1 日本アンソロジーとは何か

 今日は「日本アンソロジーについて」という主題になっていますが、日本アンソロジーとは何か。こちらが勝手につけた題名で、中身をあらかじめ説明させていただきます。
 僕は年を食って、締切りに追われる、締切りに間に合う仕事みたいなものから免除され、なおかつ経済的ゆとりがあったら、のんびりしたかたちでやろうと思ったことがありました。
 それは何かというと、一つは日本でいう詩歌の古代から現在までの編年のアンソロジーを自分の好き勝手な選び方をしてつくりたい。もう一つは、古代から現在までの思想のアンソロジーをつくって、のんびりと必要な箇所を掲げて、古い時代ならそれに口語訳の訳文も付ける。あとは自分勝手な注釈を付けてという、ゆとりができたら二つのアンソロジーをつくってみようという望みを持っていました。
 ここ一、二年、体の調子を崩して、僕が考えていたほど老いというものはなだらかに来るものではないと初めてわかりました。いつかのんびりしたらそういうアンソロジーをつくってやろうなどと思っていたのですが、そんなことを言っていたらだめだぜ、という感じがしてきました。それじゃあということで、いままでメモしたりノートを取ったりコピーをしたりというものを持っていましたから、早速ながらぼつぼつ始めるかという感じになりました。
 思想のアンソロジーで言うと近代、明治以降までやっと入ってきた。量で言えば約半分までこぎつけたのが現状です。今日は、その内容をお話ししようと思ってきました。何が問題になるかというと、量はたくさんありますから何を選ぶかが問題になります。
 僕が今日、お話しすることで選んだのは、思想のアンソロジーとして一つ、詩歌のアンソロジーとして一つ、その二つのものを選んできました。思想のアンソロジーから説明します。
 だれのものでもいいわけです。日本の思想は古代から連綿とありますからだれでもいいですが、選んできたのは近世、確か東北の思想家で、安藤昌益という人がいます。安藤昌益の主著は『自然真営道』です。
 なぜ安藤昌益という思想家を選んだかというと、そんなに強力に選んだという意味ではありません。つまり、日本の思想としては非常にめずらしい、特異な思想家です。日本の思想は古代で言えば仏教です。中国系の仏教思想が、日本の思想に多大な影響を与えています。ずっとあと、中世末から近世になってくると、儒教というか中国の思想です。孔子、孟子、隠遁思想で言えば老子、荘子という思想の影響が非常に強く、それが日本の思想を覆うかたちで出てきています。
 もちろん近代になったら、西洋近代の思想が日本に多大な影響を与えています。そういう中で安藤昌益という人の思想は、内から読むのと外から読むのと違うと思いますが、僕らが読むと日本の思想家にはめずらしくどこの影響も受けていないと言ったらおかしいでしょうか。
 どこの影響も受けていないから日本的だというのではなくて、仏教も知っているし儒教も知っている。もちろん老子、荘子の思想も知っている人だけれども、それらから影響を受けて自分が取り入れるというのではない。それらに対して自分なりの独自の考え方から自分の思想を展開している、日本の思想家としては非常にめずらしいタイプの人です。それが、やってみたい、お話ししてみたいと思った主な原因です。
 安藤昌益という思想家を最初に発掘した人は、カナダの日本学者でもう亡くなりましたがノーマンという人です。ノーマンという人の『忘れられた思想家』は、僕は読んでいないのですが岩波新書で出ています。忘れられた思想家ということで初めて安藤昌益を取り上げ、それから日本のわれわれみたいなものも「どれ、見てみるか」と追従して見るようになりました。最初はカナダの歴史学者が発掘したというか、発見したというか、賞揚したというか、そういう人です。
 カナダの人から見た安藤昌益と、僕らみたいに同じところから見た安藤昌益は違うと思いますが、僕に言わせれば忘れられた思想家というよりも非常に特異な、めずらしい思想家と言ったほうがいいと思います。それで、今日は安藤昌益を取り上げてみたいと思ったわけです。
 もう一つ、詩歌で取り上げるのは、日本のうた、詩と言ってもいいですが、詩の一番最初のかたちは何なのかということがあります。詩では、そのことを取り上げてみたい。その二つを取り上げてみたいということが、今日の僕のモチーフです。

2 安藤昌益のめずらしさ

 日本の詩歌はほかの影響を少しも受けていませんが、日本固有の文字と固有の韻律から言えば非常に伝統的なものです。それに比すれば、安藤昌益は仏教も知っているし儒教の影響もある。つまり、その当時で言う世界的な思想はみんな読んでよく知っていて、そのうえで何か独自な取捨選択をしている。固有、伝統的とは言えないけれども日本的だとは言える。日本人としてはめずらしいやり方をしている人で、ほかにこういう思想家は、仏教で言えば僕が大変好きな親鸞という思想家、宗教家がいます。彼は割合に世界的な仏教思想と儒教思想と固有思想を消化し、独自なかたちで自分の考え方を展開しています。
 安藤昌益という人もそうです。親鸞については僕も多少は寄与したところがありますが、安藤昌益についてはノーマンのお手柄だと思います。ノーマンという人は、もう三、四十年になると思いますが自殺してしまいました。日本学者として優秀な人ですが割と進歩的な人で、三十年くらい前だと思いますが保守派の嵐が吹き荒れたときに、追い詰められたかたちで自殺してしまいました。
 別に、そんなにラジカルな思想を持っていた人でもありません。ごく一般的に、開けた思想家、歴史学者、あるいは日本学者だなという程度ですが、その当時、カナダやアメリカで相当追い詰められたのだと思います。ビルか何かから飛び降りて自殺してしまいました。優秀な人で、『忘れられた思想家』は読んでいませんが、岩波叢書『日本における近代国家の成立』は読みました。ごく穏健な日本歴史の学者だと思います。特にラジカルな人だとは思えないのですが、そういう人です。優秀な人です。
 『自然真営道』は非常な大著ですが、僕が読んで、安藤昌益の思想の方法、記述の仕方の特徴を非常によく表しているところを抜いてここに掲げてきました。全部はこんなかたちではありませんが、この箇所が安藤昌益の思想を表すのに一番いい箇所で、方法が一番はっきりしているところだと思います。
 先ほど言ったように、日本の思想家は近世ならたいてい儒教の影響を受けています。安藤昌益だけはそういう影響を身につけてはいますが全部排除するというか否定するというか、そういうことを徹底してやっている人です。何はともあれ安藤昌益の一番根本的な思想は何かというと、「直耕(ちょっこう)」という概念です。
 それはどういうことを言っているかというと、一つは非常にあっさりと、「お百姓さんが直接、地面を耕して、直接種をまいて、収穫を得て、それを自分の口にする生き方が人間の生き方としては一番根本的だ」という考え方だと思います。ところが安藤昌益の直耕という考え方は必ずしもそこにとどまるわけではなく、直耕して、自分が耕して自分の食べるものは食べるという生き方から遠ざかるにつれて人間はだめになってしまうという概念があります。
 いまで言うと知識人ですが、そういうものは一番だめだ。直耕から一番遠ざかっていて、そんなものをもてあそぶやつは一番悪いとどこかで言っているはずです。

3 普遍性へ向かう「直耕」思想

 赤で囲ったところを初めからやっていくと、「リョウ曰ク」のリョウは安藤昌益自身のことを言っています。
 ?「リョウ曰ク、心デ知ル知恵ハ互性ニシテイッシンナルヨウメイヲ知ラズ、唯一心、?仏心、?血脈心、不生心、不滅心、直指人心等ヲナスハ偏惑」。「偏惑」はばかだというかだめだ、おかしいという意味になると思います。つまり、こういう言葉づかい自体が独自です。僕らの漢文の知識は旧制中学の知識ですが読みようがない、わからない、ということになります。おおよそわかるところでこうではないかと言っているだけで、本当はよくわからない。
 ここは心で知るとはお互いに交換する性格を持っていて、それは元を正せば一つの心だ。要点を知らないで、仏心、血脈心、不生心、不滅心は仏教のことだと思います。仏教の不滅心を言ったりやったりするのはおかしなやつだ、だめだと言っていると思います。
 すでに仏教みたいなものは否定の対象になっているわけで、それがずっと続きます。?「リョウ曰日月互性ニシテ」。日月というのはお互いに性格を交換できるのであって、一つの神だと知らないで、偶然の言い方で自分勝手なことで神の道とかそういうことを説くやつはおかしなやつだと言っている。日本固有の神社信仰、神の信仰みたいなものはだめだと言っていると思います。
 ?「リョウ曰ク朋友ヲ求ムルコトナケレ」。つまりこれは何かというと、普通に言うと「友だちなんか求めるな」と言っているわけです。儒教、『論語』などの朋友を求める、孔子は「朋友が遠くから自分を訪ねてくるのはとてもうれしいことだ」みたいなことを言いますが、そういうことを否定しています。朋友など求めるな、友だちを求めるようなことはするなと言っています。
 けれども、自分と関係する人間すべてはみんな友だちと考えるべきだ。だけど、特に仲良しの友だちや自分の心をよく知っている友だちという意味合いの朋友を求めるのはおかしい、と言っていると思います。
 ?「リョウ曰ク人シラズ己ヲマンセズ」かな。人を褒めず、ですね。?「己ヲ屈セズ、人トナリ言ウベキニオイテ」、つまり人をそしるな、いい気になるな、人を褒めるな、自分も卑屈になるな。要するに、その人が言うものはその人なりのものだと認めて交わればいいと言っていると思います。
 どう言ったらよいのでしょう。昌益に言わせると、儒教的道徳の教えも仏教の信仰心も、日本の神社神道みたいなものの信仰も、全部否定の対象でしかない。見ていくと、全部否定の対象になっていきます。
 では、何が否定ではないのか。ここでは互性ということをよく言いますが、日と月の自然の運行みたいなもの、相互に交換できるようなものが統一的な人間の生きる原理だということだけが重要である。人工的に知識として学んだことを自分のことのように言ったり、自然に出てくるものではなくて儒教でいう「何々すべからず」みたいなかたちで出てくる道徳を信じて振る舞うのは精神がおかしな人間だ。そういうことをしてはいけない、と言っています。
 こういう言い方で言うと、どんな考え方も安藤昌益の否定の対象にしかなりません。全部、否定の対象になってしまいます。天地自然の運行、宇宙の運行を自然のように受け入れて生きることが一番いい、となってしまいます。直耕という概念もそこから来るのでしょうが、人間は自分が食べるものは自分が耕し、耕して収穫したものを自分が食べる。それが人間の本当に根本的な生活であって、それから遠ざかって知識によって生きたり、知識によって起こったり、地位によって起こったりということは全部だめだという言い方だと思います。つまり、直耕から遠ざかるにつれてだめになっていくという考え方だと思います。
 日本の明治以前、近代以前の思想家でこういうことを言った人はいません。大きく言えば、たいていは仏教の影響か儒教の影響の下で自分の考えをつくっていく。近世で言えば、本居宣長みたいに日本の神社信仰で言う「自然」に違う。自ずから、ということで生きていくことがいい、そういうふうに考えるのがいいという考え方もあります。安藤昌益の直耕という概念はそれよりも普遍性があるというか、日本固有思想ではなく普遍性がある。日本に入ってきた仏教、儒教の思想を咀嚼したうえで、それを捨ててしまって自分の生き方、考え方だけを強調している。そういうかたちのめずらしい思想を展開した人です。

4 現在、農業で問題になっていること

 僕はそういうところは好きですが、農家が人間の生き方の基本だという考え方に賛成するわけではありません。それはあまり賛成ではないのですが、農業とは何かという場合、いまでも論議の対象になります。いずれにせよ農業は、地面に植物の種をまいて、実らせて、収穫して自分が食べる。自分が食べて余ったものがあれば、農業の市場へ持って行って金銭に替えることもありうるということが農業の基本になります。直耕という概念は、そういう意味合いで言えば現在でも通用する概念になると思います。
 いま農業で何が問題になっているかというと、進歩的な農業政策、農業についての考え方を持つ人たちは、農家やその周辺のものではなくて、資本家が農業経営に乗り出していくことを認めなければいけない。これが日本で言えばいま一番進歩的な考え方で、現在の農林水産省はそういう考え方です。
 一番保守的な考え方は、農業は大切なものだというのはそうなのですが、農業がだんだん減っていくのはよくないという主張と、農業は一種の集団農業に変わっていかないといけないみたいな考え方です。
 自分が種をまいて収穫したものを自分が食べて生きていくのが農業にとって一番基本的な考え方で、余りがあれば市場へ持って行ってお金に替える。そういう考え方が第二番目にやってくるのが一番いい考え方だろうと思いますが、そういう考え方でいけば現在、農業についての一番いい考え方は個々の農家の人たちが仲間の農家と共同出資して共同経営する。自分たちが食べて、残りは市場で売って、その利益は自分たちが平等に分ける。そういう共同農業のかたちを農家の人が取れたら、きっといま一番いいやり方だと思います。そういうやり方をしているところも少しありますが、たいていはそうではない考え方です。
 やたらと「農業は大切だ」と言うのはいいけれども、田んぼの水を溜めておくのは田園の自然な景色でいいとか、田んぼに溜めた水は干ばつを調節するのに役立つみたいなことを言う。それで「農業は大切だ」みたいなことを言う人はいるけれども、それはちょっとお話にならないだろうと思います。
 そうでなければ社会の進歩、文明の進歩にそのまま任せて、資本家の資本が農業経営に乗り出して農産物市場を席巻していく、占めていくことが、一番ありそうな進歩的な考え方です。農林水産省は、いまそういう考え方を取っていると思います。
 そんなことをして農業経営を資本経営に直してしまうというなら、農家の人たちは自分の田んぼ、畑だけを固執するのではなく、近隣の農家の人と共同経営して利益を平等に分配する。私的な共同経営みたいなものをやるのがいいのではないかと思います。日本にも何箇所かそれをやっているところがありますが、そういうものが主流になってくることはなかなかありません。そういうことを考えていくと、安藤昌益の直耕という考え方は、基本的には一番いい考え方だと思います。

5 「大衆の原像」という考え方

 もう一つは、直耕から離れていくにつれて人間の生き方はだめになる。価値がなくなって薄くなってくるという考え方が安藤昌益にありますが、その考え方は現在で言えば一番成り立っていないというか、一番反対の考え方です。いまならお百姓さんよりは工場で働けとか、そういうところで働いている勤め人のほうが上品で高級だという考え方があります。僕らみたいに口先で何か言って稼いでるやつが一番悪いやつだということになりますが、いまは価値の序列がそういうやつが一番偉い、いいとなっていると思います。
 安藤昌益の考え方はまったく反対です。農家で、自分が食べるものは自分で耕して食べる。余ったら人に売ったり分けたりするのが人間の一番基本的な生き方だという安藤昌益の考え方は、いまはほとんど通用しない。農家は嫌だ。農業は面倒くさくて儲からないし嫌だ。都会へ出よう、となりますし、都会へ出て学校へ行って学問して、手を汚さないで、体も使わないほうがずっといい生き方なんだと、価値の序列がそうなっていると思います。
 でも、基本的にはそうではないか。四十代から五十代にかけて、安藤昌益という人は知らなかったのですが、僕は同じような主張をしたことがあります。一番価値のある生き方は何か。言ってみれば四六時中、テレビも見ない、週刊誌も読まない、小説も読まない。知識的なことを貯えたりもしない。ただ二十四時間、生活の細かいことにまつわることしか考えないで、あとのことは全然考えに入れない。そういう大衆が仮に考えられるとすれば、それが一番価値の源泉だと言った覚えがあります。
 僕は「大衆の原像」という言葉を使いました。大衆の原像はそれだ。それが一番価値ある生き方で、ただ人間は価値ある生き方をしたくてもだんだんできなくなっていく。四六時中、生活にまつわることしか考えないで、あらゆるコミュニケーション、情報、テレビなどもそうですが、雑誌も週刊誌も読まない。もしそういう生活の仕方をする人がいるとすればそれが一番価値ある生き方だとわかっているけれども、人間はどうしても仕方なしに自分の生き方が逸れてしまうことがある。
 それは価値ある生き方ではない。仕方なしに逸れてしまうということであって決していい生き方ではないけれども、社会の進展につれてどうしてもそうなってしまうことがある。それを価値ある生き方と考えたらだめだと、僕らは四十代から五十代にかけて主張したことがあります。「口ではそう言っているけれども、お前の生き方は一番だめじゃないか」と言われると本当にそうだけれども、心の中では「いいことではない」と思いながら生きようというのがせめてもの慰めです。
 知的になっていく、知識的になっていく、学問的になっていく。安藤昌益的に言えば、直耕から離れていくことは決して価値ある生き方に進展していくことではないという考え方は、基本的にはいいのではないかと思います。こんなことを言うと嘘を言っているというか、できもしないことを言っていることになる。言いながら一番嫌で嫌で仕方がないことなのですが。

6 偉大の向こうにある無名の領域

 こういう考え方をした人がフランスにも一人います。フランスの女流の思想家で、シモーヌ・ヴェイユという人がいます。この人はそういう考え方です。つまり、知識的に偉大な人、偉大な人物と言うし、社会の上層に立って制度を動かしたりするとすごく偉い人のように言うけれども、本当は偉大でも何でもない。本当の偉大は、そのもっと向こう側にある。どういう領域かというと一種の無名の領域で、無名の領域だからそこにだれがいるのか、どういう人が本当に偉大なのか、はたからはなかなかわからない。人間の歴史は知的に偉大、知識的に偉大で歴史に残った、あるいは制度を大きく動かす人で偉大な英雄だったということを偉大としているけれどもそれは違う。その向こう側に、一種無名の領域がある。そこに行っている人が一番偉大なのだ、という。その偉大ははたからはわからないから、だれがそうなのかはさっぱりわからない。しかし、それが本当の偉大ということだと盛んに主張しています。
 だから、安藤昌益的なことを言う人がいないことはないのです。それができるか、できないかとなるとたいていできない。口で言うだけでどうしようもない。口で言っている自分のいんちきさ加減を防御する方法は、人に言うことができなくて気持ちの中で「こうなんだ」と絶えず繰り返し思っている以外にないと思います。
 なかなか大変ですが、本当の偉大、本当の価値ある生き方を考えるのはそこになります。こういうことをあまり言えないのはなぜかと言えば自分はできないということや、自分はそうしたかったけれどもどうしてもそういうふうにできなくて変なほうへ曲がって行ってしまったということになると思います。人間の生き方で一番困難な問題がそこに横たわっていて、これはなかなか解決のしようがないではないか。
 特殊な人は解決する。たとえばシモーヌ・ヴェイユは大秀才ですが、女子工員として工場に働きに行ってしまった人です。そういう人もたまにはというか、ときどきはいる。安藤昌益もそうです。一般の常識から言うと病的で精神異常に思えるほどおかしい考え方になりますが、そういう人がいる。非常に困難なときに人間の考え方を何が支えてくれるのか。一見すると「こういうことを言うやつは異常じゃないか」という人がぽつぽつと人類の中にいることが、最後のところでわれわれの救いになることがありうると思います。 
 宗教だから救いになる、イデオロギーだから救いになる、福祉をやったから救いになるという程度のことならどうということはありません。そうではなくて、本当の意味合いで困難にぶつかったときに何が支えるのか。「歴史の中にああいうやつがいたんだよな」ということが支えになると思います。
 でも、一般的に言えば、安藤昌益もそうですが、この人のようなことを言えば思想は全部否定する以外にないではないかということになってしまいます。知識の体系を全部否定する以外にないことになってしまいます。そういう知識に頼るもののほうが、偏偏惑惑とわざわざ重ねて言ったりしていますが、そういうやつは頭がおかしいと言っています。しかし、逆に言うと、普通の意識から見ればこの人のほうがずっとおかしい。こんなことを言うのはおかしいのではないか、という人です。
 でも、こういう人がいることは、ものすごく日本の思想の助けになると思います。決して忘れられた思想家ではなくて、めずらしい思想家です。日本で言えば非常に稀な思想家と思える人だと思います。こういう人はたいていの場合は救いになりませんが、本当に困ったとき、まいったというときになると、こういう人がいることが人類にとってとても救いになると思います。
 そうではない段階では政府を動かした政治家が偉大だ、大知識人で大変な思想を表現した人を偉大だというところで全部済んでしまいますが、本当にそうかというとそうではない。もっと向こう側にあるのだということになっていて、それはちょっとおかしい人ではないか。常識的に言うと確かにおかしい人ですが、そういう人がいることは最後に救いになると思います。

7 目に見えない価値としての精神の深さ

 この人の考え方の方法は何かを、少し申し上げます。たとえば講談、説法(説教)をするなと言っている。「人道ニ暗カラズ人ニ教エズ人ニ習ワズ」がいいと言っています。そうしたら何も残らないではないか。どうすればいいのか。それでは何をもって偉い人、いい人、道徳的善人と言うのかと言ったら、どこにも「これは偉い人だ」という人が入り込んでくる余地がないわけです。つまり、どこにもない。偉い人だ、模範になる人だ、人の上に立つ人だというものが何もない。全部ないわけです。
 そういうことは成り立ちうるのか、ということになります。この思想の方法の中で唯一、そういう言い方をしても成り立つのではないかと思えることは、算数や数学でよく言うように、一つの世界があるとすると、Aでなかったら非Aである。「AとAでないもの」と言えば世界全部のことは言える。
 たとえば、この社会は男の人と女の人からできている。女の人でなければ男であって、男の人でなければ女の人だ。その二つで一つの世界ができている。数学的に一つの集合があれば、Aが部分集合だとすれば全集合はAか非Aかと言えば全部尽くされてしまう。そこに入り込む余地はないことになります。講談、説法するなと言ったり、人に教えたりもするな、言ったり習ったりするなと言えば何もすることがないじゃないか。それ以外のことで何かすることがあるのか。それで価値がある何かをすることがあるのかと言ったら何もないではないか。言葉の表面では、そう取る以外にないわけです。
 この人の方法の中で、Aでもなければ非Aでもない。つまり、一つの全体は、男でもなければ女でもない何かがあると考える考え方がこの人にはあります。どこにそれがあるのだろうか。
 論理、理屈から言えば、そういうものはありえない。AかAでないもの、と言えば全部尽くされてしまう。あらゆる場合にそうなって、論理から言えばそれ以外ありえない。まして説教もするな、されるな、習うな、人に教えるなという言い方をすると、価値あるものはどこにあるのか。何もないではないか、取り出せないではないかということになります。
 安藤昌益の方法の中で、それを取り出せるところがあります。何かというと、本当はそういうことは成り立ちませんが、Aでもないし非Aでもない何かがあるという考え方がこの人の中にあります。
 では、それは何なのか。これはいろいろな言い方、考え方があるでしょう。僕がそういうことを言ってみようとすれば、深さだと思います。表面、実体、かたち、見えるもので言えば「AかAでないものか」と言えばほかに余りものは何もない。どこにも余地がないことになります。もし人間の、われわれの精神に深さがありうるとすれば、考えられるとすれば、深さだけは「AかAでないものか」では尽くせないことのように思います。
 つまり、「あの人は心映えが深い人だ、精神が深い人だ」、「精神が浅い人だ」と言えるとする。同じ行いをする二人がいて、外から見たら全然変わったことをしているとは思えない。たとえば人が目の前で転んだら一人は助け起こすし、もう一人も助け起こす。はたから見て、この人とこの人が違うとは何も言えないではないか。両方ともAと言えばAだ。「Aは人を助けることだ」と言えば、両方ともそうではないかとなって何も区別がつかない。
 助ける人がいて、助けない人がいて、助ける人をA、助けなかった人は非Aと言えばそれで言えてしまうではないか。人が転んだときにどうするかで言えてしまうではないかとなりますが、精神の深さを認めるとする。この人が転んだ人を助けるときの助け方、精神の深さと、もう一人が助けるときの精神の深さと、同じ助けるという行為でちっとも区別がつかないけれども、人間の精神の深さが本当は全然違うことがあると認めるとするならば、それはAでもない、非Aでもない。
 つまり、「AとAでないもの」で全部が尽くせるとは言えないのではないか。人が転んで倒れているときに助ける人と助けない人がいて、そのどちらかと言えば言えてしまうではないかということではない。助けるにしろ、助けないにしろ、精神の深さは一見すると外からはわからないものです。だけど、深さはある。深さは価値あることだと認めるとすれば、安藤昌益的な考え方は成り立つと思います。全部否定しているように見えてそうではない、ということが成り立つと思います。

8 親鸞の考え方

 たとえば僕の好きな思想で言えば、親鸞という人がそうです。人が困っている、助けを求めるときに助けるのと助けないのとどちらがいいかと尋ねられたとき、「人が困って、病気になって倒れているのを助けるか助けないかはどちらでもたいした問題ではない」というのが親鸞の答え方です。なぜか、と理由を言っています。
 なぜかというと、そういうふうにして助けようとして助けても、人間はそういうかたちで完全に人を助けることはできない。つまり、中途半端に助けることはできるけれども、その人を本当に助けおおせることは人間にはできない。それはやる前、初めにわかっていることだ。
 そうだとすれば、たとえば目の前に人が倒れていて、それを助け起すか、助け起さないかは、そのときどきの心の持ちようである。どちらかという差は別にない。助けない人は意地悪で助ける人は親切という言い方は成り立たない、というのが親鸞の考え方です。そうではない。人間は完全に一人の人間でさえ助けおおせることはありえないということは、初めからわかっていることだ。
 親鸞の言い方をすると、そうだとすればひとたびある場所へ行く。あるいは精神の持ちようをある一つの極限に持って行って、それから帰ってくるという帰り方をしたうえで人を助けよう。困っている人を助けよう、倒れている人を助けようという助け方をするならば、そのとき人間は完全に人を助けることができる。だから、そうすべきだ。目の前に倒れたときに助けるか、助けないか。助けたほうが親切、善で助けないほうが悪だという言い方は全然成り立たない。それはたいした問題ではない、という言い方をしています。
 その言い方もそうですが、精神には深さがある。助けない人も、なぜ助けないかにはその人の精神、心映えがある。心映え如何は人によって違って、外からは一見わからない。もし人間の精神の働き方の中にAかBか、AかAではないかという言い方、表面だけの言い方、あるいは目に見えるだけの言い方ではなくて精神の深さを認めるならば、「AでもなければAでないものでもない」一つの場所がありうる。それは一種の精神の深さであって、その精神の深さが本当を言えば価値なのだということになると思います。
 安藤昌益の方法の中にはそれがあって、その言い方も非常に特異です。たとえば禅などに割合と似ている考え方はありますが、少しだけ違います。禅でも盤珪の不生禅というものがあります。つまり、人間は生きているのでもなければ死んでいるのでもない。それが人間の現世の生き方だ。人間は生きてもいないし死んでもいないというふうにして生きているのだから、人間は死ぬことはありえないというかたちで悟りを言うわけです。
 やや似ていないことはないですが、安藤昌益は悟りとかではなく、精神の深さでAでもなければ非Aでもない場所がある。それは深さだけからできている。もし深さを認めないなら別だけれども、認めるならば、深さは「AでもなければAではないものでもない」ところにしかないという考え方だと思います。大変面倒くさい考え方というか常識外れな考え方で、そういう考え方をしたらこの社会では通用しないのではないかということになると思います。

9 「直耕」は価値概念の源泉

 たとえば芸術、宗教、イデオロギーが本当に考えられた場合にはその深さを認めざるをえないし、認めなければだめなのではないかと思います。そのことは、なかなか普遍的に言うことができません。安藤昌益という人は「深さがあるではないか」とは決して言っていないのですが、Aでもなければ非Aでもない何かがあることだけは歴然と言っていると思います。
 それが安藤昌益の方法の根本にある。一見、文字の表現だけで言えば全面否定してしまって、仏教も認めない、儒教も認めない、老荘の思想も認めない。何も起こらないではないか、これでは全否定しているだけではないかとなりそうですが、本当はその中に精神の深さの場所があるんだよ、ということが安藤昌益の基本的な考え方になります。それが、安藤昌益が直耕という言い方で言っている思想の根底になるのではないかと思います。
 直耕という概念は面倒くさくて、一種の価値概念として考えないで農業のことだけで直耕と言ってしまうと何というのでしょう。農本主義と言いましょうか。「農業は大切です」と現在の進歩政党も言うけれども、そういうものと同じになってしまいます。
 「農業は大切です」と言っても、文明の進展は農業を減らしていく一方です。つまり、日本で言えば農業や漁業はもう数パーセントしかない。製造業、工業と言っているものは三〇%くらいしかありません。あとは全部いわゆる消費産業と言いましょうか、第三次産業と言いましょうか、そういうものになってしまっています。
 社会の進展度、文明の進展度はそうなってしまう。そういうところで「農業は大切です」と言って、直耕という概念をそういう概念にとどめて言うだけならばほとんど無意味だし、進歩ではなくて退歩しかないということになってしまいます。
 そうではなくて、直耕という概念は一つの価値概念です。職業も含めてもそうですが人間の生き方、生活の仕方の中で深さという概念を認めるならば、直耕という概念はそこへ拡大できる。そう考えれば、直耕が価値概念の基本になる。文明というものはそうですが、直耕という概念から遠ざかる生き方しかできなくなっていくことは、いわば価値概念の源泉から遠ざかることです。遠ざかることは悪いことか、いいことかとなると、悪いことだという人もいます。いまでも「エコロジーこそ大切だ」とか言う。
 死んだ、世界の黒澤明という人は、「燃料は牛の糞だけでたくさんだ」みたいなことを映画でつくったりしていますが、そういうことを言う人はいます。だけど、そんなことを言うのは無意味です。どうしてかというと、よい悪いの問題ではない。文明の進展はどういうふうに不可知に行くかという過程で出てくる問題であって、倫理の問題ではないからよい悪いの問題ではないわけです。
 日本もそうでしたが、五十年くらい前までは農業国と言えましたがいまは大消費産業国になってしまっています。農業は数パーセントになってしまっている。これを大部分が農業だった明治、大正、昭和の初めみたいなところに戻そうと言ってもそんなことはできるわけがない。文明の進展に逆らうことであって、何の意味もないことになります。
 そういう言い方は不当です。つまりこれは善悪の問題ではなく、不可知的に文明がそういうことだとすると、人間の精神、心映えはそうはいかない。なぜそうはいかないか。文明の進展、目に見えるものの進歩だけではなく精神の深さが人間の心の進展に加わっていくから、文明の進展と精神の進展とは必ずしも一致しないことがあります。そういう問題としてあるのであって、善悪の問題としてあるわけではないのです。
 そういうものだから、精神の深さというところから言って、安藤昌益という人の言い方は全否定のように見えて本当は全否定ではない。その当時で言えば世界思想を全部学んで身につけたけれども、その中から自分が取り出しうる深さの概念が通用する世界だけが本当の思想なのだというところで、安藤昌益の直耕という概念が出てきていると思います。
 これはいま農業に限定すれば通用しませんが、「直に耕すところが価値の源泉だ」という意味合いで取ればいまでも通用する。文明の進展は、一見するとそういう価値概念から遠ざかっていく。しかし、これは精神、心の価値概念であって、文明社会の文明の利器、文明の発展、つまり情報産業がどうした、ビルが建ち並んだという文明の進展自体は深さの概念からは遠ざかっていく一方で、これが人類の歴史です。
 しかし、精神の概念から言えば、深さというところに価値概念が置かれる限り、それはなくなっていかないことになる。そこまで安藤昌益の考え方を展開させていけば、この思想家は日本では大変めずらしい思想家で、もっといろいろな意味合いで追求されていい人なのではないかと思います。
 僕も何も知らないし、この人の漢文は、僕らの中学生程度を習ったことしかない漢文の知識では手に負えない言葉遣い、手に負えない単語が出てきます。まいった、という以外にない。本当に厳密な解釈の仕方をしてみろと言えばできないかもしれない。ただ、この人の独自の考え方を言い表すにはこれより仕方がないのかな、という感じもします。
 あるいはそうではなくて、安藤昌益の知識、教養はこういうものだったと言えるのかもしれません。この手のことで僕が当面したものでは、禅宗、曹洞宗開祖の道元という人の『正法眼蔵』という主著があります。この漢文は、僕らの中学生程度の漢文の素養では手に負えない、わからない言い回しをしています。
 これも僕はわかりませんから、道元の漢文は中国語に一番近い漢文なのかなとも思います。そうではなくて自分独自の概念で、独自の表現の仕方をしたからこうなってしまったのか。僕らの教養の範囲外に出ているので、それはどちらかわかりません。そういう面倒くさい漢文で自分の考えを表現した人は、この人と道元禅師の二人ではないかと思います。それがどこから来るかはよくわかりません。だけどこの人は大切な人だ、ということだけはとてもよくわかる気がします。
 ノーマンがどういうふうにこの人を発掘して、どういうふうに評価したか僕はわかりません。もし『忘れられた思想家』という本が古本屋ででもあったら、見てくださればいいと思います。どういう発掘の仕方をしたのかと思いますが、僕には大変偉い日本学者だと思われます。こういう人を発掘して、少なくともこういう人がわかった人だから大変な人だと思います。
 僕らは「わかった」ということはできないのですが、概観的に言えばこの人の一番根本にあるのは何か、何が特徴かはおおよそわかった気がします。いわゆる狭い意味の日本的な人ではなく、しかも独自な、模倣しているわけでもない、比べようがないという意味合いで言えばまさに日本的な人です。これは非常に重要な思想家だと思いました。きっとこれからもっと一生懸命追求されるでしょうが、もっとよく知られて、もっといろいろな面から考えられてよい思想家ではないかと思います。

10 日本の詩歌のはじまりは片歌

 こういう話は大変面倒くさい話というかきつい話になってしまうので、日本の詩歌、詩の初めがどうだったかというお話を、あまり理屈からは言わないで鑑賞的に申し上げて口直しをしたいと思います。
 日本の詩、歌の初めは何かは、古来いろいろ論議されています。中世末ないしは近世の初めまでは、日本の神話の中で出雲神話というものがあります。オオクニヌシノミコトの系列が出雲の国へ行って国を開いて、そこで住居を定めて出雲地方を治めたという神話があります。
 その神話で出雲に自分のすみかを定めたとき、よく言われる「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を」と最初に歌ったとなっています。中世末から近世の初めまでは出雲神話が古いようにこれが一番古い歌だと言われて、それが定説になってきました。しかし、近世初頭、本居宣長の先生筋に当たる賀茂真淵という国学者が、「日本の歌の初めは五七五七七の『八雲立つ 出雲八重垣』ではない」と初めて言い出しました。
 では何なのかが問題になります。賀茂真淵は『古事記』や『日本書紀』という日本の神話に書いてある記述で言うと、「片歌が日本の詩の一番初めだ」と初めて言い出しました。片歌は神話の中でどう出てくるかというと、景行天皇の二番目の子どもでヤマトタケルという者がいて、東の賊を征伐した、西へ行って九州地方の熊襲を征伐したという神話の伝説話があります。東の蝦夷を従えて帰ってくるときに歌った歌が片歌です。
 それは何かというと、「波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮(はしきやし わぎへのかたゆ くもいたちくも)」といいます。「はしきやし」は「鮮やかだ、晴れ晴れしている、爽快である」という意味になります。「わぎ」はわが家、ふるさとです。ふるさとは当時で言えば奈良地方でしょうが、「ふるさとの自分のうちの方角から雲が立ち上っている。早く国へ帰りたいものだ」。『古事記』の神話で言えば国偲ぶ歌、要するに懐郷の歌、故郷を恋しがる歌です。非常にさわやかで、自分の家がある都のほうに雲が立ち上っている。その景色を見て、「帰りたいな」という心のうちを表現した歌です。これは片歌と言われています。
 「はしきやし」は五音、「わぎへのかたゆ」の「ゆ」はいまの「よ」と同じで、「自分の家のほうから」ということです。「わぎへのかたゆ」は七音だと思います。「くもいたちくも」は「雲が立っている」で、これも七音です。つまり、五音、七音、七音です。バリエーションで言えば四音、七音、六音になったり、四音、七音、八音になったりします。
 いずれにせよ、基本的に言えば五音と七音と七音が片歌の一番基になっている定型です。賀茂真淵という国文学者、国語学者、国学者は、初めて「これが日本の詩の一番初めの韻律だし、歌だ」と言い出しました。
 それはとても重要なことです。つまり、神話から言えば確か景行天皇は十二代です。十二代だから後代で、あとの天皇の子どもだからそういう意味ではずいぶん新しい。天孫族、天から降りてきた人たちの系列が出雲地方へ行って初めて国を定めたみたいな神話時代のことに比べると、ずっとあとの時代です。
 これが一番最初の歌だというためには、ものすごく勇気が必要でした。つまり、神話の記述を信じないけれども、自分は詩としての韻律のあり方だけは追求してよく知っている。自分の考え方では、どうしてもこれが詩の一番最初のかたちになると主張した。どう言ったらいいのでしょう。神話の原理に対してヒューマニズムの原理というか、人文原理としてこれが一番初めだと賀茂真淵が初めて主張しました。
 賀茂真淵の偉大なお弟子さんの本居宣長は、そういう意味では真淵に比べてはるかに劣る。進歩的ではなく退歩的で、「神話の自然が本当の自然だ」ということが本居宣長の考え方の基本になります。国学者としては近世第一の偉大な国学者で、そういう仕事をした人ですが、「神話の自然が本当の自然だ」という考え方です。神話はそのとおり読まなければだめだ。そのとおりに読んで信じなければだめだ、という考え方です。
 真淵は宣長の先生ですがそうではなくて、逆に片歌というかたちが日本の詩の韻律の一番初めだと初めて言い出した人です。そのあと真淵の考え方を継承した、ある意味発展させたのは、十二、三年前に亡くなった折口信夫という国文学者です。この人も真淵の考え方を「これが本当だ」と主張して、考え方を少し発展させました。折口信夫は昭和の時代に真淵を受け継いで、片歌が日本の詩の一番初めのかたちだと主張して継承しました。
 おこがましいですが、そのあと僕が真淵と折口さんの考え方を少し別の方向に進展させました。片歌から『万葉集』の和歌みたいな五七五七七というかたちがどうしてできたかについて、真淵、折口の考え方を発展させながら僕なりの考え方を展開しました。

11 沖縄の『おもろさうし』からわかること

 ところで、「はしきやし わぎへのかたゆ くもいたちくも」というのは、一種の叙情の歌です。いまで言えば望郷の歌、懐郷の歌になります。ところで、琉球、沖縄に『おもろ草紙』というものがあります。本土で言えば『万葉集』や『古事記』の恋歌を集めたものに該当する、古典の、一番初めの歌を集めた琉球の本があります。
 成り立ちはずっと古くて、たぶん十世紀から十二世紀くらいの間にできたり集めたりして、それがまとまったものと思います。『万葉集』などよりもっとあとにできましたが、そこにある言葉は非常に古い言葉があったり、新しい十何世紀の沖縄の言葉があったり、いろいろ混じっています。なかなかおもしろくて、『万葉集』や『古事記』の歌とまた違う意味合いを持ちます。
 そこに「はしきやし」の歌と同じような発想で、一種の叙情歌があります。二つか三つ見つけられますが、一丁挙げてみます。「佐敷金森に夕どれ」、「夕どれ」は夕凪です。「雲がおえ」は雲が動いて行くということです。佐敷金森は沖縄本島の佐敷村にあり、金森はこちらで言うと神社の原始的なかたちです。石を三つ置いたり、お線香の香炉だけを置いたりする、できあいの、神社の原始的なかたちです。
 「御嶽(うたき)」はこちらで御嶽神社とかいうのと同じで、日本で言う神社の原始的なかたちです。「佐敷村にある御嶽の森」ということです。金森という名字の人もいますが、金森の「金」は何かというと一種の尊称です。
 たとえば本土で男の名前で尊称を付けて「たろうさん」と呼ぶとします。向こうで何というかというと、「たらかね」と言います。本当は「たらかに」と発音するのでしょうが、「たらかね」と言います。「金(かね)」は何かというと尊称です。こちらの〜さん、様、殿と同じ意味で、頭に付けたり後ろに付けたりします。
 佐敷金森は、「佐敷村にある御嶽の神社の尊い木立あたりの空が夕凪になって夕焼けが見えて、そこを雲が動いて行くよ」というだけの歌です。これは望郷の歌ではないけれども、一種の風景を対象にした、風景を歌いながら心の中ではいい景色だ、懐かしい景色だ、情感がわく景色だと言っている歌です。かたちとしても最短の歌で、『おもろ草紙』の中にあります。
 こちらでも役に立つことを尊称で言うと、岐阜県に関村というのがあって、昔、そこに刀鍛冶が一村をつくっていました。関孫六という名刀の名前があります。関孫六は名刀の名前であると同時に、関村に住んでいた刀鍛冶の大将の一人を言う場合もあるし、そこに群れていた刀鍛冶全体を言うこともあります。「関孫六の名刀だぞ」というのはいまでも聞く言葉ですが、「孫六」の「真五郎(まごろう)」は勇敢な男の子、勇壮な男の子という意味合いになります。「真」は接頭語ですが、一種の尊称と言えるものです。
 「く」があって「まごろく」と言うようになって、いまなら孫に六と書いて関孫六の名刀だと言いますが、本当は真五郎です。「く」は「供」です。「供」も「金」と同じで、名前のあとにくる尊称です。そういうことはこちらの言葉だけではわからないのですが、『おもろ草紙』があるために「ああ、そうか」とわかります。
 関孫六って何だ? 孫六は人の名前か、と思うのですが本当はそうではない。勇壮な、真の快男児という意味合いで、関村にいた刀匠たちということになって、そのつくった名刀が関孫六です。「く」は「〜さん」と同じです。いまで言えば吉本君でもいいですが、「〜くん」と言うでしょう。「くん」は元を正せば、沖縄の古典語に従えば「く」です。「く」を呼びいいから「君」にして、書きよくて意味が通りそうだから「君」にして、〜君、諸君とか言っているけれども本当は「く」です。関孫六は、「関村にいる、本当に男らしい刀匠の男の子さん」という意味になります。これは、『おもろ草紙』が残っているがために考えることができる言葉です。

12 枕詞と宗教性

 もう少し言うと、金もそうですが、先ほどの近世以前、一番最初の日本の詩の言葉だと言われていた出雲につく枕詞の「八雲立つ」という言葉があるでしょう。僕は出雲地方の松江の郷土史の人から、「朝か夕方、宍道湖のほとりにいると向こうに日が沈むときは雲がちゃんと幾重にもたなびいていて、本当に八雲立つがよくわかりますよ」と説明を聞いたことがあります。
 それは嘘で、「八雲立つ」は「神がいるところ、神がいる尊いところ」、という意味合いになります。「出雲」があると「八雲立つ」を枕詞に使う。そうでなければ、「八目さす」という言葉があります。八つ目を指しているみたいだけれどもこれも出雲に付く枕詞で、その二つがあります。
 これも沖縄の『おもろ草紙』から逆に類推するとすぐにわかるのですが、「神々が宿る尊い場所」という意味合いの枕詞になります。「やくもたつ」は本当の古代の音ではないし、「やつめさす」も古代の音ではありません。何というか知りません。「やつめ」と言ってしまってはいけないし、「やくも」と言ってはいけない。何とも言えない。「やしゅめさし」みたいな言葉で古代の音だったと思います。それを文字で書いているうちに「八雲立つ」と「八目さす」と二つに分かれてしまったけれども、本当は「神々が宿る出雲地方」という意味合いの、出雲に付く枕詞です。『おもろ草紙』を逆に見ると、そういうことがとてもよくわかります。
 これは沖縄で言う片歌のバリエーションとしてとてもよくわかる。『おもろ草紙』も『日本書紀』もそうですが、概して言えば堅苦しいというか、両方とも宗教的であり儀式的な歌が多い。神話としては、あまりおもしろくはないです。おもしろいところは本当に少ない。
 たとえば皆さんは、教科書で習った、海幸彦と山幸彦が釣り針を取り替えてという九州地方の神話をご存じだと思います。出雲地方でも八岐大蛇を退治したというものがあって、そういうところは大変おもしろいのですが概して言えば堅苦しい。神々を讃える歌みたいなものが多くて神話としてそんなによくないけれども、この神話をつくった人たち、持ってきた人たちは相当宗教的な人だった気がして仕方がありません。武力で日本列島を制圧したという部分より、宗教で制圧したみたいな気がして仕方がありません。それは本当は確定されていませんが、とても宗教的です。
 もう一つ挙げなければいけないのは、アイヌです。アイヌの神々の歌があります。これはまったくおもしろい歌で、動物が出てきて、という歌が多いので挙げなければなりません。アイヌの一番初めの歌はどういう歌か。一番典型的なものは、動物が主人公になって、「俺が見ていたらこのうちのどこそこに何が飾ってあって、どこそこには何があって、どこそこで鳥が羽ばたいていて窓は開いていた。自分はそれを見ていた」。たとえばフクロウならフクロウが主人公で、見ていたらそうなっていた、という神話の歌があるとします。その場合、それを見ているものは、たいてい「私が肩のところに止まって見ていると」となっています。
 たとえば瀕死の人が天井に上がってしまって、下を見ると自分が病気で寝ている。自分はベッドに寝たまま瀕死の状態だけれども、お医者さんや看護婦さんが騒いで一生懸命看護しているのが上のほうで見ていたら見えた、という話がよくあります。そういう場合、自分が自分を見ている見え方は、瀕死の状態を過ぎると川があって、川の向こうにはきらびやかな花が咲いていてうちがある。臨終で死に損なって、そういうものを見てまた生き返ったという話がよくあります。
 それと同じで、アイヌの神謡集の一番古いかたちは、何の言葉でもないのですが肩のところから自分が自分を見ていた、自分がいるうちの中の様子を見ていた、鳥が飛び立って窓からどこかへ行った。目が二つなければというか、歌を語っている動物がいて、しかも動物の肩のところに違う目を持った人がいなければとてもこの風景の描写はできない。アイヌの神謡集の非常に典型的なかたちは、そういうものです。僕の理解の仕方では、アイヌの詩の一番古いかたちがそうだと思います。
 それを挙げるべきですが、目が見えないものだから本を探すことができません。うろ覚えで申し上げているのですが、本当はそれを挙げなければいけません。日本の詩の一番古いかたちは五七七、四七七というかたちです。

13 なぜ五七五七七という和歌の形式ができたのか

 もはや時間がきていけないんですけれど、もうあと一、二分だけ(笑)。
 なぜ五七五七七、いまの和歌の韻律になったか。片歌を二人の人間が問答でやると、五七七と五七七です。「あめ つづ ちどり ましとと など黥(さ)ける」はカムヤマトイワレヒコ、つまり伝説上の初代天皇が大和地方で家来を連れて歩いていたら向こうから女の人が七人来た。家来のオオクメノミコトが「どの女の子がいいと思いますか」と言ったら、「一番最初を歩いている子がいい」という。では自分が行って交渉してくると言って、オオクメノミコトが側へ行くわけです。
 これはみんな鳥の名前だと思いますが、「あめ つつ ちどり ましとと など黥(さ)ける利目(とめ)」。「あなたの目はどうしてそんなに裂けているのだ」と女の子が言うわけです。それは入れ墨だと思います。オオクメノミコトが入れ墨をしていたのを見て、鳥の目が裂けているふうになっているから「どうしてそんなに鳥みたいに目が裂けているのだ」と女の子が言います。
 そうすると、「あなたのことを一生懸命、見ようと思って目を見張ったので裂けてしまったのだ」とオオクメノミコトが答える。そこで交渉が成り立って一番先の娘さんと伝説の初代の天皇は一緒になります。伝説の初代天皇の皇后はイスケヨリヒメというのですが、三輪山の麓の村の村長の娘で巫女さんです。ヨリヒメと付くと巫女さんで、神がかりができる女の人という意味です。それで、婚姻します。
 初代から十代くらいまでの伝説の天皇はみんなそうですが、大和朝の風習で入り婿婚です。ですから、イワレヒコが三輪山の麓の村長の、娘さんがいるうちへ入り婿します。そうすると、そこが大和地方を治める宮殿になります。二代天皇は綏靖天皇となっていますが、綏靖天皇はまた違う娘さんと結婚します。そうすると、その娘さんがいるところが二代の宮殿になります。十代くらいまでは特にそうですが、大和朝は大和盆地のあちこちを宮殿が一代ごとに移っていきます。入り婿婚だったからです。
 「日本は」、というのはいけないかもしれないけれども、縄文、弥生の時代くらいは母系家族だったと言えると思います。十代くらいまで、一代ごとに宮殿が違ってしまいます。そんなことはありえないけれども、入り婿だから娘さんがいるところが宮殿になってしまいます。
 そのときの最初の片歌は、別々の人が片歌で問答をします。僕の理解の仕方ですが、最後の七と初めの五が一人の人間の歌となった場合、その二つが融合してしまったと思います。本当は二人の問題で五七七、五七七となるはずなのに、時代が下って一人の作者がつくるようになったときに初めの七とあとの歌の五が融合してしまって、いわゆる五七五七七という和歌の形式ができたと思います。
 いまはそうではありませんが、最初は五七五七七で五七五と七七は同じことを言わないと和歌にならない、となっていたと思います。これは『万葉集』ですが、たとえば「赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らん」という歌があります。「自分が牧場で飼っている馬が野原へ逃げてしまった。自分の夫は防人として都へ行くけれども、夫は多摩の横山のあたりを都のほうへ歩いて行くよ」という解釈になりますが、本当はそうではなかったと思います。
 自分が持っていた馬が野原へ逃げて行ってしまったことと、自分の夫が防人で、自分を離れて都のほうへ歩いて行ってしまったことは同じ構造でなければいけません。違うことを歌っても同じ構造でなければいけないのが、非常に古いかたちの和歌だと思います。
 なぜかというと、いま言ったように、本当は二人でやった問答だったので同じようなことを言わなければ問答にならないわけです。その次に一人の人間が和歌みたいな形式にしたけれども、上の句と下の句は同じ行動のことを言っていないといけない。因果関係はない。「馬が逃げてしまったから自分の夫は歩いて行かせなければならなかった」と言いたいところだけれども、本当はそうではない。馬が逃げてしまったことと自分の夫が多摩の丘陵のあたりを歩いて都のほうへ行くということと同じ構造になる。自分から離れて逃げてしまったということではないのですが、防人へ行ってしまった。同じ構造を歌ったのが一番古いかたちだと思います。
 『万葉集』でもやや時代が下って、たとえば名のある人、たとえば人麻呂の作品で、琵琶湖を歌った「近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ」といういい歌があります。「夕波千鳥汝が鳴けば」と、鳴いたから自分は昔のことを思い出した、思い出すよと言っているので因果関係があります。夕波千鳥が鳴いたから、それに誘われて自分は遠い昔のことを思い出したという歌になって、上の句と下の句は因果関係になってしまっている。これは現在の歌詠みさんがつくっている歌も同じで、上の句と下の句はだいたい因果関係になっています。
 しかし、本当に初めのかたちはそうではない。同じ構造のものを上の句で言って、下の句で言って、それは一人の人である。もっと前は、片歌と片歌で同じ構造の問答をした。それが融合して、それになっていったと理解するのがいいだろう。それが和歌になっていった初めだと思います。現在では上の句と下の句は続きであって、因果関係がちゃんとあって一つの歌になっていますが、元はそうだと思います。
 つまり、片歌のかたちはとても興味深いかたちです。もしいま歌詠みさんたちが韻律の工夫をするならば、片歌のかたちは相当、根本的なかたちだから、試みる価値があるのではないかと思います。
 現在、もっと若い人は、また韻律が変わってきていると思います。どういうところで言うかというと、僕らが聞いていると、たとえば「私がこうしたので」という言い方をする場合に、いまの若い人は「私があ、そうするとお」という。要するに、七五調に比べて一音多くなっていると思います。
 しゃべり方で、「そこで」だったのが「そこでえ」ともう一丁入る。いまの若い人のおしゃべりを聞いていると、そうなっています。どうなるかわかりませんが、七五調の韻律がやや崩れかかっている徴候に思えて仕方がなくて、しきりに気にしながらテレビなどを見ています。そういう徴候なのではないでしょうか。
 一番初めの歌、詩のかたちにはそれなりの日本語的な言われがあって、その言われには根本的な問題がある。根本的な問題は詩の形式として試みるに値する気がします。七面倒な、理屈っぽい思想のアンソロジーと詩のアンソロジーと、両方を自分勝手にやりたいというのが願望です。願望はうかうかしているとだめだぜ、という感じですから、暇を見てはちょこちょこやりかけています。終わるにはなかなか時間がかかりますが、やりかけています。
 そこのところでお話ししたくて、隠居仕事ほどのんびりできないでしょうが、自分にとってはかなり若いときからやってみたいと思っていたことです。それを何とかやりおおせたいと思います。今日はたった二つで時間になってしまいましたが、本当は長々とこういうものが続きます。なかなか終わらないのが現状です。時間が過ぎてしまって申し訳ないですが、これで終わらせていただきます。(拍手)

14 質疑応答

(質問者)
 逗子から来たアズマといいます、今日は、最初のほうのお話で「直耕」というお話があったんですけど、初めてそれを聞いたんです。このまま帰ると眠れそうもないので、ひとこと聞いてから帰りたいと思いました。ほんとはもっと長い時間でお話するような概念だと思うのですけど、農業というものをどんどんどんどん純化していきますと、そういう構造が、人間にとっていちばん純な形なんじゃないかなと思いました。
 あんまり農業に関して最近注目されていないので、ぼくもあまり、いろんな背景というのはわからないのですけど、最近読んだ本のなかで、『哲学の東北』という本がありました。それは今日、シモーヌ・ヴェイユさんの話が出ましたけど、吉本さんがいつも宮沢さんの話を話してもらっているわけですけど。
 そのなかで、作者の中沢さんが農業の根本的ないいところというのは無から有を生みだすんだというところがあるんです。農業から商業に移っていくと、ただ有から違う有に移るだけなんだと、先ほども言いましたように、農業の本質というのは、いま言ったようなところにあるのではないかと、「直耕」ということの概念の、ほんとうの言いたかったところというのも、たぶんそのへんにあるのじゃないかなと思うのですけど。今日、伺ったかぎりでは時間が短くてわからないので、その辺のところをもうちょっと聞けたらなというふうに思います。

(吉本さん)
 たぶん、あなたの言われることというのは、「直耕」という概念の中には入っていたのだろうと思います。でも、ようするに、この問題なんだとおもうのですけど、いまどうして農業ということをあまり言わなくなっちゃったかといえば、ようするに、農業に従事している人が、働いている人の、日本で7%ぐらいじゃないかと思うのです。つまり、7%ぐらいの人しか農業で働いていないのです。農業をやっていないのです。
 日本でいうと、岩手県と、それから鹿児島県というのが、まだ農業県といえて、まあ30%くらいは農業関係に従事している人がいると思います。あとはどこの県も50%以下でしか農業をやっていない。とくに平均していえば数パーセント、つまり、7%か8%くらいしか農業をやっている人はいないのです。だから、そこを重点におくということは、いまそこを重点にものを考えたら、社会を考えたら、ちょっと狂っちゃうよということになると僕は思います。
 これは、数年前、冷夏でもって不作で、お米がなくなっちゃうなんて大騒動したことがあるんですけど、そのとき進歩系の、つまり、社会党とか、共産党とかの人たちは農業を守れみたいなことを言うし、エコロジカルな意味あいの効能というのも農業にはあるんだみたいなことを言って、しきりにそれを保守したんですけど、それはほとんど無意味に近いんです。まだ、井上さんみたいに、岩手県出身だから、30%ぐらいいるんだよというのだから、そういう主張をしてもまあまあいいじゃないのとなるけれど、ほんとは7%くらいしかいないのだから、平均していないんだから、農業が主であるというふうにいま言ったらちょっとおかしいことなんです。
 そうすると、農業が主というのは何なんだということになると、結局、食物を作って食べるということは、人間の生活及び生存にとって、不可欠なものだということがあって、これは農業に携わろうが携わるまいが、農業がなくなろうが何しようが、それは何とかして食料はもってこなくちゃならないとか、食べなきゃいけないということは付き纏うわけです。ですから、そういう意味あいで、重要だということを言うことはあれですけど、働いている人が多いからとか、それが主だからという言い方は、現在では成り立たないことなんだ。
 これは、安藤昌益というのは近世の人ですから、少なくとも、近世だから、日本は農業国、漁業国であったわけで、これは90%なら90%、100%近くは農業をやっていたという形になっているので、「直耕」という概念はストレートにそのまま通っちゃうという、それは量からいっても質からいっても、人間は食べなきゃ生存できないよというような意味あいからいっても、それは「直耕」という概念は、人間の生き方の価値の基本なんだという安藤昌益の主張は、そのまま通っちゃうと思うのです。ぼくはそこを主として農業というのを考えないといけないんじゃないかなというふうに、いまでも思うわけです。
 いまおっしゃった、無から有を生ずるということはどういうことかといいますと、ほんとはそんなことはありえないから、つまり、有から有を生じているんですけど。もとの見える部分は自然物そのままの変形で借りてきちゃっている、それは農業であり、漁業でありというふうになっている。あるいは、林業でありというふうになっているということを意味すると思います。
 だから、無から有という場合には、無と見えるものというのは、自然から与えられた有であるというふうにいえば、そういうふうに言い直せちゃうもので、たぶん、そういう意味あいで主体に考えることはできないんじゃないかな、やっぱり、人間がどうやって生存するんだという場合にも不可欠だということから言う以外にない。
 それから、農業はどういくんだと、それは農業が減っていく方向にいくに決まっているということになるわけです。これはどういうふうに政策を変えようと、そうなっていくということは間違いがないこと、そうすると、そこをどうしたらいいんだということが大問題になってくるわけです。
 ぼくらは、そういうことは自分で言い出しっぺの部分だから、自分でどうしたらいいんだと、農業が少なくなっていくことは免れない。たとえば、現在の英国なんかは、たぶん、農業をやっている人は2%くらいだと思います、データいうと。日本はまだ7%ぐらい、アメリカは3%か4%あると思います。そうすると、どんどん少なくなっていくというのは、どう考えたって文明の必然、文明をやめにしようじゃないかという人もいるんだけど、それは無茶で、無茶でというのは、人間の力で文明をやめさせるということは、ぼくはできないと思いますから、それは無茶だよと。
 そうすると、どうなんだといったら、ぼくらが考えている解決の仕方というのはただひとつしかない。それは、アジアの後進地域、農業地域、それから、アフリカの農業地域、それから、文化未開のところの農業地域というのが、農業生産物というのを分担して、いわゆる世界のいちばん先進的なところというのが農業を極端にいうとゼロになっちゃうと、そうすると、農業地域の農産物ゼロのところに持ってきて食べるという以外にない、その代わり、それに対してどうするかといったら、必要な工業生産物とか、日用品とか、それこそ無形のものとか、それから、金銭、貨幣とか、そういうものを、そういうところに無償でといいますか、無償で提供して、その代わり、農産物を譲ってもらって、先進地域はそうやって食べて、後進地域はある程度、それを分担しながらというふうにして、一種の未開原始の時代にあった贈与という形ですけど、タダでくれちゃうということですけど、贈与という形を正しい形で検討して、つまり、いまみたいに等価交換というような、あるいは、物と物との交換とか、貨幣と物との交換とは違う、手形交換とか、金融交換とか、そういう形だけではなくて、それの上の次元でもう一度、贈与という考え方をとらないとダメなんじゃないかなみたいなことを漠然と考えていますけど。
 そういうふうに考えると「直耕」という概念を、おっしゃるような無から有を生ずるというところで問題にすると、どんどんいなくなっちゃうし、どんどん減っちゃうということになっていっちゃうと僕は思います。ですから、そこよりも、基本的に食べなければ、とにかく生存ができないよという、人間というのは、動物もそうですけど、生存できないよというところで、食べ物は自分が耕すとか、自分が獲るとか…(テープ切れ)



テキスト化協力:(チャプター14)ぱんつさま