1 司会(糸井重里)

糸井
えー、吉本隆明さんなんですけど、足がお悪いんで、ここまで来るのもちょっと大変だったんですけど来ていただきました。最近とくに、難しいことを、難しいままじゃなくて、とってもやさしく話すことが上手になられて、おどかすぐらい面白い話が、急に出てきたりしますので、よーく聞いててください。

会場
(拍手)

糸井
すみません、どうもありがとうございます。吉本さんには今日、タイトルを振ってるんですけども、なにせ今日お集まりになった方の中で、一番野生に近い方で、時間もいいところで終わりにしますよという風に、僕が呼びに来ることになりそうですし、今日はとくにまた、阪神が優勝かもしれないっていう日なんで、どことなくそわそわもしてらっしゃいますし。原稿みたいなものも、あ、そうですか。「ふつうに生きる」といういちおうタイトルをお願いしたんですが。じゃあ、吉本さんの講演をお聞きください。お願いします。

2 吉本隆明、四十歳のころ

糸井さんから与えられた、命ぜられたテーマというのは「ふつうに生きること」っていうわけなんです。
ふつうに生きることなんつって、お前いまどうしてんだとか言われると、ギャフンとなっちゃうことになりそうなので、ふつうに生きること、今でもとても関心深くて、本当はそこまでいつでもいれたら、入れたらとか、そこにいられたら一番いいなって今でも思ってるんですけど、実行してないじゃないかって言われると、もうアウトっていう、手を上げる以外ないっていうんで、これは難しいテーマで、糸井さんがずいぶん難しいテーマをくれたもんだなというんで、何日か、何を喋ったらいいのかなんて考えたんですけど、結局、本当のところを言いますと、何喋っていいかわからない、喋れば全部自己矛盾だっていう風になっちゃって、どうしようもないって感じなんです。
それて考えたのは結局、一番そのことが、ふつうに生きることってのが、一番切実に、自分の生活で考えなきゃいけないし、やんなきゃいけないしっていう風になったのは、だいたい40歳前後のころだったという風に記憶しています。で、その40歳前後のころから僕が、それまでは趣味とでもいうよりほかない、何か字を書いて表現してっていうようなことっていうのが、初めてこれを商売にしようって風に、アルバイト先のほうを辞めるか、あるいは趣味の書くほうを止めるか、どっちかだったんですけど、どっちを選ぶかというのはやっぱり幾日か考えたんですけど、結局どうせどっちもだめだっていうか、どっちもいいことはないなっていうか。自分が本当は要するに、僕は工科系ですから、会社勤めをして、科学技術者になって、それで趣味でものを書いてっていう、ものって言っても僕はそのころ詩を書いていましたから、詩を書いてっていうのが自分の本来のあれだったんですけども、どう考えてもどっちも、どっちか行く道というのは何回か試みたんですけど、いずれもだめだっていう結論しか出てこなくて、で、幾日か考えたんですけど、書くほうを選択するという風に何日間のうちに決めたわけです。その代わり、ちょうどアルバイトで貰える給料と、趣味で書いてるものにときどき原稿料みたいなものをくれるときがあったりというようなことがあって、両方の収入の額がちょうど同じぐらいになったときなんですけど、どちらか決める以外にないっていうことで、考えた末に、書くほうに決めたわけです。その代わり、生活のためなら何でもやるで、何でも書くでっていうことは覚悟をその時にして、そうすりゃ何とかなんじゃないかという気がして、何とかなってきたというのか、とても親切で気を遣ってくれる人たちが、いろいろ助けてくれて、おめえ推理小説を翻訳しねえかとかいうのから始まって、わりによく友達が良かったということなんでしょうか、何かかにかやりながら今まで何とか過ごしてきたっていうことになってるわけです。それだけ、ものを書くなんてのは、これはふつうに生きることとはちょっと関わりないので、あ、いや、逆に、ふつうに生きることの正反対のことで、今僕がどうだって考えてみると、ふつうに生きることを考えてるって風に言ったって、皆さんのほうで承知しねえだろうなあって風に思うから、その40歳前後のころまでそう考え、そしてそう自分で実行してたって風に思うんですけど、そのあたりで考えたところまで遡って、どういう風にふつうに生きることっていうのを、どういう風に自分なりに咀嚼したかっていうか、考えたかってことで始めれば、何とか、最初から文句が出るってことはねえだろうって気がしましたので、そういうところでお話ししたいと思います。

3 まず、価値のある生き方とは何か

まずふつうに生きることっていうのを自分の生活の根底に置きましょうね。そうすると、根底に置いたってこと自体がひとつの価値観になると思ったわけです。今でも思ってますけど。そうだとすると、ふつうに生きることっていうのは最も価値ある生き方だという風に、まず自分で納得しなきゃいけないし、そういう理屈を編みださなきゃいけないっていう風に思いまして、やっぱりアルバイトを一日置きにやるほうを捨てて、ものを書いて、その代わり何でも書くっていうような状態で、初めて価値観としてふつうに、俺はふつうに生きることが、自分の最も価値ある生き方だって思ってるってことの根拠を自分で考えなきゃこりゃいけねえなってことで、根拠を考えたわけです。
それは簡単なことで、僕が最初に考えたわけじゃないんですけど、それは簡単なことで、僕みたいな状態なら誰でもそう考えるだろうと思うんですけど、まず、一番価値の多い生き方ってのはふつうに生きることだっていう風にまず決定するわけです。それから遠ざかる生き方っていうのは、どういう生き方でも、それはだんだん価値が少なくなる、そういう生き方なんだっていう風に、まず僕はそういう風に自分で思い決めたわけです。そうすると、自分がこれからふつうに生きることから、少しずれて、距離感を持ってずれていく生き方を必然的にしないといけないなっていう風に思っちゃうんですけど、しかし自分の価値観の最大のところをそこに置くって考え方、これはわりに大きくまた長く通用するし、ただ実行するかしないかって問題が起こるけども、まあとにかく通用する考え方だっていう風に思いました。
で、まず第一に、槍玉、槍玉にあがってってのはおかしいですけど、最も価値がなさそうな生き方をしている人っていうので、僕はそのころよく、その人の書いた本で夢中になっていた人がいて、ドイツの人ですけど、カール・マルクスって人なんです。で、この人は、一番価値のねえ生き方をしている人だって。で、この人は客観的に見て誰が見てもそうなんですけど、確かロシアのレーニンって人が、幾世紀にもわたって世界最大の思想家であったっていう風に、マルクスが亡くなったときに弔辞のなかでそう言っているんです。そうだとすれば、僕が決めた考え方から一番価値の低い生き方を貫いた人だっていう風になるわけです。で、それでいいじゃないかって風にして思ったわけです。
それで、確か自分の記憶ではそのころ、少し経ったのちに、カール・マルクスって本を出版社から頼まれて、それを書くことになって。そのとき書いた、伝記を書けばいいわけなんですけど、最初のころ、1ページか2ページごろに、やっぱりこれ価値の低い生き方なんだっていう風に確か書いてあるはずです。で、何でもない、いわゆる、糸井さんの言う、ふつうの生き方をしている人が一番価値ある生き方で、それからこれほど遠い人はいないから、一番価値の少ない生き方をした人だっていう風に、たぶんそういう風に書いてあるはずだと思います。僕の記憶は。少し怪しいですけど。そういう風に書いてあるはずですから、いつか読む機会がありましたら読んでいただければと思います。
で、そうしますと、だいたいにおいて、現在の社会で通用して、社会って日本かもしれないですけど、そこで通用している考え方とは正反対になって、そういう人たちは価値ある生き方、そういう生き方をしている何でもいいんですけど、知識人でもいいし、先生でもいいし、大学生でもいいですけど、そういう人が価値ある生き方だと思っていたり、あるいは価値ある生き方に俺はこれから、やるんだっていう風に一所懸命にやるんだって思っている人たちから見ると、まるで正反対の、お前正反対のこと言ってるじゃないかってなるようなことをそこに書いたのを覚えています。

4 百点満点の価値のある生き方はない

そしてそれは、僕なんかも非常に大変な生き方、理想の根底っていいますか、理想の根底にあるので今も変わりません。そうじゃないと、これ一番価値ないから、一番価値ある生き方、その、マルクスとかヘーゲルとか、そういう偉大な知識人と呼ばれる、偉大な政治家と呼ばれる、偉大な学者と呼ばれてる、そういう人たちから考えると一番おかしな考え方で、あいつの考え方では俺らが一番価値がねえ生き方してることになるじゃないかとか、それを志してることないじゃないかっていうことになっちゃうわけです。でもそれは仕方がないので、人それぞれですから仕方がないので、僕はそれを貫徹すると。ただ俺が実際にできるかどうかってのは、非常に疑問なんだって。だけどそれは一番価値ある生き方からの経緯(いきさつ)っていいますか、だんだん離れて逸れちゃうってことを意味するので、僕はやっぱり依然として、ふつうに生きてる人、そういう生き方を地味にやってる人っていうのが、一番価値ある生き方だっていう風に、理想として思っています。
ただ、お前実際やってるかって言われると困ってしまうので、なんか今はもうなんか、昼過ぎごろ起きて気持ちも少々落ち着いて、それで朝昼一緒の食事をして夕食はちゃんとしているんですけど、それからしておかしいじゃないかって。だいたい僕は糸井さんなんかいつでも感心してるところがあるんですけど、糸井さんという人は、なんていいますか、虚業といいますか、実業じゃない虚業を実業にすることがうまいし、よくやっているし、実行する人で、僕なんかは口でそんなことを言いながら、お前一番虚業に近いことをやってるって。虚業に近いことですから、銭もらうなんてふといやつだって風になるわけで、確かに足がふとくて、そういう風にして今生きて。でも僕のモットーといいますか、その理想の生き方から比べると、一番悪いのに近いんだけど、僕はマルクスのように偉くないから、ふつうに生きる生き方を100点として、マルクスみたいな生き方を0点とすると、僕はその中間で、まあ多少ふつうに生きるほうに近いほうで、近いほうにはなっている、半分に近いと思ってるけど、でもお前価値ある生き方ってのはどうだって言ってるくせにやってねえじゃねえかと言われると、そのとおりなんです。ただ、依然として理想としてはそれを保持してるっていう。そうなったからといって、自分を恨むことはあっても人を恨むまいと思ってますし、そういう風に0点に近いところで生きてる人も日本の社会にはいるわけですけど、現存するわけですけど、そういう人を羨むこともしまいっていう風にだけは思っているわけです。
さてそうすると、ふつうの生き方が価値あるとすると、あらゆる人の、たぶん皆さんもそうだと思うんですけど、そうだと思ってるわけですけど、ふつうに生きようと思って生きてるつもりでいたり、生きているように見えても、たぶんそれから少しずつ逸脱して、九十何点とかっていう生き方でおられて、決して僕が言う100点じゃないだろうなって思うね。誰でも多少はみんな逸脱してるんだから、俺がそれよりももう少し多く逸脱しても勘弁しろよなって感じで、皆さんのほうも多少とも逸脱してるっていう風に思うんです。ただ価値観としては、僕はあくまでもそう称するように、一番価値のある生き方は、そうじゃないんですよっていう風に思ってるわけです。ですから、本当のいう意味で、100点の価値ある生き方をしてる人は、まず、ちょっとないんじゃないかなっていう風に思うけど、だいたい90点か80点ぐらいの生き方をしていれば、あいつふつうの生き方だってこういう風に言ってくれるもんですから、僕もできるだけそこに近くしようという風に頑張ってはいるわけですけど、なかなか、お前そうはいかねえもんだよっていう風になっていまして、それは自分なりに言いますと、そういう生き方になっちゃってるんだけど、これがよくないこともよく存じているものですけど、やっぱり器量がねえっていうか、やっぱり100点ってわけにはいかないんですよって、勘弁してくださいよって言い訳みたいなものをしょっちゅう用意しながら、できないでいるわけです。
で、それで100点の生き方っていうのにはどうしたらいいのかなっていうことが問題になるわけですけど、どうしたらいいのかなっていうのを、うまく言葉で言ってくれるとか、何かに書いてくれるとか、そういう人っていうのは、僕らもずいぶんいろいろ探してはきているんですけど、100点だって人は、ちょっとやっぱりいないんですよ。やっぱり90点だとか、85点だとかいう人はいるんだけど、100点だなこの人はっていう人は、まず僕が今まで探してきた、1970年ごろから探してきた、そういう人ってのはまず本当にはいないな、探すのは難しいなって。でもそれに近い、できるだけ近い生き方をしている人っていうのはいるよなあって。で、そういう人がいると思った、この人そうじゃねえかと思う人がいるとすると、僕はもうそれだけで、この人は偉い人だっていう風に、いつでも思っていますし、思うことにしてますけど、そうすると一番分かりやすいそういう人ってのは要するに、胡坐かなんかをかいて座ってて、ここになんか膝をかけて、一日中黙りこくって細工物をしてるとか、デザインか何かの絵を描いているとか、そういう風にして一日終わったっていう、毎日それを繰り返してやっているっていう人が、らしい人がたとえばテレビに出てくると、この人はすげえ人だっていう風に、やっぱり100点だなって風に僕なんかは考えて、ひそかに敬意を表するってのは、日常いつでもありふれたことなんですけど。
そういう理想ですね、一日中黙りこくって細工物をしたり、染物したりとか、デザインの絵を描いたりとか、そういうことで一日を送っているような人っていうのを。そういう人がテレビなんか出てくると、あ、いるじゃないかっていう風に思うわけですよ。こりゃ偉い人だよ、大したもんだよっていう風に思って、俺も真似してえもんだなって思うわけです。

5 「書くこと」は百点を目指すコミュニケーション

それで、せめてそういう人に近い人のことを、何か書いてみようかとか書こうということで、最近の例で言いますと、ひきこもり症は悪くねえじゃねえかという本を書いたんですよ。そうしたら、とんでもねえ野郎だって、専門家と称する精神医学者を始めとして、そういう人たちが五千人ぐらいいるそうですけど、そういう人たちから抗議の文句が来たり、抗議の文章が出たりしてましたけど、そうするとそれなりにいい理屈じゃねえかこれはっていう風に思うんですけど、果たして、今の言葉でひきこもり症っていう人を理解するのは、俺が素人で、精神科のお医者さんが玄人だって言えるかっていったら、それは言えないんですよ。何十年も僕は文学をやってきて、偉大な文学者の文学賞を読んだり、自分が書くとかなんかやって、半分以上かなんかは本当に100点満点だっていう人から比べると、100点でもないし、また0点でもないし、うろうろその中間でやってるのにいるんで、それは精神科のお医者さんと同じで、ちっとも100点でもねえくせにしてっていう風にいえば、同じじゃねえか俺という風になりますし、だいたい小説とかなんかものを書くとかっつってさ、人間の精神の世界というのに対しては、そういうことについては玄人のつもりでいるから、まあまあお前が素人だっつったって、俺はそう思わないよ、自分ではそう思ってないよと、半分とは言わないけど、ある程度玄人だと思ってるよっていう風に、僕自身がすぐに反駁できますし、それから実際に引きこもり症というのを病気と見立てて、自分は病気だなと思ってる人に対しても、あいすまない次第で、僕は病気のふりをしているだけで、本当にそうだったときというのはあるんですけどね、それに近いときってのはあって、なんか喋っても、こういう風におしゃべりしても人には通じねえんだ、これよりはまだ自分の思ってることを書いて、書いた文字とか文章をまた書き直す余裕もあって、しゃべるというのはすぐ消えちゃいますけど、書いてまたそれを直したり、直したものをまた直したりって操作をやるってことで、かなりな程度、百点満点にできるだけ近づくって、できるだけ近づいたってことがやれるはずだって思って。これはしゃべるよりはまだいいんじゃないかってことは、僕がものを書くとき、趣味で書き始めたときの動機なんです。
それでこの動機もまた、今もまだほんとはそうだよって思ってるけど、それほど自分は実行してないよ、それほど実行してないよってっていう風に思って、そこはみっともなくてしょうがないけど、大きな声では言えないはずなことなんですけど、だけど、喋ることよりも書くことのほうが相手に通ずるかもしれないという考え方を今でも僕は持っているわけです。文学みたいなものはみんなそうだと思っていて、偉大な文学者がいたとしたら、この人たちはいわゆるふつうの価値観でもっては百点満点に近い、あるいは百点の人は、偉大な文学者でいますけど、そういう人でも本を質せばというか、いっちゃん初めにものを書き始めたときのところまで遡れば、なぜものを書き始めたんだって訊いてみれば、僕はたぶん間違いなく、喋ったことは音声として知られるけど、それが受け取る方は、いかようにでも受け取ることができるし、また誤解することも、一部分だけ受け取ることもできるので、よく伝わるかどうかはわからないです。それよりも自分の考えていることを、自分でもって書いて、その書き方が完全かどうかは、自分にとっては完全に近いところまで直すこともできますし、そういう風にして差し出せば、人は少しはわかりやすいっていう風に感じてくれるんじゃないかっていう風に思っているわけです。そうすると、どんな偉大な文学者でもたぶん同じだと思ってるんですけど、直接訊いたわけじゃないから確認ができないですけど、そう思ってます。

6 文学は自己慰安を本質としている

それはどういうことかといいますと、文学みたいなことを専門的に、小説でも詩でも評論でもいいんですけど、それを書いて、できるだけ人に通じるように手直しをして、人に差し出すって、読んでくれる人は読んでくれないかって風に差し出すというのは、差し出すことが目的のように見えるけど、本当はそれは僕は、文学というのは根本的に自己慰安だと思っています。自分を慰めるために書くというのは、文学の、書いてるとか、書くとか、偉大なことを書いたから偉大な文学者だ、そういう風にいうことが本当であって、本当はそうなんであって、訊いてみればきっとそう言うに違いないって思うんです。偉大な文学者はそう言うに決まっていると僕は思っています。僕は偉大じゃないですけど、そういう風に思うことだけは止めまいと思っているわけです。そうするとそれはなんなんだ、要するに自分を慰めるために書くとか書いたとかいうのは、偉大だろうとなかろうと、文学者っていいますか、文章を書いている人に売るとか見せるとか、専門としている人たちの本音っていうのを問い質してみれば、まず、十人の偉大な文学者がいたとしたら、まず十人全部と言いたいところですけど、まあ九点いくらかもしれないですけど、ほとんど全部、文学とはなんだと言ったら自己慰安だって言うだろうと僕は思います。本音として言えばそうじゃないかな。人に見てもらっていうのとか、その上金までとろうって欲張ったやつは、つまり僕らみたいなやつは、一番文学者のなかでだめなやつだっていえば、そう言える。これは自己慰安なんだ、僕も今でも自己慰安の部分があると思って、これなくなったらお終いっていう風に思ってるわけです。でも偉大な文学者がまず百人が百人、十人が十人、なぜ書くのかっていったら、人に伝えるためとかっていう風には言わないと思う。僕はすごく確信しています。つまり自己慰安のためですよ、それ以上、以外の効用もなければ利点もないんですよっていう風に思っていますからそう言うと思います。文学者の言うのが本当だろう、本音だろうと思ってるわけです。
ところが近ごろ、つい最近ですけど、テレビを観ていたらすげえ人がいて、親父か、親父の親父か知らないけど、そういうのが借金をたくさんこしらえて、自分がその代わりにそれを支払わなけりゃならないと。何したら一番よく支払えるかって考えたところ、要するに小説を書くのが一番いいと思って、小説家になったんだって言ってた人が、テレビで僕観ましたけど、で、その人は、あの、そんなこと言うとその人が誰かって分かっちゃうかな、つまり、わりあいに新しい直木賞か何かを貰った人です。その人は堂々たるもんで、親父先祖代々の借金をどうしても支払うために、自分が小説家になったんだって、公然とかつ、まともにそういう風に言っている文学者は、このごろは出てきたんだってことを、いわゆる文学なるものが重大な転換期に遭遇しているとしか僕には思えないです。つまり、そんなところで、文学は自己慰安ですよって言ったって、そりゃあ通用せんだろうなあって思って、通用させる必要もねえやって、そういうのは関係ねえんだって思えばいいじゃねえかって風に思いまして、非常に感心して、これは逆マルクスに匹敵する、偉大な文学者だという風に思って聞いていましたけどもね。僕はいくら近くなることはあろうとも、つまりそれ以外のことはできないところまで、ざまあみろになることはあると思うかもしれませんけども、でも、僕は文学は自己慰安ですよ、ほかの人が読んだとか、あるいはほかの人がなおかつ金を出して読んでくれたとかってのはおまけであって、嬉しいことではあるけどおまけであるって風に思いますけど、本質は自己慰安なんです。それを自己慰安だって言いますとね、文学とか、ものを書くとか、興味を持つとか、文学書を読むとか、書物を読むとか、そういうことを始めたばっかりの少年少女に対してもそれは通用するんですよ。それから偉大な文学者に対しても、文学は自己慰安ですよって、自己慰安を本質としますよっていうと、それは偉大な文学者の場合でも当てはまるんですよ。それから、ほんとに本を読み始めて、小説を読み始めて、面白くてしょうがないっていう人も、ある程度は納得するわけです。自分もそうなろう、つまり、これを書いて借金を払おうって決心して一生を過ごしたり、それから逆に、俺は金なんかひとつもいらないんだけど、これは自分を慰めるために書くんだ、それで自分以外の人が慰められることがあったら、おまけで、なおさらいいやって、その上で金でもくれるっていうならなおさらいいやっていう風に、そう思うかもしれないですけど、この文学ってのは自己慰安を本質とするって考え方は、まずごくふつう、糸井さんの言う、ふつうの生き方をしている少年少女から偉大な文学者まで、一様に通用すると僕は思っています。もちろん僕みたいな、中途半端なやつにはもうなおさら、どこをどういう風に勘定しても通用するってなってますから。

7 ゼロの価値観を主張するということ

さて、それじゃふつうからどうやったら逸脱するのか、逸脱するのは悪くて仕方がないんだけど、逸脱するのは自分にとってはやむを得ないんですよって人が、いろんな職業でそれぞれいると思いますし、また僕みたいに口先だけだってやつが、そういう風に言いながらほんとは中間で、100でもなければ0でもねえ、誰からも文句ができるだけ少ないような調子でけっこうやってるみたいなやつもいるわけだ。でも大勢いるからとか、少ないからどうだ、価値観に関係あるとかないとかってことはないのですよ。価値観というのはそういうことには関係ないので、仮に僕が0だったとして、何らかの価値観をどこかで持ってるっていうことはあるわけで、それを否定することは全然ないんですけど、本質的な筋合いといいますか、経路だけを取ればそれでいいんですよっていう風に僕は言いたいわけで、いろいろ、いろんな人がいるわけです。それは単にものを書くとか書かないとかってことだけではなく、勉強するとかしないとかってことだけでもなく、なんでもいいわけ。つまり政治家で、俺は内閣総理大臣だとか、なんとか大臣だっていろいろ言うわけだけど、そういう人は、0って人はなかなか難しいんで、0でもないしね、100なんかとんでもない話だって、そういう人はたくさんいるわけです。あるいはそういう人だけがたくさんいるって言ってもいいのかもしれない。それは、その人にとってはしょうがないよなって、本当は価値観としてはそう思っていないんだけど、自分はそうなっちゃった、だから自分は政治家として百点満点というのを理想としているって人には違いないんだけど、俺はつい20点ぐらいになっちゃったんだよって人は実際にいると思いますけど、それはやっぱり、20点は20点だよ、どう言ったってっていうことは間違いないので、僕は間違いないと思っているので、僕はやっぱり20点だと思っていますね。つまり、いくらほかの価値観が、逆の人が、いくらそういう人をえらいと思ったり、褒めたりしても、僕は全然、これはまず20点だよとか10点だよとか、暴言が好きな人だよなんて、僕もそうだけど、そう言われたりとかね。いろいろいるじゃないですか、そういう人だっていう風に。ちっともその価値観が妥当であり、その価値観に従うことが妥当であり、それからまたそういう価値観に従うために自分は一生懸命勉強しているんだとか、一生懸命ひきこもり症をやめて出ずっぱりになろうと思っているんだとか、そういう人はまた青少年のなかにもいっぱいいるでしょうけど、僕はそういうのはいくら、俺は専門だって、精神科のお医者さんが言ったって、それは僕は信用しないですね。50%は信用してもいいけど、専門家が言うならいいけど、あとの50%は信用していないですね。つまり僕は信用しないですね。だから、この世界の価値観というのは様々でありうるし、またあっていいわけです。けど、本当は、0か、じゃなきゃ100がどっちかが良いわけでしょうけど僕は思います、はっきりしていていいでしょうって思いますけど、どちらでもないというのが一般的なあれで、0もいないだろうけど100もあんまりいないなっていうのが、そういうのが世論というものを形成すると思います。今の時代っていうと漠然としますが、もう少し具体的に言いますと、現在の日本社会というの中では僕自身がどう思っているかと言いますと、つまり僕のひっくり返った価値観でもって、自分が100だと思わなくても、60ぐらいだと思ったらその60というのはちゃんと言ったほうがいいですよという風に思ってます。自分は価値観0だと思ったらやっぱり0だと言ったほうがいいですよ。これで家計の借金も自分は返そうと思っているなんて言わないほうがいいと思います。つまり役立つもんだって思わないほうがいいと思います。やっぱり俺0にならないためにちょっとだけ誤魔化してるんだよとか、そういう風に言ったほうが正直だと思います。

8 現代は反対の価値観を主張する者と徹底的に対立していい時期

今の時代というのも詳しくというか、僕が知ってる限り説明したり解説したりしてもいいんですけど、そんなことは無駄なことだから、ただこうしたらいいんじゃないですかということを、ひとつふたつ、ふつうの生き方ができている人に対して、おこがましいですけど、ひとつふたつ参考になることを申してみますと、これも参考になるかどうか分からないんだけど、僕が考えてることでいいますと、現在日本社会で生きている人間で一番考え方やり方として、一番いいこれはやり方だってやり方を言ってみますと、ふつうの人がふつうに生きている、それを僕は価値観0という風に言いましたけど、この価値0とは、自分が仮に0じゃないけど、30ぐらいとか10ぐらいとか、ものすごい100に近いほうだって自分で自分を評価している人はどうでもいいですけど、自分で自分を評価して0ではないという人は、0という人と、まっとうに、真っ正直に正面からぶち当たって対立して、そして対立していることを言ったほうがいいと思います。公然と言ったほうがいいと思います。これ言ったほうがいいとか言っていいことなんです今という風に僕が言いたいのは、何かは分かりませんが、何かの過程といいましょうか、道のりの途中にある時期だから、日本の現在というのはそうだから、そういう時期にはね、0の人が目に付いたら、自分は30であっても90であってもどちらでもいいですけど、0の人と徹底的に対立するとか、対立する考え方をもっていたとしても、0の人たちの考え方と徹底的に正直に真っ正直に対立していい時代だと思っています。だからそうしたほうがいいですよ。
つまり自分は0でもなくて、60ぐらいあると思っているくせにして、人前で言うことは0に近いことだけしかいわねえとか、その逆だったとか、そういう人があまりに多すぎるんじゃないですか。あまりに映像に出てくるえらい先生が言うことを聞いている、宗教家がお説教することを聞いている、そうすると大抵は0と正面から対立してやろうというようなことを表立って言う人はいないんですよ。それから自分は0だと思っているから100だと思っているやつと決定的に対立してやろうじゃないかってすれば、今の時代に非常に合うんですけど、そういう人があんまりいないですね。つまりどちらもいないんですよ。だけどそんなこと遠慮する必要ないんですよ。皆さんが0だったら、100なやつは案外ろくなことしてねえとか、わけの分からんこと書いて金取っちゃったりしてとんでもねえやつだっていう風に対立したほうがいいと思いますよ。対立しないで、あの野郎と言いたいところなのに、0じゃなくて20ぐらいあるような顔しているってのは、相手を馬鹿にしていることになるから、それはあんまりしないほうがいいと思います。逆に俺は100に近いんだと思っているやつだったら、0のやつと徹底的に真正面から対立する見解を大きな声で述べたほうがいいですよ。公の場でも述べたほうがいいと思います。そうでないと、どちらも生まれないんですよ。本当の0っていうのも本当の100っていうのも、なかなか生まれないんですよ。本当にそうだったら、多少まきつけてもかまわないから、反対の価値観を所有する人と対立してもいい時期だと僕は思っています。それは僕、経験上の実感からきているので、戦争中は0であろうが100であろうがふつうに目立つようなことを言ったら連れていかれちゃいますからね。だからみんなそういう風に、0の人も2、30ある顔をして、なんか言ったり書いたりしますし、100だとひそかに思っているそういう人も、自分はせいぜい40ぐらいですよみたいなふりをしてなんか言って、そういう風に言うと、何が言ったっていいけど、そうすると人が言わなくても自他共に100だと思っている人もいるわけです。そういう人だけがいばるからなあ、いばったそいつの言うことを聞かなきゃならないって、これは僕、実体験ですから申し上げますと、そういう風な気持ちになるから、それは違うんであって、0であろうが100であってもそれが一番いいけども、どちらでいいことなんだと。誰でも0であってもいいし100の生き方をしてもいいし、個人個人を取ってきた場合には、こう生きなきゃいけないなんてことはないんですよ。人に言うこともないし、そういうものは存在しないんです。だから個人個人というのを取っていけば、0にきたっていいし100にきたっていいんですよ。また100を目指したって0を目指したって、どちらでも、誰からも文句を言われる筋合いはねえやって言えばそれでいいわけです。戦争中だったらそうはいかないわけで、お前ちょっとおかしなことを言ってるみたいな、そうはいかないってことはあったんですけど、今は一人ひとりの個性に従って自分の本音を、0であろうが100であろうがどちらでも、本音を言ったって誰からも咎められる筋合いはねえっていうのが今の社会なんで、それは遠慮することはないと僕は思っています。

9 誰からも批判される筋合いはないという考え方

それからもうひとつ、今ってことでもうひとつ言ってみたいなと思うことは、もし今って言うのが大変きついところで、これは政治社会それから理論的傾向がどうであるからっていうにかかわらず、ものすごくきつい社会になって、もう何もいいようがないやってような風になったときは、もう仕方がないから、自分は0か100だと本当は思っていても、いやいや自分は40ですよとか50ですよとか、あるいは20ですよっていうふりをして、できるだけ大勢の人と同じようなことを言って、世論か何か知らないけど、そういうのを作って、同じようなことを言っていたほうが、そういうときには無難ですよ。それでいいと思います。それでそれは、それじゃないと、歴然としてることは、自分はいいことをしたとか、自分は人のためにいいことをしたって風に自分は思って何かをしたんだけど、それをちっともいいって風に言ってくれない、悪いことをしたって風に言うやつのほうが多くて、そういうのから制約されちゃうとかね、そういうことっていうのはきつくなったら、そういうことはありうるから、そういうときは自分は0でも100でもいいけど、そういう風には言わないで、世論にしたがって、あなたの言うことはごもっともですねとか、新聞やテレビのキャスターの言うことは立派なことですねとか、思ってなくても口で言ったりして、あまり仲たがいしないほうがいいと思います。できるだけ仲たがいしないで、とことんまでいけたら、やっぱりそれは0であろうが100であろうが、どちらであっても、反対の役割を同時に果たすことができると思います。でも、0か100なのに、30か40とか60ぐらいで止めてたことばかり言っていると、もうそれだけしか口が開かなくなっちゃって、口が開くと両方の、出来物ができて、痛くてしょうがないってなっちゃうから、そういうときはきたら、そう突っ張らないほうがいいですよ。でも今は何を言ったって、そんなことは自分の勝手だって自分の考えだ自分の勝手だ、誰からも文句を言われる筋合いはないっていうのが正しい考え方ですから、それはそう言ったほうがいい。だから石原さんなんかは割合にいいほうじゃないですかね。本当はそう言いたいんだけど、40、50でごまかしているやつよりは、そのほうがいいんじゃないでしょうかね。僕はそう思います。点数がいかんというのは、0か100かどっちがいいのかという問題とはまた別問題であって、100持ってたら100言えばいいじゃねえかって、それで誰かが文句言うやつがいたって、それはお前なんか言う筋合いないじゃないかって、お前なんか俺のことを、批判的なことをいうそれだけの器じゃねえだろうって、でも言っておけばそれで済んじゃいますからね、それは大いに言ったほうがいいんじゃないでしょうか。そうでなければ口の開き方が、大きく開くことを忘れてしまいますからね。だからそうしたほうがいいんじゃないかって。それはふつうに生きる人に対して僕が多少自分のいんちきさを交えて、でもわりあいによく考えていることのうちに属しますから、それは勘弁してもらって、言いたいことのひとつなんです。

10 国家とは何か - 無意識のなかの日本国

もうひとつあるんです。二つ、それだけでいいんですけど、もうひとつあるんです。これはかなり重大なことになるかもしれないですけど、日本の人、日本人ですか、日本列島に住んでいる人、日本人だけじゃなくて、東洋に住んでいる人って言ってもたぶんいいと思うんですけど、そんなに僕は東洋のことを知らないから日本人という風に言っておきますけど、日本人っていうのは、言ってみれば一番それが重要なことと思っていることなんですけど、日本人っていうのは、たとえば日本国家って言うでしょ、つまり、日本国家、あるいはどこでもいいです、フランス国家とかアメリカ国家とかって、先進国だけ挙げてみて、日本国とか、日本の現在は通常言われていることは民族国家とか、国民国家とか言われているんですけど、今の世界の先進国ってのはそうですけど、アメリカもそうですし、ヨーロッパで言えばフランスとかドイツとかそうですけど、国家っていうものは日本人ないしは東洋人が考えている国家、だから皆さんで言えば、東洋人のうち日本人でもいいんですけど、東洋人のうちふつうに生きている人っていう風に、まあわかりません、偉い人もたくさんいるかもしんないんですけど、いちおうそういう風に、顔は見えないですから、そういう風に規定しますと、日本人ってのはまず、ほとんど、偉い人からふつうに生きている人まで、全部そういう傾向があるといってもいいんですけど、日本国ってなんだってそういう人に聞いたとしますと、まず間違いなく、100人いたら100人に近い人がみんな、自分も含めて、頭のてっぺんから足の先まで、自分もその人もみんな含めて、そのうえ領土つまり日本列島を含めて、農家の人だったら自分の持っている田畑(でんぱた)を含めて、そういう全部を入れて、日本国とはなんだってったら、意識的にも無意識的にも、その全部を入れて日本国っていう風に思ってると思います。偉い人で、俺はそうでもないよって人はいるかもしれないけど、それは勘弁してもらうことにして、全部そうっていう風に仮定していいますと、日本国に住んでいる日本人っていわれているものは、日本国とは何だって聞かれたら、たぶん自分の足の底から頭のてっぺんまで、それから人もそうだって、それは例外なくそうだって、それに地面の所有地とかそういうのも含めて、それから農家の人みたいにそれを絶えずよくしたりいじったりしているような人も含めて、それから農家みたいに食料を作る人に関係ないことに携わっている人も含めて、たぶん例外なく100人いたら100人、そういう全部を含めて日本国っていう風に無意識のうちか意識的にか思っていると思います。それははなはだ東洋的にいいことであると思います。
ところで西洋の先進国、どこでもいいです、アメリカでもいいしドイツでもいいしフランス国でもいいけど、そういうところの人は、フランス国とかドイツ国ってなんだってたとえば聞いたとします。したら0の人も100の人もたぶん100%、100人が100人、それは政府だって言うと思います。今ある政府のことだって言うと思います。今あるアメリカの政府はアメリカ国である。アメリカ国とはなんだっていったらブッシュ政権だってこういう風に言うと思います。つまり日本人とまるで違うってことです。つまり国家、国、あるいは民族でもいいですけど、お前の民族は何だって聞いたら、たぶんみんなそれは政府のことだって言うと思います。あるいはブッシュを首班とするアメリカ政府のこと、これがアメリカ国だってこういう風にいうと思います。これは日本の人は同じ言い方をすればどんな知識的な人でも、足の裏から何から全部、地面も全部含めて、日本国って何だって聞かれたらそれですって、それ全部含めて日本国ですっていうふうに言うと、それは100人いたら100人そうだと思います、もちろん、無意識的なのも含めて言えばそうだと思います。これはやっぱりよくよく注意しないと、たとえば日本でも一例であるですが、それは裁判なんかやって、国家の補償が足りなくて損害を受けたとか、重たい刑を、自分がそうでもなかったのに重たい刑罰を受けちゃったとかいう人が、面白くないっていうんで、政府を相手取ってって言わないで、そん時は国家を相手取ってって言いますよね。よく注意してごらんなれば、そのときは国家を被告として、自分は訴えて、裁判で訴えて弁償してもらうとかなんかってそういう風になるわけです。日本国だったらまずそういう場合とか、小さなことを言えば、郵便局に行って、62円切手くれとかって切手買うときには、これは売るほうは国家ですから、政府のこと、西欧流に言えば国家ですから、つまり国家を相手にして62円の切手くれとこういう風に言ってることになるわけです。小さなことではそういうことです。それはどちらでもそうですけど日本国だったらみんな例外なく、知的な人もそうじゃない人も、そういう風に国家というのを、足の裏から頭のてっぺんまで含めて国家だって言うと思います。
ところが同じことを、西洋の人に聞いたら、まず100%、国家かああそれは政府だって言うだろうと思います。この違いはものすごい違いであって、これは皆さんを仮にごくふつうの生活をしていることを実行できる人だと仮定したとしても、まず無意識あるいは意識的にたぶんそういう風に考えていてそういう風にもしかして言うかもしれないと思います。それはほとんどが例外がないと思います。特別専門家でない限りは。裁判官だったら、国民に訴えられたとして、裁判官だったら国家の代表ですから、われわれ国民はとは言わないで、国家はこの被告に対して賠償をいくらにしろとかって判決をするということに決まっていますから、そういう特殊な職業の場合、特殊に言うときって、日本でもそういう風に言われてっけど、たぶんヨーロッパとかアメリカとかでは、国家って言ったらそれはアメリカ政府のことよとか、フランス政府のことさとか、そうだいたい思っていると思います。それが常識的というのか当たり前だと思っている。日本国だったら当たり前っていうのは要するに足の裏から頭のてっぺんまで領土も何もみんな含めて日本国だって風に思っていると思います。だからそれがどちらが良い悪いじゃなくて、これは世界の地域を二分しますとだいたいそういう風に言えるので、そうするとどちらが悪いとかっていうことはないのです。僕個人の考え方をもっと言っちゃいますと、どちらが馬鹿でどちらが利口だということもないです。馬鹿だと思えばみんな馬鹿だけで、利口だと思えばみんな利口だと思えばいいので、それに区別、差別はないよとか、知識はあるからないからとか、そういうことなんか全然関係ないんですよ。そういうものはわれわれに肉体の身についていたり、日常生活の風俗習慣の中にそれがあったりしますから、まず100の知識のある日本人って言うのは価値観の人がいたとしても、日本国、ああそれは小泉政府のことさって、俺は知らんよそんなのって風に言うかどうか僕は疑問だと思います。だけど西欧だったら逆であって、何々国つったらなんだって言ったらそれは今の政府のことよって、だいたいそういうのは常識的にそう言うと思います。言っていいって言われている人はそういうと思います。それだけの差っていうのは、今みたいな知識はどうでもいいわけです。僕は無駄話でそういっているわけじゃなくて、時が時で非常にいろんなことが非常にギクシャクしてきた時代だと、その違いは愕然として違うことであるし、愕然としてあいつは敵だって、ああいうことを言ってるやつは敵だとかっていうことに世界中の、それぞれの民族国家の人たちは、みんなおのおの自分のほうが正しいと思って、そういう風に緊迫してきた、そういう風になるに決まっているわけです。なります、必ずなります。
だからそのとき、そんときはちょっとやっぱり、俺はふつうの生活をしてんだ、していて何が悪いんだっていう風にちょっとだけ通用しないので、俺は日本国とはこういうもんだって思ってるとか、こういうもんだって思ってるとかっていうことを、はっきり言ったり、させたり、はっきりさせるために喧嘩したり、なんかしたりとかっていうくらいに思ってたほうがいいんじゃないでしょうか。それは僕が助言、現在の段階で助言できて、なおかつ有効性はあるぜって思える、いまふたつ申し上げましたけど、わりに大きな二つのことなんです。これはたぶん覚えておいて損はしねえよなあっていうふうに、本質的な意味で損しないと思います。あの、具体的にはこう言ったために損俺しちゃったとかいうことはあるかもしれないけど、本質的に言えば損しないってこういって何が悪いんだってことになると思います。これは重要なことで、なんでもないように生きています、なんでもないように生活していますって人が得てして言い忘れることであり、また得てしてそういう人だってなおかつ知識ある人がそういう馬鹿なことというか間違ったことを言って、これが悪でこれが善だみたいなことを言いますから、だからそんなことは信用しないほうがいいですよ。それでそれを信用しないためには、自分がそれを持っていたほうがいいですよ。それは違うもんだぜって。ただ思っているだけでいいので、こういう平和なときにはそういう風に思っているだけでいいので、思ってて今から喧嘩する必要はない、それは石原さんみたいに当事者に近いところでにいて、喧嘩しねえと癪でしょうがないみたいなやつがいればそれは喧嘩してもいいけどさ、常識どおりふつうどおりに生きている人は今は喧嘩する必要はないですよ。だから、それでいいと思います。糸井さん、なに?

糸井
時計代わりです。

会場

吉本
今あと5分ぐらい?

糸井
はい。

吉本
そろそろ。俺勘がいいですよ。

糸井
勘がいい?

吉本
僕もそろそろこれでいいんじゃないかと思って。

会場

吉本
ただ、そんなことばっかり言って。

11 〈偉大〉の向こうにあるもの

ひとつだけ高級なことを言わせてほしいんですよ。僕がやっぱりこの人偉い人だなって思っている人で、もう死んじゃった人ですけど、1920年代ごろまで生きてたけど今は死んじゃった人ですけど、フランスの人ですけど、フランスの女の人ですけど、この人はつまり僕が合間に申しました、そういうことはもちろんはっきりと明言した人でありまして、たとえばトルツキイって偉い人がいるわけですけど、その人と自分だけで喧嘩して、トロツキイがいない、こっちの人がソビエトロシアなんてあんなものは労働者の国じゃないってしょっちゅう書いてた人ですけど、トロツキイに対してお前そうじゃないかって聞いたらって、トロツキイが亡命してアメリカへ行く途中ですけど、フランスに立ち寄ったときですけど、いや、労働者が認めている政府は労働者国家という風にいっていいんだって頑強に主張するんで、だけど、なにいってんだ、お前の言うようなことが本当だとすれば資本主義国だって労働者が承認しているからそういう政府になっているじゃないか、労働者が承認しているからだってことを意味するからだって言って、お前馬鹿だって言われた人なんだけど、その場合の馬鹿はやっぱりトロツキイのほうが馬鹿だって思います。そういうことを平気で言った人で、それはどうでもいいですけど、あまり大げさなことでどうでもいいんですけど、そうじゃなくて個的な人間性のことでいっていることで、どんな偉大な人でも、100点満点の価値観で生きたなって誰でも認めざるを得ない人でも、そういう人じゃない人も交えてそうですけど、そういう人であっても、偉大な政治家とか偉大な文学者とか偉大な芸術家とか、そういう人は偉大であるってことは確かであるけど、人間って言うのは、個々の人って言うのは、偉大な人たちがいる領域のはるか向こう側のところにそうじゃない人がいるんだって。そうじゃないというのは、それ以上の人がいるんだって言ってるんですよ。それ以上の人は何かって言うと、それはなんといいますか、要するに二つ条件があって、ひとつはまず無名の人だって言うんですよ。無名の人だから、誰だっていう風に探そうとしたって、今皆さんがここにいて、暗くて見えないか、こんなかにいても見えないで、僕は見過ごすに決まっているわけですけど、要するに無名の人だって言うんですよ。だけどそれは最も偉大な歴史上の人間よりももっと偉大な人なんだって、だけど残念なことに、無名であって、それじゃお前だとか、お前こう考えてるのかって聞いたって、なかなか誰だかわかんないんだから言ってもくれないよって、そういう領域ってのは、人類がもっとも偉大だと認める人たちよりももっと偉大な人たちがいる領域ってのがあって、その領域は無名の領域だから分からないんですよ、つまり誰だってことが言いがたいんですよっていうのがその人の考え方なんです。で、僕は好きなんだけど、要するに価値観に100って言ったって、俺はそれはうそつくなよやだからなって引っかかるぐらいですから、その人はもっときっと自分は高い、大きな本質を人間に対して持っていた人だと思います。でもその人、いいなあと思うわけで、つまりかっこいい人だなって思わざるを得ないですね。そういう領域があるってことを言い切る、無名の領域があるって言い切るだけだってかっこいいねって。で、この人は死ぬまでそれに近づこうとして一生懸命になって、不得意なことでもやった人ですけどね。そういう領域があるんだって、それは常識的にというかふつうどおりに生きている人にとってはそこまではしなくても結構ですよとか、考えに入れなくてもいいですよとは思います。でも価値観が100というのと、価値観が0というのは難しいって言う、自分たちはその中間の領域にいるよってことだけは、心得て恥じぬことであって、それから日本人と、西洋の人と東洋の人とは、ちょっと国家観とか社会観ってなると、ちょっと違っちゃうよ。同じだと思うと、とんでもねえ誤解をするかもしれないよってことは、今役に立たないんですけど、役に立つときがあるかもしれないから、そのときなんか変てこりんなところに逸れたりしないようにって考えますと、いつかは役に立つことを俺は今日言ったなっていう風に思わせてくれればいいと思いますけど、そういう領域の、偉大な人の領域のもっと向こう側に、そういう領域があるんだよってことは、これはすげえ格好いいな、極致だなって思いますけど。それはちょっと不親切、嘘つきだけど口にするあれはないな、だけど嘘はちょっとつきにくいなと思っているわけです。
ちょうど時間が来ましたので。

糸井
ありがとうございました。

会場
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12 司会(糸井重里)
糸井
吉本さん今おっしゃっていた格好いい女性って、シモーヌ・ヴェイユ。

吉本
そうなんです。

糸井
ああそうですか。

吉本
ええ、頭のいい人ですけど。

糸井
そんな無理に歩かなくてもいいと思います。どうも本当に、ありがとうございました。

会場
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吉本
いやもう本当に、口の中が乾いちゃってしょうがないから。いろんな野次が飛んでくるかなって思ってたら、大人しくっていうか、静かに聴いておられたので、そういう意味では言いたいことを少し言えたかななんて思ってるんですけど。

 

 

テキスト化協力:しばてんさま