩で、結婚もしていないのに同棲したときのことを描いているわけです。これはかなり意図的というか、意識的に宮沢賢治が理想化して描いている、あるいは自分が女性の理想を求めるとすれば、決して理想ではなくて幽霊なのだけれど、こういう女性だと思っていることが、書かれていると判断するのが一番妥当な気がします。
これは宮沢賢治が結婚もしていないのに、結婚をして同棲したみたいなことを主題にして書いているただ一つの作品で、たぶんこれは宮沢賢治は妹が好きで、自分をよくわかってくれていた人でしたから、妹さんが亡くなってずいぶん悲しんだ詩を書いています。つまりこの人は、妹さんのイメージをここに入れたのではないかと何となく思えるのですが、これはやっぱり架空の詩です。つまり宮沢賢治がもし理想の女性を描くとすれば、このようにしてしか自分には描けないということを言っているのではないかと理解するのがいいと僕は思います。この場合もそれがいいと思います。
宮沢賢治という人は怖いところのある人で、怖いことを書いているなということはいくつかあります。この詩も未定稿でおおっぴらに公表した詩集の中に入れているわけではなくて、一種の草稿として置いてあったものですが、これはなかなか怖い詩だなと思います。これは、俺が女性を描くとすればこういうふうにしか描けないよなと、つまり幽霊の女性みたいにしか描けない。つまりやさしくて、あまりおしゃべりもしないのだけれど、こういうふうにして自分が帰ってくるのを果物などを買って並べておいて待っていてくれた。そういうのを理想の女性像として描く以外にないなということを宮沢賢治は考えていたのではないかと僕は思います。
これはやはり宮沢賢治の死の女性、死をくぐったあとで女性を描くとすれば、こういうふうに空想されるよと描いた作品だと思います。宮沢賢治は女性を死のあとで描いていないけれど、作品としてはずいぶんいい作品を、死後の世界として設定してイメージで描いています。これは本当らしいフィクションで描いている唯一の詩だと思います。
太宰治になると、僕らが覚えている範囲でも、具体的に『果実』という小説集には戦争のことが一番書いてあって、自分のお弟子さんだった兵隊さんが戦地から太宰治に、いい作品を書いてくださいという慰問袋が来たとか、そういう作品がそこに入っています。あまりいい作品とはいえない作品ですが、それは太宰治の戦争中の主な作品で、『果実』とか、また戦後にかけていえば魯迅の自伝を書いてみたり、また『お伽草子』という昔から日本にある『かちかち山』とか『さるかに合戦』とか自分なりにアレンジして一つの作品にしてしまい、それを防空壕の中で子どもに読んで聞かせたみたいな書き方でそれを書いています。それもものすごくいい作品ですが、おやおやという作品もないことはありません。でも比較的にいえば、こんな立派な文学者は少ないというほどの作品を残しています。
戦後の太宰治は、読者には非常にアピールしてもてはやされましたが、自分はやけくそで、自分は戦後のあらゆる建設的なことを言うやつには全部反対だ、反対のことを言ってやるとか、反対のことを実行してやるというかたちで、実生活上はそういう生活をして、まったく自殺に至るしかないというような生き方をした人です。いい作品はもちろん書きましたけれども、そういう人です。
戦後のそういう作品の中で、太宰治の理想像は戦前とちっとも変わっていません。たとえば『メリイクリスマス』という短い作品がありますが、この作品の中に出てくる絵の好きなお金持ちの奥さんがいて、旦那さんと別れて自分は一生懸命絵を描くのだみたいに言って、太宰治にほめられようと思ってその絵を持ってくると、太宰治はそういうのがわかっているから、こんなものは絵じゃない、あんたは芸術なんかわからないんだとか、めちゃくちゃくさすみたいな作品があります。そこに出てくる婦人は、太宰治の理想像です。
それからもっと初期からつながっていて、初期には、たとえば『黄金風景』という作品があります。ここには理想の女性像が描かれています。それは実在でいえば、自分の乳母だった女性です。自分におっぱいをくれて養ってくれた人です。それが理想像です。自分はお金持ちの意地の悪い子どもで、お手伝いさんのお慶さんにさんざん意地悪を働いて、小さい切り抜きみたいなものをわざと切り抜かせてつくらせてみたりとか、引っぱたいてしまったりとか、自分はまったく手のつけられない悪い子どもだと書いています。これは誇張でしょうけれども、そのように書いています。
お慶さんは、私は父親にも頭に手を挙げられたことはないんだと言って、そういうお手伝いさんをいじめたり、ろくなことはしなかった。自分はモルヒネ中毒か何かで、船橋に下宿して一人で病気を養っているわけですが、あるときそこにおまわりさんが来て、住所録を見て本名を知って、あなたは東北の津島の人か言う。そうだと言うと、自分の細君はあそこでお手伝いさんをしていたことがあるのだというわけです。懐かしい、今度はあなたのところにそろって遊びに来てもいいかと言うと、太宰のほうはいじめた記憶しかないので、それは勘弁してくれと言うわけですが、向こうはそうではなくて懐かしいというので、かつてお手伝いさんだった奥さんと子どもを連れておまわりさんが挨拶に、遊びに来るわけです。
太宰治は困ってしまって、俺はちょっと用事があるから町に出るからと言って、置いてきぼりにして、そそくさと家を出て行ってしまう。脂汗をかくようにして、俺はあのお手伝いさんをいじめて、意地悪ばっかりした記憶しかないんだけれど、何か親切にしたみたいなことを言われたら、もう立つ瀬がない、早く帰らないかと思って町中をうろうろ、うろうろして帰ってくるわけです。
海岸のところまで来ると、向こうにその奥さんであるお手伝いさんをしていたその女性と子どもがそばにいて、後ろ向きで石を海のほうに投げて遊んでいて、そのそばを通って聞くともなしにその話を聞くと、あの人は子どものときから、それはそれは立派な人で、自分に親切でという話をしているわけです。それを聞いて参ったというふうに太宰治は思っているという作品で、十二、三枚の短編ともいえない作品ですが、ものすごくいい作品です。
そういうふうに太宰治は書いている、そのお手伝いさんが理想像なので、その理想像で戦後になって会いに行ったりもするのですが、そのお慶さんにプラスアルファで、知識、教養もあって、近代的でというようなものを、そのおまけとしてその人が持っていたら、本当の理想なんだけれどもなというのが、たとえば『メリイクリスマス』なんかに出てくる奥さんはそういう感じです。
つまりお慶さんというお手伝いさんをもっと理想化したところが太宰治の理想像だというのは、もともと出ているのですが、そういう理想像を持っていて、それは太宰治の場合には、女の主人公には出てこなくて、男の主人公には完全に出てきます。それは『右大臣実朝』という長編の中の実朝がそうですし、『駆込み訴へ』という聖書のキリストを描いた短編がありますが、そのキリスト像は太宰治の理想の男性像ではなくて、本当は女性像なのです。それを男性像に変えて太宰治は描いているわけです。
そういうふうに描くことで、何となく太宰治なら太宰治的に死をくぐったあとの理想の女性はどうならなきゃならないのか、理想の人間像なんだけれども、いい家庭の立派な婦人には絶対にならないのだというふうに理想の女性像を描いていると思います。それが太宰治が死をくぐったあとに女性の理想像を求めるとすればこうなるというかたちで、それは性を変えるというかたちか、そうでなければ子どものときのお手伝いさんが知識、教養をひとりでに持っていたらどうなるだろうかというかたちで、太宰治の理想像は描かれていると思います。
悪い像を太宰治はあまり描いていないのですが、その理想像は男のかたちと女性のかたちと両方のかたちで描いていると思います。おっとりして何も言わないんだけれど、何でもよく心得ていて、ただ言わないだけで、こうしてくださいと言えば、はい、いいよと言ってそうしてやる。そういう一種、何ともいえない、太宰治ではければ考えそうもないような理想の女性像、あるいは理想の男性像を描いています。
最後に『死霊』の理想像は、主人公といえば主人公ですが、三輪与志という青年がいます。東京の高等学校を出て、地方の大学を出て、帰ってきて何ともいえずふらふらして文学青年といっていいのか、そのころのニヒリスティックな政治青年の果てといっていいのか、政治運動と戦争と両方をくぐって、もう現世で何かつながりのある、あるいは現世で何か意味のあることは全部失ってしまったという青年像です。その青年が、現世には絶対にありえないもの、あるいはこれからもありうることのないものだけしか、自分は関心を持たないし、追求しない。そういうかたちで主人公を設定してあります。
その主人公の許婚者になる人を典型にすれば一番わかるのですが、それは津田安寿子という名前で作品の中には出てきます。それはどういう女性か。やはり生きた女性とは思えない。あるとき、三輪与志が津田家を訪れていくと、そこに十二、三歳の女の子がいるわけです。その女の子は、その場ですぐに自分の親の陰にすぐに隠れてしまって、また顔を出したりしてというかたちで、要するに恥ずかしがっているのですが、もうそれ以外何も言わないのですが、それが三輪与志に対する一目ぼれの恋愛だということになっていくわけです。
つまり恋愛の仕方も、年齢的に普通にいう女性が男性と、男性が女性とという恋愛関係の年齢では全然ないところで、恋愛感情を持ってしまって、しかもそれは一目ぼれであって、つまり何だから好きだとかということではなくて、もう理屈なしに一目ぼれで、その場で好きになってしまって、その場で恥ずかしくなって隠れてしまってというようなふうに『死霊』の中で理想の女性像が描かれています。
それはやっぱり生きた男性に対して、生きた女性が恋愛感情を持つとか、生きた男性が反対に女性に対して恋愛感情を持つとかということのはるか先のほうで、たまたま遭遇したら、十二、三歳なのに、もうそういうふうに一目ぼれになってしまってというかたちで、作品は展開していくわけです。津田安寿子という女性は、どういうふうに描かれているか、ちょっとそこの何行かを。会って一目ぼれというところです。
少女はその息に化石していた。呼吸を忘れたような鋭いひきつりは、喉元をかすめていたはずなのであった。少女は、ひきつりが喉元をかすめ過ぎると、淡黄色の日を受けた顔色がすっと紙のように白くなった。病気だなと三輪与志は気づいた。彼はそのとき、卒倒という発作がまるで石灯か何か重い垂直な物体をそのまま横倒しにするように起こることを知ったのであった。彼はすいと手を差し出し、その少女が棒のように硬直したまま斜め後ろにのめった瞬間に抱きとめたが、彼はそのとき時間を微細な瞬間へ至るまで、一瞬の狂いもなく緻密に分解できるような気がした。一瞬一瞬に物体としての硬い固定した重みが加わってくるのであった。それは小さなおもちゃ屋の店先であった。彼は少女を担ぎこむと、道路際に陳列してある細い首をもたげた木製の白鳥をがらがらと押し倒し、そして店の奥から出てくるあわただしい人影や、街路から集まってくる人々から逃れるようにその場を立ち去った。
少女の一目ぼれの仕方はそこのところで卒倒するというかたちで完了するわけです。それに対して男性のほうは、その卒倒した体が石灯籠のように倒れてくるのを抱きとめてやったというかたちで人々が集まってくるところから逃げていったという描き方をしています。
どこにもセックスの匂いもしないし、エロスの匂いもしないし、また生きているけれども感情の動きが言葉としてほとばしったというふうにも描かれていない。だけどこれがやっぱり男性と女性が付き合って、そして一目でとことんまで好き合ってしまったというところの付き合い方の描写は、だいたいこういうふうなものなのです。これが生きた男性と生きた女性、しかも若い男性と若い女性の恋愛だとか出会いだとかといえるかといったら、まったくいえないわけです。
それではまったく正常かというと、それもいえない。これはちょっとエキセントリックな女性とエキセントリックな男性との出会いを描いているのかというと、そうともいえないわけです。どうしてもそこに死という影がそこに加わっていないと、こういう出会い方とか、こういう描き方はできないというふうにしか描かれていないわけです。でもそれはやっぱり作者にとっては理想の女性像であり、理想の女性との出会い方であると言うほかないのです。
自分ももし本当にそうなら、こういうように死んだ人間として戦後の社会に生きて、それで作品を書いてというふうになっているのが、本当の意味の自分だ。またその後、自分が好きな女性がいるとしたら、同じように生きた若い女性として恋愛をし、そして一緒になり、豊かな感情を働かせてと、そういうふうにはならないで、やっぱり本当にわけがわからない、これは何か異常な人間なのではないか、異常な人間がヒステリーになったときのあれじゃないかというふうにしか思えないような、そういう出会い方とか、そういう好きになり方しかできないと女性のほうもそういうふうに描いています。
これは、もちろん小説の主人公たちで架空のものですが、ある意味ではやっぱり自画像のいくぶんかをそこに入れ込んでいて、しかもそれがかなり本音を入れ込んでいると思います。つまり本当に厳密にいえば、この戦争とその前の日本の左翼の革命運動期と、それからそこから戦争に入っていく時期と、それをくぐり抜けて表通りに出てきた人は、少なくとも理想像としてはありえないのだということを作者は言っているのだと思いますし、またそのとおりだと思います。
自分はそれにもかかわらず、病気ですが、戦後に生きて、この作品を生涯にわたって完成させてと書いていくとすれば、かつてありえなかったもの、またこれからもありえないもの、そういうことばかりを行い、そしてそういうことばかりを考えるような人物を描くしかいたし方ない。またそういう世界を十分に描けたら、そこでなら人間の男女、あるいは近代日本の男女は生きて恋愛もできるし、その理想の女性像も描くことができると、作者は厳密にいえば本当に本音を言って、そういうふうに考えていたと思います。
大変珍しいというか、少なくとも世界文学の中で、類例のない作品であるということと、類例のない作家であるということはいえると思います。こうまで自己を虐待しなくても、あるいは自己の精神を虐待しなくてもいいじゃないかということがありうるわけですけれども、しかし別の面からいいますと、戦争を知らない人は大きな顔をしてもいいわけでしょうけれども、戦争を知っている世代の人間はこれぐらいのことをいつでも考えていなければ、大きな顔をして生きていることなんかできないのだということは本音をいえば、それだけの厳密さを追求していかなければどうしようもないみたいなことは、いまでもあるわけです。
戦争をくぐった人とか政党とかで、物忘れが早いやつだなと思える、僕らには何かちょっと耐えられないなというふうに思うのです。それは厳密さです。それなのにお前は生きているというのはごまかしだといつでも自分のことを見る目をもう一つ持っていないと、とても生きていかれないというのが、埴谷雄高の世代とそのあとの世代、僕らがそうですが、そういう世代は、本当を言えばそう思っているわけです。
でも僕に言わせれば、こうまで作品の中に自分を閉じ込めなくてもいいじゃないかと僕は埴谷さんに言いたいところがたくさんありましたし、またそうでないと、どこかでうそになってしまう。サルトルのように自己欺瞞がどこかで出てくる。だからそれは自己相対化をしないと、ちょっとだめじゃないかと思う。僕らが埴谷さんに対して批判があるとすれば、そこのところです。
しかしこれだけ厳密に、自分が死を二つくぐった、あるいは自分らの世代、あるいは自分らの年齢、それから自分らと一つあとの年代の年齢で戦争をくぐった、僕らは戦争だけしかくぐらなかった世代ですけれども、僕らよりも五年も前の人だったら、もう一つ左翼運動の名残もくぐっているわけです。そうするとそれくらいの年代の人が、何かふっと日本で生きているのはおかしいじゃないかというのが、厳密にいうと本音ということになると思います。
それほどやっぱり全滅に近い状態というふうに、少なくとも精神の問題、それから理念の問題、それから内面の問題、そういうものから言ったら、われわれの日本の社会というのは、日本の戦後社会、戦争をくぐったことがあるやつというのは、もう全滅なのに生きているじゃないかとか、生きて何か言っているじゃないかというふうにしかいえないと思います。
それは僕らがいつでも考えていることで、そこのところで僕はやっぱり何か自己欺瞞というのは嫌なものですから、嫌だというのはだれから教わったかというと、僕は親鸞という日本の中世の宗教家からそれを教わりましたけれども、自己欺瞞というのは嫌だと思うから、僕は埴谷さんとは反対にだらしなく生きよう、だらしなく生きて、だらしなくものを書こうとか、振舞おうとか、そういうふうに僕は逆に考えることで自分をごまかしてきたというか、慰めてきたと思っています。
だから埴谷さんは逆であって、本当は生きていられないのだけれども、肩のどこかに死が二つ乗っかっているんだけれど、自分は生きたふりをしているというふうにしょっちゅう思っていて、だから僕らから見ると、それはちょっと自己欺瞞じゃないですか、そうなのに、あなたがたとえば文学者の反核運動の署名の発起人になってみたり、何か左翼的言辞を弄している。弄してもいいんだけれど、弄してきょとんとしているのはちょっとおかしいじゃないかというのが僕の批判だけど、逆に埴谷さんのほうからいうと、お前は部屋の中にシャンデリアがあるじゃないかとか、お前はコム・デ・ギャルソンの洋服を着て、あんなぶったくり商品のモデルになったりしているじゃないかと言うんだけれど、僕のほうはよせやいと思って、あなたのほうが欺瞞なんだと思って、それが論争の種になったというわけです。(笑)お互いに譲らないというのか、これは欺瞞を避けるにはそれ以外にない。
つまり自分でイメージしているのだから、当たっているか、外れているかわからない。自分が自分をイメージしているその自分と、自分がイメージしている自分の読者があって、それが当たっているか外れているかは別として、それ以下のイメージと思われることは何でもやっていい、それ以上と思われることは絶対するなというのが僕の考え方です。
埴谷さんはそうじゃなくて、逆なのです。二度も死んだ体験は、確かにみっともなくて、恥ずかしくてしょうがなくて、これを免れているやつは日本にはだれもいないんだ、だけど俺らもこういうのを作品として生涯をかけて描かざるをえないとして描いてきた立派な人で、いい作品です。だけれども、どこにおかしいところがあるかというと、僕からいえば、そんなに実生活上で、つまらないことを言うじゃないのということを言うというのは、やっぱり弱点だと思います。
これは西欧の文学にはないので、実生活の問題と作品の問題は違うよといえるんだけれど、日本の場合に特に第二次大戦までくぐった場合には、死が二つも重なっているので、これでもって死んでいないというのはおかしい。何か首を二回取られてさらされたみたいなもので、これで生きているのはおかしいじゃないかと考えるのが本当だと僕には思えますけれど、これはやっぱり埴谷さんもそう思っていて、それを作品化していって、とにかくそれをつくったという類例のない作家です。つまり二度殺されたというのはないのです。
ドストエフスキーも一度は殺されたのです。つまり死刑宣告を受けて、死刑台のところでもう撃たれるような身振りまでされて、それでもってご赦免になったというので、正気じゃないというところまで追い詰められるわけです。ドストエフスキーはそういう体験がありますが、埴谷さんなんかはそういう死の体験を二つしていて、これで生きて恬としていたらおかしいじゃないかということと、これはやっぱりそれを作品化せざるをえないじゃないかということで、生きていったということは大変珍しくて、ジャーナリスティックじゃないですけれど、大変優れた作家です。それで作品も大変優れています。
ただ、ちっともおもしろおかしくない。(笑)おもしろおかしくないというのは、いい意味でおもしろおかしくないのです。それで悪い意味でそう言いたいのならば、つまりエロチックじゃないのです。あれはエロチックじゃないから作品としての、芸術としてのよさの中にエロチックな要素がないのです。
いま読み上げましたように、僕は満足にも読めないですけれども、つまり女のほうも男のほうも何をやっているの。(笑)つまり精神がおかしいんだ、女のほうはたまたまヒステリーを起こしたのだとか、男のほうは世間であまりしゃべることができない、そういうやつなんだ、性格異常と頭がおかしい女性とが出会って、夢中になって恋愛が始まったのだと解釈したいんだけれど、それはちょっと違うぞ、これはおかしくないぞと。どこかでおかしくないのです。だけどこう描かざるをえないという世界ですから、これを戦後の文学の世界でそれを一生懸命実現しようとして、それで中途で終わりましたが、しかしそこで新しい小説概念とか新しい女性像、あるいは死の女性像といってもいいのですが、それをつくりだして描いている。それはやっぱりすばらしい、いい作品です。日本のだれかれという作家の作品と比較してみて、これはいい作品だな、いたし方ないなと思う。
ただ要するにエロチックじゃない。そういう意味合いのアピールはありませんが、しかしこれほどそういう世界を殺してしまって、それで論理だけで生きているような人物だけを登場させて、それを何日間の間のできごとに圧縮してしまって大長編を描いた。もちろん短編もありますが、こんな人はやっぱりいないよなというふうになるわけです。この人は、それこそ世界史の中でというか、現代の世界の中で、ロシアのフルシチョフが第二十回のロシアの共産党大会でスターリン批判をやって、そこからだんだんロシアのマルクス主義がガタガタになるのが始まったわけですけれど、それよりも前にスターリンの言語学、それから経済学、国家論を正当に批判している日本では珍しい人です。
この珍しい人というのは僕が知っている人で二人いるわけですが、この人と、それから哲学者で三浦つとむ、この人はやっぱりそれをやった。これは世界でだれもやらないのです。やったらいいじゃないのと思えますが、やらないのです。やらないほうがご立派だというような風潮は、日本にもあったのですが、ところが埴谷雄高と三浦つとむは、この世代の人で、世界のどこよりも先に、ロシアよりも先にスターリンの批判をやった人です。これはそういう意味合いでも非常に先駆的な人で……。これはよしましょう。言ってもしょうがないですけれど、大変こんな難しいところで難しいことをしたな、よくやり通したなと思います。
僕らはまねをしろと言われてもまねができないですし、僕はむしろ逆に考えたほうがいい、反対に考えるべきだ、これは親鸞の宗教理念から大変教わったことですが、つまり親鸞も中世の人だけれど、とにかく仏教を超えた破戒坊主だということはみんな知っている。つまり獣を食うことも、女性と関係してはいけないという当時の僧侶が持っていた戒律をあらゆるものを、そんなことはないと全部破ってしまった。最後にいえば、法然の系統ですから浄土宗、浄土真宗で、要するに念仏を唱えることも法然が始めたわけですけれども、念仏なんていうものは生涯に一回唱えればいいんだというところです。つまり一回唱えればいいので、あとは余計なことだから、まだ生きていたらやればいいじゃないか、それだけのものだ、誠心誠意を込めて一回唱えたら必ず浄土、つまり天国に行くぞと親鸞は考えた。
変な修行なんか全部するな、お経を読んで、お経を研究したり、そんなことは絶対するな、そんなものは全部やめてしまえといって、自分もやめてしまったわけですけれども、そういう人です。当時でいえば、あらゆる破戒僧的なことを全部やっているわけです。日本の仏教、宗教は中世に解体してしまいました。それで一種の思想的な運動としてしまって、自分は自ら実行して破戒僧で、そんなことを言ったら、悪いことばっかりしかしていないのです。つまり坊主としてけしからんことだけしかしない。首の皮一枚つながっているだけです。
法然の弟子でも一番弟子みたいな人で幸西という人がいますが、その人なんかはもうやめちゃえ、生涯に一回唱えればいいんだ、一回唱えるくらいならもうやめちゃえ、唱えなければいいんだ、心の中で思っていればそれで往生できると言い出して、それは無念義というわけですけれども、法然の弟子でもそういう人がいて、親鸞は首の皮一枚でつながっている。一回でたくさんよというわけです。あとは余計だから、余計なこととしてやりなさい、修行していてもいいことなんか絶対しちゃだめだよ、それをしていたら往生できないよと、そういうことを言っています。
つまりこの人に僕は基本的にずいぶん影響を受けて、僕らもそういう考え方です。だから自分のイメージ以下だったらいいよ、以上だったらだめだよ、以上だったら絶対にするなと、僕らはそうやってきました。これはやっぱり公正なるほかの人の判断に委ねるしかないですけれど、僕はそうしてきましたから、それはたぶんいまもやっているし、できていると思います。これはちょっとでも偉いと思われることは絶対しないぞ、その代わりあいつは堕落したとか、だめだといわれることならいくらしてもいいぞというのが僕らの考え方です。
ここらへんのところで終わらせていただきますけれど、ここらへんのところは、何か一番僕の優れた読者だという人は理解してくれないのです。あいつはああいうことをしなきゃいいのにみたいなことですが、僕は反対なんです。つまりこんないいことをしやがったとか、こんなところにいいことを書きやがったということはあまりしないという考え方です。これがいいんだとはちっとも言いませんけれど、ここは僕らの思想の試金石で、ここがうまくくぐれたら、二十一世紀までくぐれるぞと思っているのですが、なかなか危なっかしいところです。日本の文学も難しいですけれど、文学の基本的なイメージ、つまり文学の基本的な思想は大変難しくて、やっぱりたくさん考えないといけないことは残されていると思います。
埴谷さんという人は、それをいろいろな意味で見事に残してくれた人で、この人はもったいぶらなきゃいいんです。もったいぶらないで、『死霊』だって、がっしりしたでっかい本で、黒い表紙で、こんなことであれしないで、こういう趣味をやめて、これはやっぱり文庫本で出してしまう。そういうふうにしていくと、皆さんの目に映りやすいし、読まれやすいんですけれど、きっと読まれるか、読まれないかというのは生きた世界の人の言うことで、俺は別に知ったことではないと思っていたと思います。だからそういうことをあまりあれしないんです。
僕は反対で、いまそれほどできてないですけれど、できたら最もくだらないイメージだと思われることを、どこかで遠慮したり妥協したりしないで、そういうのが本気で書けたらいいなと、そういうのを理想像としています。それはお前、無理だろう。途中まで行くけれど、どうしてもそれがいまのところできていない。でもいずれはそこまで行くんだと思っています。それで行けなければやっぱり二十一世紀まで行けないよと思っています。
これは僕がある失業の時点で、パチンコとかスマートボールとかで金に換えて食っていたことがありますけれど、そのときもどうしてもプロになれないということがあった。それは要するに意味ないのですが、どうせそうなっていくのですが、朝早く行って、この店で、俺のやり方でもうかるのは、この台とこの台と、みんな決まってくるわけです。だから朝早く、開けるが早いが、そこに行って座ってしまえばいいわけです。でもあまりそうやっていると何か店のあんちゃんに対して、俺のほうが恥ずかしいと自分で思ってしまうわけです。向こうはそう思っていないかもしれないのだけれど、そう思ってしまうわけです。
それはできなくて、どうしてもだめだと諦めたことがありましたけれど、あんちゃんのほうは、そんなことは平気だというのでやっていると、今日はこのくらいでお帰りくださいといってちゃんとくれるわけです。だけどそこまでやれば商売になるわけですけれど、なぜか恥ずかしい。何と言ったらいいのかわからないけれど、恥ずかしさというか、やっぱり自分のふっきれなさとか、至らなさとかいろいろな問題が絡まってきて、これができないのです。それで諦めたというときがありました。
いまはまだ生きていますが、まだやれるぞと思っているから諦めないのですが、僕らはそういうのを理想像に描いて、埴谷さんとは正反対になってしまいますが、でも非常に偉い人で、文学者としても偉い人ですし、作品としても偉い人で、やっぱりやり通した立派な人だと思っています。日本の文学は捨てたもんじゃないぜと、やっぱり思えることは、ときどき、あるいはいくつかはあるわけです。それがあるから、やっぱりある程度突っかえ棒になって、文学とか諦めないということがあるのです。だからものすごく突っかえ棒になっているんですけれど、もうそんなことは言わないで、お前が突っかえ棒になれと言われても、僕はもうだめだよと思っているわけです。別の意味の突っかえ棒ならなれるかもしれないと思って、それを頼みにしているというのが現状です。
この『死霊』みたいな作品が、おおっぴらに出てくればいいと思っています。いわゆる日本で思想小説といわれるのは、長与善郎の『竹沢先生という人』という作品がありますが、これがそういわれていますけれど、これと比べてみればわかりますが、こっちは別に理屈っぽいやつが小説の中に出てきて、小説の芸術的構造なんていうのは無視して勝手なことを言い合っているよというようなものにすぎないのですが、埴谷さんのはかなり本格的な思想小説だと思います。
ですからこういう作品は何か文庫本みたいなかたちで出てくるといいのですが、いまのところはそうではなくて、既刊本みたいに立派な本として、立派な装丁で出てきていて、ご当人も、それから装丁する人も、これは上等な、高級な装丁だと思っているわけだし、出版社も高級な本を出していると思っているわけだから、これはまだちょっとなかなか二十一世紀は来ませんよと僕は思います。
だけどそれは非常に問題提起であるとはいえるので、日本の現代の文学、あるいは近代文学が明治以降にいろいろなことをやってきたのだけれど、いまのところここらへんのところが至りついているところじゃないかといえるのは、ここまでだと思います。これから以降のことはまったくわかりません。またどういうものが出てくるかわかりませんけれども、いまのところはここがとにかく精一杯じゃないのか。この精一杯というのは、精一杯やっているからなかなか批判的にはなれないのですが、違う方法を持っていると思っているから僕は批判しますけれど、これはまだだめなのです。
つまり高度ということ、高級ということと低級ということが裏返しになるところまで高級さというのはやりきれないと、本当はだめなのです。そこの問題がやはり残っていると思います。だからこれは何とかこれからなっていかなければいけないし、行ってくれるだろう、行ってくれないかなと僕自身は思っています。そうではなくて、高級なものは高級だとか、高級なことをやっている人は高級な顔をしているというだけだったら、僕はあまり感心も何もしないです。だけどそこはなかなか吹っ切れないというのが現状ではないでしょうか。
ずいぶん余計なことにまで渡りましたけれども、たぶん近代文学の女性像ということではここらへんまでが最終的なところといいますか、最後のところなのではないかと思います。特に女性の人から見たら、男のやつが書いている女性像なんてちょっと絶望的だねということになると思いますけれど、それはご自身が奮闘していかなければいけないということでもありますし、男のやつを変な学校の教育から違うところで教育しなければいけないという問題かもしれないし、変な古いやつはみんな死んじゃえということかもしれない。わかりませんけれども、大変難しい問題が、女性像に対する女性の側からの判断となってくると、その問題が大変大きな問題として覆いかぶさるのではないでしょうか。
フェミニズムの女性はストレートにというか、早急にそれをやるから、いや、これはかなわんよ、これは敬遠するのが一番いいよとなってしまうわけです。だけどそうではなくて、やっぱり女性像というのはなってないぞということはありますから、それはやっぱり自分でやっちゃうよりしょうがないということなのではないかと思います。自分がやっちゃわなきゃしょうがないじゃないかということは至るところにあって、何もちっとも解決がついていないのですが、僕はそういうことが言えたら、解決じゃなくてもいいんじゃないのかなといまのところ思っています。ですから今日の話もそんなところで一応終わらせていただきたいと思います。(拍手)