1 挨拶(糸井重里)

2 司会(糸井重里)

3 敗戦の衝撃

 早速、話をはじめたいと思います。もっとでかい方がいい?
 えーっと、1945年8月15日っていうのは、僕らみたいな戦争中青年だった人間にとって敗戦かつ降伏という宣言を聞いた日です。これは、天皇の言葉で、勅語みたいなので述べられたものです。それを動員していた、富山県の魚津っていうところの日本カーバイドという工場で、全員集合ということで、そこで、そのラジオ放送を拡声器で聞いたっていうのを覚えています。時間は午前の昼近くか、午後の昼近くか、ちょっと、僕の記憶ではあいまいなんですけど、そういうふうに聞いたと思います。
 そのときに、余計な話なんですけど、そのときに、放送の音声がきわめて途切れ途切れで、何を言ってるのかわからないなぁっていう調子だったんですがそのうちに、これも、僕の覚えてる限りで、言葉が怪しいですけど、「忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え、万世のために太平を開かん」っていう儒教的な言葉がその中にあったんです。そこまできたときに、僕はすぐに、「ああ、これは降伏及び敗戦の宣言だな」ということをはじめてわかりました。
 そのまんま僕は、すぐに、ひとりで勝手に普段いる会社の寮に帰ってしましました。帰ってぼそぼそ、戸を閉めてひとりで泣いてたっていうのを覚えてます。もともと、泣き虫でしたけど、そのときの、泣いてたっていうことには、なんて言うか、理由がないんですよ。理由がないっておかしいけども、つまり、僕が別に降伏したいと思ったわけではなくて、非戦主義者ですから、あくまでも「やりますよ」っていう感じだったし、それから、その「万世のために太平を開かん」っていう儒教の言葉で言うわけですけど、そんなことは、なんと言いますか、問題にならんじゃないかっていう
不服と、それから、敗者の負けたもんのプライドみたいな
その両方入れ混じった感じだったのを覚えてます。
 これらの感じ方をよく整理するために、だいたい、僕、
いわゆるそれからあと、戦後ですけど、だいたい、5、6年かかってると思います。5、6年かかって整理しました。
整理したところ申し上げますと、つまり、おれは、自分は要するに文学青年だったですから、日本の文学については近代文学について、わりによく知っていましたしそれから、自分が幼いけど、詩を書いたり、メモを書いたりして、戦争中からすごしていましたから、また、詩も小説も読んだりしてましたから、文学については、自分なりの考えをもう戦争中に持っていたわけです。ところが、このなんというか、突然の降伏および平和宣言のために戦争やめるんだ宣言でやめるんだと、それを聞いて、僕は、そのときから、だから1940年からって言ったら、1945年か6年くらいまで、何を考えて何をしたかと言いますと、つまり、僕は要するに、文学青年だったから、文学について、あるいは人間の精神活動とか、
あるいは心理的なイエン(?)とかそういうものについては、自分なりの判断力を持って自分なりに心得てるつもりでおりましたけれど、ようやくして感じますと、僕は戦後の降伏の日から、5、6年は、結局、言葉で言いますと、つまり、「おれは……」「おれは……」っていうのは、まずいかな。要するに、「わたしは……」(笑)「わたしは世界を知るためにはどうすればいいのか」世界を知る方法を少しも知らなかったなって、つまり考えたことなかったなって、いうことをはじめて気がつきました。それで「こりゃいかん」というふうに思ってつまり「世界を知るにはどうしたらいいのか」っていう勉強をその後、懸命になって、5、6年続けたと思います。そのときは、いちばん、なまけ者の僕がいちばん勉強したときでいちばん、ものを考えたときで、それで、
「これがわかんなければ、おれは生きてる甲斐がないじゃないか」っていうくらいの思い込みでしたから、非常にまじめに熱心にそういうことを勉強し考えていくということを、5、6年やったと思います。
 5、6年やってるうちに、だいたい、道、少し自分のどうすればこれから生きていけるのかっていうこれは、自分自身の問題ですから、そういうことが、おぼろげながらわかるようになったというふうに考えております。
 この自分の持っていた文学的素養っていうか、そういうものと、それから、敗戦後のそういう世界を知るっていうのは
どうすればいいのかっていう問題とを結び合わせれば、「おれは少しこれから生きていけるかなぁ」っていう、そういう感じが、少し出てきたということになると思います。

4 古典経済学から芸術言語論へ

 世界を知る方法として、僕が選んだのは、だれもがたぶん同じように選んだんじゃないかと、同じ選び方をしたんじゃないかと思いますけど、僕なんかが選んだのは、要するに
いまで言えば古典経済学といいましょうか、アダムスミスからマルクスまでっていう、古典経済学というのが世界をなんか認識したり、つかんだりするのに、いちばん近いんじゃないかっていう考え方を持つように、持てるようになって、そしてそれを大真面目に、アダムスミスからマルクスまでっていう形で、ひとつ、ひとつ、検証しながら読んでいって
考えていったというふうに思います。
 いちばん最初に、アダムスミスだったんですけど、アダムスミスっていうのは、この人は偉い人だなっていうふうに、すぐに思いました。それは、なぜかと言いますとアダムスミスの国富論っていうのが、まあ主著ですけど、国富論のノートっていうのがたしか、水田洋さんの翻訳で出てたんですよ。それを見ると実に簡単にして、実にみごとな、なんて言いますか、古典経済学の考え方っていうのをみごとに言い当てていたんです。やさしい言葉です。みなさんの、全然、経済学なんていうのは知らない人でも専門家の人でも、どちらにも通用する、すごい、すばらしい、やさしい言葉で言ってありました。それは、僕は、もう、あざやかに、例えば、ニュートンがリンゴの落っこちてくるのを見てものが落ちるのはおかしい、どういうことなのかなっていうのを考えたことにヒントを得た、というのとおんなじぐらい、それは、みごとな洞察をスミスっていうのはやってます。
 それは、どういうことかと言いますと、こういう例をひいてます。例えば、野原に1本のリンゴの木が生えてた、と言いますか、あった。そして、そのリンゴの木にたくさんの実がなっていたとする。で、その実のひとつを取って食べたいというふうに考えたときに、その実ひとつの価値ですね、バリューですね、価値っていうのは、どういうふうに考えるべきかっていうのを、国富論の解説といいますか、註釈といいますか、ノートといいますか、それの中でやさしく述べてるわけです。スミスの言い方はこうです。野原に自分が立っているところから、歩いて行って、それでリンゴの木の幹を登っていって、そのリンゴ1個つかんで引っこ抜いたと。引っこ抜いて、また幹づたいに降りてきて、元の所まで帰ってきたと。この間、つまり、行ってもいで帰ってきた、元のところへ帰ってきたそれまでに費やされたその人の能力といいますか、労力っていいましょうか。労力が要するに、このリンゴ1個の価値だっていう言い方で、つまり、価値っていう概念を説明しているわけです。
 あるいは、のちのちが、労働価値論と言われたように、それは労働して、リンゴ1個もいできたときの、リンゴの価値っていうのは、それまで歩いて行って、木をもいで、また元のところへ戻ってきた。それまでの労力が要するに、リンゴ1個の価値だっていうふうに、そういうふうに説明してます。
 この説明は、さてみなさんは、どういうふうに聞かれるかわかりません。専門家の方は、専門家の方なりに、お考えになるかもしれないし、そんな、やさしいことは問題にならない、とおっしゃるかもしれないし、専門家でない方がおられたら、これはみごとな説明のしかただって考えるんじゃないかな、っていうふうに、僕は思います。
 僕は、そういうふうに「すごいことを言う人だな」っていうふうに思いました。それは、なぜすごいかっていうと、つまり同時に、その考え方は、あらゆる人間が費やす精神的、あるいは肉体的な労力っていうものが、どういうふうにして価値、あるいは、価値を含めた意味に還元できるか、あるいは、意味に対応できるかっていうことをみごとに、それだけの簡単な例えでもって言っているからだと、僕は、そう理解しました。
 だから、これはやっぱり、ニュートンがリンゴが落ちてくるのを見て、はっ、と気がついて、重力の問題なんだな、これは、っていうのを自分が、かねてから考えていた、科学的に考えていたことに、そのリンゴが落ちてくること自体を結びつけること自体がニュートンはできたわけですけど、それと同じように、スミスのそういう言い方はよくよく考えますと、やはり、同じような意味を持っていて、これだけ、やさしく、専門家にも通用するでしょうし、また、全然そんな経済学がどうだとか、そういうことに関心のなかった人が聞いても、それは納得ができる説明のしかただと思います。
 その上で、もうひとつだけ、スミスは例を引き伸ばしています。それは、もし、この1本のリンゴの木を、いま考えたけど、この1本のリンゴの木が、どこかの私有地の地面に
これが生えていたんだと考えたら、このリンゴ1個の価値がどういうふうに変化するのかどういうふうに変わるのか、ということも、そのあとで言っています。それのすぐ後で、そのことも言っています。そこでも、みごとなもんで、例えば、これは、僕は勝手にそういう説明を細かく、少し細かくしてるわけですが、もしこの1本のリンゴの木が植わってる、幹と根と葉っぱのその範囲が例えば、坪、5坪なら、5坪あったというふうに仮定したとします。そうすると、いま地代を考える場合でも、坪いくらとか、坪30万円とか、坪何万円とか、銀座の真ん中だったら坪百何十万円だとか、っていうふうに坪で言いますから、それと同じように言いますと、リンゴ1本の木が5坪の範囲で収まってたとすれば、この地面の地代、1坪いくらっていうの5倍すれば、5倍しただけの地代を加えれば、リンゴのリンゴ1個の値段がどこかの土地に植わってた場合の、価値になるわけです。そうすると、野っぱらにただ所有者のわからない野っぱらに1個あったっていうのとちがって、どこかの土地、誰かの所有地の5坪の範囲にあったとすれば、その所有地の坪いくらっていう地代を5倍して、それで、その中で例えば、リンゴが、この木全体で50個実ってたとすればそれを50分の1すると、リンゴ1個がどのかの土地に生えてたっていう、植えられていたっていう場合のリンゴ1個の価値の増加の具合がわかるし
また、正確にそれを数字化することはできると。これは、やさしい算術計算でそれができる、ということがわかります。で、これこそが、要するに、なんと言いますか、スミスが考えた労働価値説の非常に根本的で、やさしい説明なわけで、これは、もちろんはじめて、経済学なるものは、僕と同じように、経済学なんていうのははじめて世界を把握する方法として使えるっていうふうに考えた素人の人でも、あるいは専門家の人でもやはり、「ふぅーん」と驚かなきゃ嘘だと思いますけど、つまり、これだけやさしくて、これだけ、いろんなことを考えさせられる考え方なんですけど、これだけ、やさしい言葉で、これだけうまい説明のしかたをする、できるっていうことは、この人は、そうとう経済学者として、そうとう優れた人だっていうことはだいたい専門家の人は、そういうふうに考えられると思います。つまり、それだけみごとな考え方を、まずスミスはやったわけです。
 僕は、つまり世界を把握するために、とかいう名目で、素人のくせにスミスから、リカード、マルサスってきてマルクスの資本論まできて、それにまつわる経済的諸人間の経済的専門家のいろんな学説とか論争とかいうのも、ついでに、それにまとめて読んで「だいたいわかったぞ」「世界を把握するということの方法がわかったぞ」というのが、僕の古典経済学を参考として得た認識なんです。
 そうすると僕は、何を考えたかというと、もともと文学青年だったですから、自分が持っている文学的素養っていうのと、もし、この世界を把握するっていう経済学を主とする、それの周辺の学とか認識というものと、もし直結、あるいは連結することができれば、「おれは生きていられるな、生きていけるな」っていうふうに考えたわけです。それだけのことを考えないと、やっぱり生きていけるっていう気が敗戦のときに、僕には思い浮かびませんでした。夢中になって戦争に、自分なりに協力し、貢献し、主体的に戦争というものを考えて、っていうふうにやってきましたから、急に、僕が「戦争をやめろ」って言ったわけでもないし、「戦争をおれはやめたから、もう戦争やめようじゃないか」って人に言ったわけでもない。それなのに、戦争がやまっちゃうっていう。やまって、なんて言いますか、もろに現実自体の、人々の言葉も考え方もひっくり返ってしまうっていう、そういう自体に対して、僕は、なんらかの世界を把握する方法を自分が持てなかったらもう生きていく甲斐がないよ、っていうところが本音のところで、それができるようになるまで、たしか5、6年かかったと思います。
 5、6年の間、必死になって、これでなけりゃ生きていけないぞっていうつもりで、一所懸命、人のうちではじめて、この怠け者が一所懸命、勉強したり考えたりしたと思います。だいたい5、6年ぐらいになりますと、そういうのが把握できて、それで、自分が何をすればいいんだって、まぁ、さしあたり、いろんなことしないといけないでしょうけど、まず、この、なんて言いますか世界を把握する方法と、自分がつかんだ方法と、それから、自分がもともと戦争中から持っていた文学的素養っていうのを、くっつけるって言いますか、連結するっていうことをまず仕事として、やることとして、やろうと。それができないならば「おれは生きてる甲斐もないよ」と。そういう考え方だったから、そういうふうに考えてきました。
 それが、つまり今日お話しする、僕の言葉で言えば芸術言語論っていうの、僕の考え方ですけど、芸術言語学と言いたいところなんですけど、学問、「学」ほど、別によく探究してそれを一生つぶすだけ考えたわけでもないし、また、僕の重点を置きたいところは、いま申しました通り、「世界をどう把握するか」って、「どう把握できるのか」「どういう方法が把握するにはあるか」っていうことを知ることがいちばんの重大事でしたから、僕は、さしあたってこの2つを連結することで、芸術言語論というのを自分でつくろうじゃないか、っていうふうに考えて、そういうふうに、そういう考えをやるために芸術言語論というものを自分で考え、つくり出してやってきたっていうのは、自分の本音です。
 それを今日お話、概略重要なところは落とさないように概略をお話できれば、僕は、それでいいわけで、そのことは、またもしかすると、そういうことに別に関心を持たないという人にも、文学だけしか関心がないよと言う人にも、あるいは、自分は経済学の専門でおまえの話なんか聞いてもしょうがねぇって人にとっても、何らかの意味で僕の考えたところの要点を残らずお話できれば、それは何らかの意味で、いつかどこかで、お役に立てるかもしれないというのが僕の、心細いけど、まぁ、芸術文学っていうのは、そういうもんですから、どうせ心細いもんですから、そういうふうに考えてやってきたわけです。

5 言語と沈黙

それで、さて、僕は、芸術言語論ということで、第一に考えたことは、一般に考えられて、一般に社会的に考えられている国家的に考えられているように、言語、つまり、言葉ですね、言語っていうのは、要するに、なんていいますか、
他人と、あるいは、他の人間と、あるいは社会的に他人とコミュニケーションをかわすために言語っていうのはあるもんであるという考え方を第一に僕はしてきました。で、言語の本当に幹と根になるものは、要するに、これは、沈黙なんだと、僕は、そういうふうに考えたわけです。
 沈黙なんだ。
 コミュニケーションとしての言語、あるいは、コミュニケーションに役立つとか有効性があるとかいう、そういう言語っていうのは、仮に、これを植物にたとえますと、樹木の枝のところに花が咲いたり、実をつけたり、そうじゃなければ、葉っぱをつけたりして、それは季節ごとに変わったり、落っこちてしまったり、あるいは、実りの秋というように、秋に実りがきて、春には枝の先の方にある葉っぱが緑色に芽を吹き出し、大きく育ってそれは、秋から冬にかけて、風にちょっと吹かれると落ちてしまうもんだっていうように、つまり、枝葉から出てくるものが、コミュニケーション言語であって、決して言語の幹ではない。
 幹とは根ではない。
つまり、言語のほんとに重要なところではないっていうのが
僕の芸術言語論の大きな特徴と言いましょうか、大きな主張であるわけです。で、もうひとつ主張があります。
それは、何かっていうと、それならば、言語の幹と、幹に近いところに、幹とすれすれのところに、幹に近いところから発せられる言語ともうひとつ、枝の先のほうまで含める、いわゆるコミュニケーション言語っていうものと、言語っていうのは、その2つに分けられるべきであり、分けて考えれば考えやすいっていう、そして、言語自体でできあがった、例えば着物でもなんでも、洋服でもいいんですけど、そういうものは要するに、その幹に近いところからの、どう言ったらいいんでしょう、あんまり、つまり沈黙に近い言語、つまり、もっと言えば、自分の内緒の言葉とか、自分が自分の対して問いかけたり、発したりすることコミュニケーションに使わないっていう、そういう言葉と、もうひとつ、コミュニケーション専用の他人との交通、会話、それから、社会的な有効な労力に使われる言葉っていうものと、そのふたつに分けて考えるのが、非常に考えやすいんじゃないかというふうに考えて、僕の芸術言語論では、その幹に近いところで、ほんとは内緒話でもいいし、人にコミュニケーションできなくても自分で自分にコミュニケーションできれば、いろんな形でできれば、それが幹に近いところにある言語で、これを、僕のそういう勝手に作った言葉で言えば「自己表出」っていうふうに言っております。
 それから、もうひとつ、コミュニケーション用に、もっぱら花を咲かせ、それから、葉っぱを風に吹かせ、
それから、秋になれば実らせるとか、花は、春から夏にかけて、花の季節がくるっていうそういう部分を2つに分けた言語のうちで、「指示表出」って、表に出るということで、表現と同じことです。そういうふうに名づけました。
 そして、普通言う、言語っていう、コミュニケーション用にも使える、それから、芸術、つまり、例えば文学なら文学、音楽なら音楽、それに使える部分を「指示表出」っていう名前で分離しました。
 そうすると、言語っていうのは、要するに、言ってみれば
沈黙の幹と、それから沈黙の根と、それを、本当にいちばん重要な根底と言いましょうか、重要なものとして、コミュニケーションは枝葉の問題として出てくる、その2つの僕の言葉で言えば、「自己表出」とそれから「指示表出」とを縦糸と横糸みたいに、織り合わせてできたものがいわゆる普通言われている、言語は、全部、その2つからできているっていうふうに言えばいいので、コミュニケーション用の部分が多いところとそれから、全然そうじゃない、独り言に近い方が多い部分と、その2つに分けることができますよ、っていう
そういうふうに考えた方が、考えやすいですよ、というのが、第一に僕なんかが、なんと言いますか、芸術言語論としての特色として、ひとつ「註」をして、協調しておきたいところなんです。
 それから、もうひとつ協調しておきたいことがあるんですけど、それは、表出、自己表出とか、表現っていうことに帰着するわけです。表出とか表現つまり、口で表さなかったり、表したり、表さなかったり、それは、どうでもいいんですけど、コミュニケーションの問題があるなしの問題に過ぎないんですけど、つまり、表出するっていうことはどういうことなのかっていうことは、とても重要なことなので、やっぱりちょっと、これは、注意していただきたいことのひとつなんです。
 何かと言いますと、いま、なんでもいいです、テレビでもよろしいですし、あるいは、会話でもよろしいですし、あるいは書くことでもよろしいですけど、そこで、それは全部、表現行為のうちに全部入るわけです。もっと、その範囲を広げますと、例えば肉体といいますか身体ですね。身体を主として動かす労働を会社でやって、それで給料を会社でやった分、会社がくれる分に該当するだけ給料をもらってそれを生活の糧にしてる、そういう人を例にすれば、いちばん簡単に、わかることなんですけど、そういう人も、それから事務をやって、机の上で一日座っていて、何かを計算したり、記録したりしてる、そういうふうなことをして、自分の生活費を会社で得ているっていう人も、どういう人もそうなんです。それから、そうじゃない学者さんみたいに、自分の得意とする分野を深く追及していって、それでも足りなければ、コミュニケーションに役立つ装置というのが、非常に発達していますから、それを使って他の場所、あるいは他の人間とコミュニケーションを交わす、あるいは、もっと言えば、精神的、あるいは肉体的な交通を取るっていう、現在で言えば、もっと発達していって遠隔にいる人で、全然見たことのない人とコミュニケーションをすることもできると。そういうふうなことまで含めて、そういう役割っていうのを考えると、これが言語の、つまり、沈黙を本質とする言語の枝葉の問題としてそういうことがいくらでも、考えられるわけです。
 だけど、これは、枝葉であることには変わりないっていうことは、僕なんかが非常に協調したいところですし、それは、僕らは、つまり、太平洋戦争というか、日米戦争というか、それの敗北者であるっていうことの遠慮と、その裏にある敗者の誇りといいますか、負けた者の誇りっていうのを失いたくないっていう気持ちも含めて、その両方を含む問題として、僕らは言語のコミュニケーション部分よりも、そうじゃない、幹とか、根とか、つまり、これなくしては、言語もなにも成り立たないという、その根本的な言語の幹になるもの、コミュニケーションになるかどうかではなくて、本当の言語の幹になるもの、沈黙の樹木っていう、つまり、木なら木を想定すれば、そういうふうに考えて比喩的に使うことができるっていうふうに、僕なんかは、そういうふうに、そういう考えを根底にしてきました。

6 表現とは何か

 それと、もうひとつは、いま言いましたように表現ということ。つまり、表現って何かというと、これは言ってみれば自然と自分との、あるいは、自然と人間との広く言えば、自然と人間との、なんと言いますか、どうしてもそれなしには成り立たない、つまり、なんと言いますか、交通路っていいましょうか、交通路っていうのが表現なんだって。表現というのは、自分がただある言葉を発するとか、ある言葉を書くとか、っていうことにとどまらないで、手足を動かして働いて生活費をもらうっていう、そういう動き方もそうだし、精神的な労力をたくさん使って、ひとつの学説を組み立てて、それを自分の仕事として、一生を費やすという学者さんの生き方っていうのも含めまして、全部、表現行為っていうふうに名づけますと、あるいは表出行為っていうふうに名づけますと、この表現行為っていうのには、拡大すればすべての問題が全部含まれてしまいますし、また、縮小しますと、重要な限定をすれば、人間の精神というものと、それから、言葉というものと、それから、言葉の結果と言いますか、枝葉であるコミュニケーションというものと、その3つを、いわば直結する問題を考えなきゃいけないという問題が次に出てきます。
 なぜかと言いますと、みなさんが、よく現在でもテレビや、僕もいまそうしてるわけですけど、
おしゃべりしてるそういう人間のありさまを見てればすぐわかるように勝手に自分の考え方を述べているわけで、これは、なんて言いますか、述べて、相手にそれがコミュニケーションの部分で相手に通ずればいいっていう、それで済むように考えがちですけど、そうじゃなくて、自分が表現しますと、どんな表現でもそうですけど、肉体的な表現であろうと、精神的な表現であろうと、あるいは学問的な表現のように、ある特定のテーマを粘り強く長期に渡って考え抜いて、いろんなことを発見したりしていくっていう、そういう学者さんの仕事であろうと、あるいは音楽家のように音でもって演奏する人、それから音を作る人、いろいろありますけど、これにもみんな共通して、これは表現であって、表現する人と、大きく言えば表現する人と自然との関係、あるいは人間と自然との関係というものが表現行為なんです。
 そうすると、必ず人間がある表現をすると、必ず自然は表現しただけ変化します。
 これは、誰でも同じですし、精神的な労働であろうと、肉体的な労働であろうと、あるいは学者さんのようにもっぱら考えること、あるいは述べることを専一にやるっていうそういう仕事であろうと、そういうふうに自分が何かを表現すると必ず表現した自分も同時に自然の方から逆に表現されてしまいます。
 つまり、必ず人間があることをすると、あることを特徴とする人間に変化します。これは実感を交えてお考えになればすぐにわかるはずです。つまり、自分はいつの間にか、例えば肉体的な労働をしてて自分の仕事として何十年やったという人を考えればすぐにわかりやすいように、その人は、たぶんすぐに変化しやすいところで見れば、だいたい腕が太くなったり、それから体力がついたり、肩幅が広くなったりっていう、必ず自然から逆に変化を受けます。
 これは、この変化は要するに何かと言いますと、自然との相互作用なわけなんですよ。つまり、自然に人間が何かを加えようとすると、必ず加えようとしただけ加えようとした人間に人間の方も逆に変化させられるわけです。あるいは、変化するわけです。この相互作用なしには、いかなることもなしえないし、あるいは、この相互作用は、どんな学者さんの机に座ってものを考えてるだけだとか、実験をしてものを考えてるだけだっていう科学者の人とか、そういう人でも、やっぱり、それをやってると、自然に科学的に人間になったり、文化的人間になったりしてるわけです。
 それは、それぞれの人がご自分をかえりみれば、すぐにわかるわけです。例えば、テレビのアナウンサーとか、解説者とかをしてる人は、ひとりでにアナウンサー的人間、あるいは解説者的人間になってくるわけです。同時に人々にいろんな問題について自分の解説とか自分の工夫して考えたこととかを人に伝えられたり、人に教えられたりするわけです。つまり、それだけまた自然は変化するわけです。しゃべったら、しゃべったことの影響っていうのは、必ず自然に対して及ぼされているわけですし、逆に自分の方は、しゃべったことから逆に影響を受けてるわけです。
 そういう人間になることによって、そういう自然に対する
はたらきかけができるっていうのは、これは、どんな職業、分野のことにかかわらず、これが当然の問題なんで、この問題はとても大切な問題だから、特にそういうふうに、大切なんですよ、ということを言っておきたい気がいたします。
 別に教えるわけではありません。そうじゃないと思われても結構ですし、それは、まったく芸術言語論にとっては、まったく任意なことで、つまり、まったく自由なことで、はじめから芸術言語論というのは、自由と平等と、それから無価値、いわゆる世間的コミュニケーション的価値から言えば、無価値に近いことがたくさんある、たくさん持ってるって。でも、ほんとは無価値は無価値ではない。無価値の価値なんであって、無価値そのものではない何もないというわけではないということなんです。そういう自然との相互作用、自然と人間との相互作用のことを、ここで表現とか表出とかって言う言葉で僕は特に強調しておきたいところなんです。
 それは、あらゆることに全部あてはまります。おれのは、表現なんていうのは何もやってねぇとかっていうのは、だいたい、沈黙自体が何もやってないと思わない限りは、そんなものはないので、必ず何かをやってるわけです。沈黙でさえ、沈黙にいちばん近いところで発せられる言葉は自己表現として、自分が自分に問いかける言葉だっていうふうに
言うことができる、それは、ちゃんと入ってるっていうことは言うことができるくらいで、この表現ということ抜きにしてあらゆることは考えられないよって、人間のやる行為っていうのは、考えられないものだっていうそのことは、ちょっと念頭に置いとかないと、まったく見当外すことっていうのは、いちばんありうることのように思います。
 これは、例えば、みなさん、現在テレビなんか見てると、大抵、自分はこれこれやった、これこれこうじゃなければいけないと自分は考えてるみたいなことを、人に教えてる識者の人が教えたりするのは、テレビなんかで映像と一緒に受け取るわけですけど、そのとき、自分も変化してるんだよ、少なくともいちばん少なく見積もってもその瞬間だけは、自分も変化して、自分じゃなくなってるんだよ、それ的人間にちゃんとなってるんだよ、ということも一緒に言えばいいんですけど、それは言わないで、もっぱら自分がこうしたら、こういうふうなことが流行ってきたとか、人に伝わるとか、そういうことばっかり言ってるんだけど、それは片手落ちというもんであって、その片手落ちをやめないと、あるいは片手落ちについて気づかないと、とんでもない見当外れを誰でもやりやすいということがあります。
 だから、そこのところは、とても重要なもんですから、
人間と自然との関係の間では、要するに、あらゆる自分のやったこと、言ったこと、それから考えたことそれらはみんな人に伝わってないように見えて、勝手な片言を言ってるように見えたり、独り言を言ってるように見えても、それは、自分も同時に変化し、そして同時にまた、自然をも変化させてるんだよっていう、そういう相互関係は必ずつきまとうわけです。
 このつきまとう相互関係っていうのを除いて、物事を、どんなことでも同じですけど、それを除いて考えて、自分もやったことと、それが受け取った報酬というか、受け取ったもんと、それだけを、その相互作用を考えない考え方っていうのは、たぶん、そうとう、なんと言いますか、狂いを生じるだろうっていうことを僕は考えますから、それを特に強調しておきたいように思います。

7 精神と表現の型

さて、そこから、僕の芸術言語論というものの中に入っていくわけです。第一に僕が考えたことは、なんと言いますか、いけねぇ……もう30分経っちゃってる。考えたいことは、要するに、人間の精神活動と、それから言語と、それから言語の極限と言いますか、言語の極限っていう、その3つを、ひとつなぎとして考えたいってことがあるわけです。
 そのために、僕が考えたことは、ひとつは、要するに、ある例えば、表現者を簡単な、僕には手慣れた分野ですから、まぁ、文学者なら文学者という、特に文学者のうちで自分が
この人は偉い人だなっていう人とか、この人はおれが好きでしょうがないんだという人とかを例に取ればいちばんわかりやすいから、例に取って、精神活動っていう面と、言語っていう面と、精神構造っていう面と、その3つをいわば太い線でつないでみたいって思う。
 その場合に、いま申しました通り、表現行為っていうので、極限まで拡たいしたり、極限まで縮小したりすることができるわけです。いま、極限まで縮小するとすれば、どういうことになるかと言うと、人間の精神構造と、言語と、それから精神の枠を外すっていうことって言いましょうか、精神の枠を外すっていうのは、つまり、専門のお医者さんだったらば、行動とか言動とかで、ここから、外れたらこの人は精神異常だよっていうふうに、精神科のお医者さんは、そういう決め方をいたします。しかし、もし、精神に異常とか正常とかの境界を設けないで、精神活動、あるいは精神構造というものを考えるとすれば、そこのところは、別に境界を持たないと境界を持たないように考えることができるわけです。
 このことは、少なくとも表現的な芸術言語にとっては
非常に重要なことのように思います。それを抽象的にお話してもいいんですけど、そうじゃなくて、やっぱり具体的例をとってお話しましょう。
 例えば、僕が、この人は偉い文学者、日本の近代文学っていうのを、日本語の文学として考えて、この文学者として、この人は偉い人だっていうふうに、僕も考えてるし、たぶん、わりあい多くの人がそう考えていると思える人を例にとればいいわけで、例えば、森鷗外という人がおります。夏目漱石という人がおります。このふたりは、たぶん、みなさんのうちの多くの人が読んでおられるでしょうし、日本の近代文学を考えるときに、代表的な人だろうというふうに思いであると思います。
 もうひとつ、僕は、みなさんは、異論がたくさんあるかもしれないから、でも、僕は好きなんだよ、好きなものはしょうがないでしょうっていう、意味合いで言いますと、僕は太宰治という人をあげると思います。
 この3人を例にしますと、だいたい、精神構造と、それから表現と、それから表現された現物と言いますか、その作品と、その3つを極めて太い直線でつなげることができると思います。ここから、ひとつ外すと、つまり例えば、その人の作品をあげないで、ただ、あの人は優れた文学者だって言ってる分では、あんまりその問題は表れてこないんですけど、その人、文学者の精神構造と、表れた作品と、その3つを直線でつなげてということは、正常も異常も考えないで、それを縮小して、あるいは凝縮して見るということをやってみれば、だいたい、その3者の精神構造と人間の精神構造と、その表現したものと、それから表れた作品のどういうところに
特徴が出てきたかということが言えると思います。
 これは精神学者がおおざっぱに、例えば、躁鬱病とかてんかん症とか、あるいは分裂病、いまでは分裂病という言葉は使わないように決められておりますけど、その3つに分けるのと同じように、僕は、その3人に、作者と精神構造と、それから、その表れた結果も含めて、それを太い線でつなげて、できるだけ凝縮した形を取って考えてもらうとすぐわかると思いますから、それを申し上げてみたいと思います。それは、僕は、とても考えさせられた問題です。

8 森鷗外と「半日」

例えば、森鷗外という人は、ご承知のように軍人であり、それから、お医者であり、つまり、むずかしいことばっかり、いつも、むずかしい社会ばっかり総合するようなそういうことを、自分の職業及び専門として過ごした人です。この人の作品として、例えば『半日』という小説作品があります。
 この作品では、鷗外が自分のある日の半日のことを自分の小説作品として書いたものです。主人公は、たぶん、小説の主人公は自分に似せてた、ほとんど自分と同じ人間として考えて書かれたものです。それで、奥方がいて、奥方は立派なところの立派な娘さんで、かつ伝説によれば美人であったと言われております。
 それから、もうひとり母親がおります。母親もう子どもかわいいいっぽうで、幼児から鷗外を育ててきたそういう母親で、その癖といいますか、成り行きが止まらないで、鷗外は優れた軍医さんであり、同時に優れた文学者であるっていうふうに、世間から、あまねく知れ渡ってからも同じように、子どものときと同じように鷗外の身辺の世話から何からよくやってくれるそういう親であったわけです。
 ところで、奥さんの方は立派な家の立派なところの娘さんなんですけど、自分が夫婦としてやるべき役割っていうのまでも侵入して母親が侵入して世話をやいちゃって、自分のやる場所はどこにもないということが不平で、両者の間に、なんと言いますか、のっぴきならないと言いましょうか、あのお母さんとは、顔を見るのもいやだし食事をするのも一緒にするのはいやだっていうふうに夫人の方は、そういうふうに言いだしますし、母親の方は、それほど、そういうことに敏感でなくて、やはり依然として奥さんのやるべき領域まで、自分が子どもである鷗外の息子である鷗外の世話をやくというようなことをやってもうお互いに口をきくのも、顔を見るのもいやだっていうふうになって、そのときに、鷗外はどういうふうに考えたかっていうところは、興味深いんですけど、鷗外の書いた作品、これは、僕の言葉じゃなくて、鷗外の書いた作品そのものの言葉ですから、それは自分でちゃんと自覚の上で書いてるわけです。それによれば、中間に立って和解をさせようとして中間に立った鷗外はどういう言い方をしたかっていうと、奥方に対しては、おまえとのかかわりは数年間の間のかかわりにしかすぎないと、しかし、自分と母親とのかかわりは赤ん坊のときからのかかわりだと、だから、その延長線で、だからいまになっても、まだ自分の世話をやきたがって、奥さんの領域まで、時として、無視するような、そういうようになっちゃうというのはしかたがないじゃないか。で、奥さんの方は、それに対して、もう顔を見るのもいやだし、もう一緒に食事をするのもいやだっていうような問題になってくるわけです。
 その中間に立った鷗外は、要するにどういうことに還元(?)したかっていうと、結局子どものときから世話をやいてるから、いまでもやくというのは、ある意味当然じゃないかって。おまえは、よそで育って、???自分と結婚して
一緒に生活するようになった、そういう意味で言えば、おまえは4、5年の年数しか経ってない。母親がえてして、おまえの領域を侵犯するように見えるのはしかたないじゃないか。こういうふうな、仲裁のしかたをするわけです。
 もちろんそれで和解ができるはずがないので、鷗外は中間に立って、その日は、どうしようもなくなって、その日は、鷗外は何かっていうと、孝明天皇祭って言いまして、明治天皇の前の天皇なんですけど、その忌日っていいますか、その日で、宮中へ参列しなきゃいけないっていうときだったので、中尉の医師である鷗外にとっては、たいへんつらい日だったと思いますけど、その半日、仲裁役で、両者の仲裁役で費やしてしまってそれで、宮中参内っていうその日の役目を鷗外は果たさないで終わっちゃうっていう、そういう作品です。
 何がここで問題になりうるのかっていうと、作品まで含めて直線的に、作者である鷗外と、それから母親と、それから夫人と、3人の健全な人たちの関係が、ある瞬間にはもはや和解もきかないし、そのために鷗外は重要だと思ってる宮中参内も止めにしてしまうっていう、そういう事態がありうるっていうことで、これは言ってみれば正常な人が正常な鷗外のような調和のとれた人なんですけど、時と場合によって人の関係、人間関係の間では進退窮まってしまう、と。そして、そのときに、鷗外が使う論理っていうのは非常に頭のいい、高級な人、知識人なのにもかかわらず、母親とおまえとは、つき合ってる日にちがまるで違うじゃないか、とかっていう理屈にもならない理屈っていうか、簡単な理屈に還元しちゃうっていう、そういう事態っていうのは、鷗外ほどの調和のとれた人でも、時と場合によってはありうるっていう、そういういい例だと、時と場合ということは、いかようにも拡大できるし、いかようにも縮小できるんですけど、この場合には、要するに縮小の場合です。
 縮小の場合に、精神構造と、その表現と、その表現の結果と、その3者を直線的につながるくらいに太い線でつながるぐらいに縮小して、凝縮してしまうと、こういうことっていうのは、起こりうるんだって、調和のとれた人でも起こりうるんだっていう、ひとつの例だと思います。

9 夏目漱石と『三四郎』

それから、漱石の場合には、僕が考えに入れたのは、要するに漱石の場合には『三四郎』っていう青春小説のことなんです。
 三四郎っていう青年学生たちの中心になるような、モデルになる人がいたって言われてますけど、そういう大学か大学予備校か、そういう先生がいるわけです。その先生を慕ってる学生さんが、その周りに集まって、ひとつの集まりを形成してるわけですけど、あるとき、三四郎が先生のところに訪ねて行くと、いつもの常連である、その生徒さんが来てないんです。たまたまひとりだけになって、先生とふたりになるわけですけど、そのときに、三四郎は、先生に「先生はどうして独身なんですか」っていうふうに「だれか好きな人はおらないのですが」っていうふうに質問するわけです。普段なら言えないような失敬な質問なんだけど、ひとりだったからそういうふうに言うわけです。
 その主人公の先生は、「いや、好きな人はいたんだ」「だけど、いつの頃からか、ひとりでに会うことも間遠になってきていつの間にかそれが消滅したようになってしまった」それで、だから、機会を失してしまったんだ、と、結婚する機会も失してしまったんだ、と説明するわけです。
 三四郎は、まだ追及して、「それならば、その人は、いまも生きてたら結婚する、その人がいまも生きてたら、消息がわかったら、結婚するか」っていうふうに、三四郎はなおも追及するわけです。先生は「そうすると思う」と。「別に嫌いになって、そして別れたというわけでもないから、そうすると思う」と言うわけで、
「それじゃあ、どうしてその人の消息を探さないんですか」なおも追及するわけです。そうすると、先生は、「いや、探さないというわけじゃないんだ」と。自分はあるとき、当時の文部大臣でモダンな文部大臣で、森有礼っていう人がいたわけですけど、「森有礼っていう人の葬式の列の中に、その女の人がいたんだ」って説明するわけです。
 葬列の中だから、あっと思う間もなく自分の前を通り過ぎて行ってしまうしそこで、自分がのこのこ葬列のそばまで行って、その女の人に挨拶したり、いまどこにいるんだって尋ねたりすることも、できないうちにその葬列が立ち去ってしまう。それで、自分もどうすることもできないで、そのあと会う機会もなくなって探しても容易にわからないで、ということで、自分はその人と一緒になる、結婚するという機会を失してしまって、現在に至ってるわけだ、っていうふうに、三四郎に説明するわけです。
 そのときに、僕の説明ではダメですけど、漱石の文体を見れば、とてもよくわかる。三四郎という、漱石の中でいちばん楽しい青春小説なんですけど、その中で、その箇所だけは、漱石の思い込みとか、関係妄想とか、いうものが、とてもよく出てる箇所なわけです。そこが、やっぱり、つまり、三四郎という小説のどこで縮小するかっていうとそこで縮小しますと、漱石の文学作品の本質っていうものが非常によく見えてくるっていうことに、相等します。
 つまり、何かって言いますと、漱石には留学時代の仲間からも、要するに、漱石はちょっと鬱状態で、ちょっとおかしいと言われてるとき、下宿してるところのおばさんからもそう言われてるというふうに、評判になるわけで、奥さんからもそういうふうに思われているっていうことで、そういうような評判になってるわけで、そういう実感といいますか、経験が漱石自体にあって、漱石はその経験を森有礼の葬列っていう中で、葬列を中で見てるっていうか、見送っているっていうか、見学してるっていうか、そういう場所に自分はいて、その葬列の中に自分の好きだと思ってた人が、偶然にもその葬列の中のひとりとして、その中にいたっていうそういう考え、そういうふうに思ったっていう、その思い方を漱石の文体でお読みになると、なんと言いますか、漱石が家族からとか、留学中の下宿先のおばさんからとか、あるいは留学仲間から、漱石は少し鬱状態でおかしくなってるっていう、漱石のどう言ったらいいんでしょう、ちょっと宿命的なと言っていいような、思いこみ、あるいは妄想、関係妄想って言いますか、なんですけど、非常によく出てきて、そこの関係妄想の場面にくると、漱石は、はっきりした印象で、はっきりしたことを語らずに、そこのところは朦朧とした表現になって描かれるという形にどうしてもなっていくわけです。
 これは漱石も、他の小説でも、例えば『彼岸過迄』(ひがんすぎまで)っていう小説を読んでも、同じ場面がありますし、現実的にも、お茶の水の井上眼科っていう眼医者さんの、いまもありますけど、そこで眼の治療をしていたときに、そこでいつでも一緒にいる、ときどき目につく女の人がいるわけですけど、漱石はその人が家へ帰って、こういう女の人が訪ねてこなかったかって兄貴に訪ねるわけです。
 この人は、どう言ってきたかっていうと、漱石と結婚したいっていうふうに言ってこの人が訪ねてこなかったかって、いうふうにあにさんに聞くわけです。だけど、あにさんは、そんなバカな、そんなことは全然なかったというふうに言って、そのまんまになっちゃうわけです。
 そのときの漱石の思い込みのしかたっていうのが、やっぱり病的なところに展開していくっていう、そういうことっていうのは、ありまして、現実的にもありますし、また小説の中でも、そういう形で、飄々としてわかり難い、判断し難い
っていう形で、そういうことが描かれて、自分をモデルにしたわけじゃないんですけど、モデルの先生が、森有礼の葬列の中にその人がいたっていうふうに言うことになる、フィクション、つまり小説を書いてるから、ここまで、もってきて、漱石っていう人の宿命的な資質って言いますか、生来の育ちって言いますか、そういうのと、ひき比べていきますと、そうすると、やっぱり、漱石のどうしても、本質的なものの縮図っていいますか、それは、その中に表れていくっていうことが、とてもよくわかります。
 これは、漱石にとって、漱石という文学者をとてもよく理解する上で、大切な重要なことなので、この問題はやっぱり、なんて言いますか、つまり精神構造、ある人間の精神構造と、その人の表現と、それから、表現の結果がどういうふうに表れてるかっていうこととの関係を、非常に直線的につなげて問題を収縮して考えると、そうすると、そういう一種のその人にとっては宿命的とも言える、なんか、生来のっていいますか、人間として生まれて以降の生来の存在のしかた
っていうのは、よく表れてくることがありうると、つまり、言葉、言語というものは、そのように、つまりコミュニケーションじゃない部分と、コミュニケーションの部分も含めた結果と、その人の精神構造と、それを全部直線的に、大きな線でもってつなげて、自体の本質、漱石という作家自体、あるいは鷗外という作家自体の本質とつなげると、そういう問題が非常に明瞭に出てくるということがありますよっていうことです。

10 開かれた普遍性へ

 もし、言語、つまり人間の言葉っていうのコミュニケーションの部分だって考えたり、それに装置を加えた部分だっていうふうに考えたりした場合には、こういう考えは出てこない。
 つまり縮小もきかなければ、拡大もきかない、それから、言語と精神構造と、それから、その結果というものとの間の太い線につながった関係っていう、輪間関係(?)というものをはっきりしない、つまり、作家としての本質も、作品も、はっきりしないまんま、読みすごされてしまう。
 そうすると、文学というものは、なんと言いますか、偶然の機会に作者表現と、それからそのを読む人の関心とが、偶然一致しなければ、なんらの意味も呈さないし、何も意味のつけようがないという以外に言いようがない。
 つまり、文学っていうのは、そういう意味合いで言えば、無意味なもんなんだっていう。無意味なもんであり、無価値なものなんだっていう、結論に到達せざる得ないじゃないかということが言えると思います。
 でも、いまのように、作品と、それから、その人のもって生まれた生来の精神構造と、その人の言葉に表れた表現、つまり芸術言語っていうものとを直線でつなげるほど、収縮して、凝縮して考えると、なんか、その人の、作家なら作家、その人の芸術言語なら芸術言語っていうような極めて明瞭に宿命を指さすっていうことに、なっていく。またそれを見つけ出して、あらわにすることは不可能でない。
 もし、文学に文芸批評という領域が創作の他にありうるとすれば、その文芸批評というのは、そこのところまで、作品と作家の関係、それから言語と作者の精神関係、それが強い糸で結ばれてるっていう、そこまで明瞭にできれば、文芸批評としての本来的役割っていうのは、そこまでいくんだっていうことになります。
 これは、音楽で言えば、演奏家に該当します。演奏家っていうのは、例えば古典音楽の演奏家っていうようなよく、ショパンコンクールで、なんか賞をもらったとか、顕賞(?)の音楽会で、モーツァルト賞をもらったとか、っていう、そういう演奏家って、ピアノの演奏家とか、バイオリンの演奏家っていうのは、日本でもときどきあらわれ出るわけですけど、その人の役割は、ちょうど文学で言う、あるいは言葉の芸術で言う、文芸批評に該当するわけです。つまり、モーツァルトの作品をうまく巧みにモーツァルト沿って、モーツァルトの本当の意味合いにそって、解釈することができてて、それで演奏する人と、それから、ただモーツァルトの作曲した音符に沿って演奏する人とまるでちがいます。これは、僕らのような素人が聴いても、つまり音痴が聴いてもまるでちがいます。つまり、モーツァルトの本当のこの曲の本当の本質的に表現したかったことは、こういうことじゃないかって、知ってて演奏してる人の演奏は、ただ古典を繰り返して演奏してるとか、そういうことじゃなくて、その人の批評が同時に含まれていて、その人がどの程度、モーツァルトそのもの考え方っていうのを、どこまで曲について知っているか、解釈してるかっていう、その度合いも全部そこに直線的に出てくるっていうふうに、例えばモーツァルトでもショパンでもいいですけど、そのコンクールの優れた演奏家の演奏を聴くのと、まぁ、それの賞をもらったっていう程度の演奏で、ただそれをうまく弾いてるっていう、そういう人との演奏は、素人が聴いてもわかります。
 なぜわかるかっていうのは、文芸批評家の人と、普通の読者が余暇を見て、ある文学作品を読んでるっていう読み方とは、どこが違うかっていうことと、同じことになって、それは演奏家の場合も、声楽家の場合もそうですけど、要するに、その人の考えてる音楽という、音でも作者でもなんでもない、そういう根源的な根となり、幹となる、音楽の何かがあるわけで、その何かをよく心得ていて、そして、その作者がどれだけ、自分のあれを、音符に乗せることができてるかっていう、そういうことと、それから、それを演奏する人が、それだけ、それを、その両方を自分でもって解釈することができてるか、ということの違いになって表れてきます。
 この問題が、文学を鑑賞する場合の最後の最後の問題になって出てきます。そして、それは同時に、あらゆる表現行為につきまとう同一問題に還元することができます。
 縮小する場合にはそうですし、分野として拡張するときには、ピアノの演奏家であろうと、バイオリンの演奏家であろうと、文学の批評家であろうと、同じことになりますし、また、作者にしてみれば、モーツァルトであろうと、ショパンであろうと、誰でもいいです、日本の鷗外であろうと、漱石であろうと、そういう人たちが、何を作品として、表現したかったかあるいはしてるかということについて、やっぱり同じ見解に、どうしても到達するだろうということは、これは明らかに言えることだというふうに思います。そういう意味合いでは普遍的な意味合いを持つことになります。
 そこまでいけば、芸術言語と、僕なんかが芸術言語と言っているものは、ほんとは普遍的な芸術と言いますか、普遍的な芸術の言葉というふうに言い直してもいいことになると思います。
 邪魔っけって、むずかしいのは、面倒なのは、芸術という言葉であって、芸術言語という言葉であって、芸術言語って言う言葉は、必ずしも現実の何かの役に立つとか有効性があるとか、何かに利用できて、コミュニケーションに利用できるとか、そういうこととは関わりのないことです。関わりがないと言ったら語弊がありますけど、次元が違うというわけなんです。
 だから、そういうことじゃなくて、あらゆる芸術言語、あらゆる分野の芸術にまで拡大できる、いわゆる普遍芸術と言えるものまで、拡大できる。普遍芸術の中には、遺伝子考古学の問題も入ってくるし、また、さまざまな分野の違いっていうのも全部入ってくるし、場合によっては、政治とか社会の問題についての見解に対しても入ってくる。そういう意味合いも含めて普遍芸術っていうことに、芸術言語っていうのは、そういう拡張のしかたっていうのをできると思います。
 僕らが、何を自分たちの目標として考えてきたかっていうと、要するに普遍芸術なんです。つまり、民族学が言うこともあるし、それから遺伝子考古学が言うこともあるし、精神病理学が言うことも含めて、全部、全部がくくれるから、各分野の違いっていうもの、同一性っていうのも含めて、また縮小と拡大というのも含めて、ほとんど全部の問題に適応できる、ある開かれた普遍性っていうのが、もし可能だとすれば、ここのところに、ここのところの問題に、いちばん重要な点が凝縮されるっていうのが、僕のやってきたことのいちばん重要な問題になってます。

11 芸術の価値

 最後にちょっと、芸術の価値ということが問題になりますけど、
(糸井)
だいぶ、いま時間をお忘れになっていたので、ご家族から助言がありましたんで、聞きに来ました。大丈夫ですね。
(吉本)
大丈夫です。
(会場)
拍手
(吉本)
お母さんじゃないでしょう。
(糸井)
お母さんじゃなくて、お姉さんの方から、あの人がもう時間を忘れてるよって言われたんで、ちょっと言いに来ました。
(吉本)
はい、わかりました(笑)。
芸術の価値というので、もう終りにします。

 芸術の価値という概念があります。
 芸術の価値は何かと言ったら、僕の考え方では非常に明瞭なんで、それは要するに、先ほど言いました、沈黙にいちばん近いところから出てくる沈黙に近い、片言のような独りごとのようなあるいは、自分が自分にだけわかるように表現される、その自己表出の部分が芸術の価値の大部分を構成しています。全てを構成するって言ってもいいんですけど、そういうふうにあれすると、ほんとに言語っていうのはふたつに、指示表出と自己表出に分かれたということになりますから、分かれたというのは、ひとつのやり方として分かれさしてるわけで、ほんとはふたつが組み合されて、ひとつの織物なり、着物なりになったのが、芸術なら芸術の姿ですから、そのことは価値の問題として言うといちばんわかりやすいわけです。
 この価値の問題について、いちばんいい、抽象的じゃなくて、いちばんいい例で申し上げますと、戦後に京都大学の先生で桑原武夫(くわばらたけお)さんっていう仏文学者がおられて、その先生が第二芸術論っていう論理を提出しました。それはどういうことかっていうと、簡単なことなんです、簡単でむずかしいことって言えばいいわけです。
 簡単なことは何かって、どこが簡単かって言うと、要するに、例えば日本の芸術作品のうち、例えば、俳句なら俳句っていうこれは、徳川時代になる寸前に松尾芭蕉が考えた分野なんですけど、俳句を例にして、俳句から作者の名前をとって例えば、十篇なら十篇の俳句を並べて、その中に芭蕉の俳句もあれば、ごく一般的な現在の俳句作家の俳句も入ってるし、さまざまな俳句、徳川時代の作家の作品も入ってる。それを名前をとって、十なら十集めて、それを読者に見せて、
読む人に見せてみれば、すぐわかるように、これは芭蕉の作品で、これは、どこが普通の人の作品、どこが優れてていいのか、っていうことは、よくわかるかわからないかって言わせれば、たいていわからないと、どれが芭蕉の句で、どこがいいのかっていうのは、わかんないって。こうすると、作者の名前を取ってしまえば、わかんなくなっちゃう、誰が作ったかもわかんなくなっちゃうものは、要するに第二芸術だっていう論議です。
 そうすると、第一芸術っていうのは、何なのかっていうことは、ひとりでに含まれているわけですけど、例えば桑原さんは優れたフランス文学者ですから、フランス文学のある優れた作家なら作家の長編小説でもなんでもいいですけど、長編小説を元にして、引き順(?)して考えてるとかあるいは、ポール・ヴァレリーのような、現代にいちばん近い、近代の詩人の優れた作品でも、なんでもいいです。『海辺の墓地』でもなんでもいいですけど、そういう作品を頭に置いて、つまりそういうのを基準にしているから、日本の俳句が名前とっちゃうと、誰が書いてるのか、どこがいいのか、ちっとも区別がつかんじゃないかっていう論理が成り立つんだっていう理屈になります。
 これに対して、小林秀雄さんが第一に、そんなことを言うと、いかにも都合よくそんなことを言うけど、例えば芭蕉の俳句は、芭蕉の魂、俳句の魂って言いましょうか、芸術魂っていうのは、決して西洋の優れた作家と比べて、例えばポール・ヴァレリーの詩と比べて、あるいは、バルザックの長編小説「谷間のゆり」みたいな長編小説に比べたって、決して劣るもんじゃないんだっていう論議をそのときに、すぐに反発して、そういう論議を展開したことがあります。
 このことがいちばんよくわかりやすいことなんですけど、僕に芸術の価値というのを、仮に言えって言えば非常に明瞭に言うことができます。それが、いままでも申し上げてきたことから、明瞭に出てきますけど、この3つを、例えば桑原武夫の「俳句が作者の名前とっちゃえば、どれがいいか悪いかも、それほど区別ができないじゃないか」っていう論議は、少なくとも日本の芸術と、西洋の例えば長編の詩と比べた場合に、そういう論議は成り立たないとすぐわかることは、つまり、確かに、小林秀雄の言う通りで、作者の名前を出さなければ、みんな区別もつかんじゃないかっていう論議は日本の芸術っていうのが、つまりどう言ったらいいでしょう、僕の言葉でいえば、自己表出は、決して外国の、あるいはヨーロッパのどんな詩人、ないしは作家の作品の劣るもんでもない、ということは言えると。
 しかし、要するに日本の芸術っていうのは、いつでも、日本の芸術の特徴ですけど、縮小することによって、と言いましょうか、短くなることによって、芸術を蘇生、新たにさせるというそういう傾向性が、もともとあるわけです。これは日本の芸術のものすごく大きな特徴です。
 ですから、芭蕉の俳句みて、五七五で完成しちゃう芸術と、それから、例えば極端な例を取ったとすれば、バルザックの長編小説と比べて、おまえ、これと比べたら作者の区別さえできないじゃないか、っていう論議は、それ自体がおかしいんだって、西洋の方が、おかしいっていうことになります。
 僕らの見解から言えば、自己表出と言われるもの、つまり沈黙にいちばん近い、言語にならないところに、幹と根っこ、言語の本質であるところに近いところが表現された芸術の根幹をなすということは変わりないんで、つまり、魂をなすということは変わりない、小林秀雄の言うことに変わりないわけですけど、残念なことに、指示表出というふうに、コミュニケーションの代わりとする芸術っていうのは、芸術の役割っていうのは、芸術の価値に関係ないかっていうと、そうでない。副作用として、副次的には、関係があるわけです。
 つまり、長編小説のように、小説の物語のすじとして、つまり、僕の言葉で言えば、指示表出として、起伏がたくさんあって、興味深い箇所がたくさん起伏の中に含まれているっていう、それは副次的に言えば、自己表出、つまり芸術の価値に間接的に関わってきますから、その部分を考慮するか、しないかっていう考慮できるか、できないか、っていう問題を抜きにして、これを比べていいか悪いかって、こっちは
第二芸術で、こっちは第一芸術じゃないかっていうことは、意味がないし、そんな論議は成り立たないっていうのが、僕らが、いままで述べてきたような考え方を貫いていきますと、そういうことに帰着してしまいます。
 ですから、この論議自体は、無効であるということになります。そして、日本で、つまり、どうもそこの問題について
そこの問題を考えるまで到達した作家っていうのは、ただひとり、僕の知ってる限りでは、日本の近代小説の中で、ただひとり、横光利一(よこみつりいち)っていう、昭和の僕らより2世代くらい前の小説家ですけど、この人ぐらいなもので、いちばんそういうことに気がついて、それに近い小説を意識的に書けた人です。
 つまり、この人は、どういう、つまり、この人の言い方は、その当時の文学の世界の言い方で言えば、日本の文学は純文学というものと、大衆文学というものとに、いつでも分かれてしまう。だけど、ヨーロッパのいい長編文学というのは、いつでも純文学にして大衆文学っていう、そういう要素があると。なんとかして、ヨーロッパなみにしようと思うならば、純文学であって、それを少しも水準を低下させずに、なお物語の起伏みたいな、つまり指示表出ですけど、指示表出として起伏の多いそういう小説っていうのは、日本で書けないものだろうか、というものに、はじめて自分の自力で自分の実力として、当面した唯一の人です。
 この人は、その当時の言い方で言えば、純文学にして、通俗小説っていう言い方で、いまの言い方をすれば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、これ純文学で、非常に奥の深い小説だけど、同時に筋もおもしろいよ、っていう
すじも起伏があり、なかなかおもしろいよっていう、両方の要素を持っていて、それで最近たくさん読まれているそうです。
 それが、どこで読んでいるのかっていうのは、それぞれ、どちらでも読めるわけです。すじの見事さっていう、つまり指示表出のみごとさっていう場所でも読めます、読んでも優れた小説ですし、本当の芸術の本質はここだっていう、樹木で言えば、枝葉抜きにして幹にいちばん近いところで、幹とほとんど同じじゃないかっていう自己表出の面が、芸術の本質だとすれば、その芸術の本質としても、『カラマーゾフの兄弟』というのは読めると。おまえ、どこで読んでるんだっていうことを、まぁ、たずねてみれば一概にどうだってことは、一概に言うのは、おかしいんだよっていう、そういうことは、すぐにわかります。その論議自体は意味をなさない、本当は意味をなさないですよ、厳密に言えば、っていうことは、よくわかります。
 これは、『蟹工船』っていうのは、よく読まれてて、いま、あげてみると、これは何があれかと言えば、これは、物語起伏、指示表出と言いますか、その面が興味深い、身につまされるっていう面があるから、よく出るんだって、これは解釈しやすいことで、言えばそうなります。
 現在の言葉で言えば、どう言いましょう、ロックとか、なんだろう、つまり、要するに中間、アメリカの黒人社会と、アメリカのかつてヨーロッパからの移民と、そういう人たちの文化的混合から生まれ出した中間的な音楽芸術っていうのは、いま日本でも盛んですけど、アメリカでも盛んですけど、そういうものと、アメリカの純文学はおかしいですけど、僕らの少し一所懸命読んだあれで言えばヘンリー・ミラーみたいな、そういう作家の、要するに日本で言えば、かつて、1世代ないし2世代前の純文学ですよ。つまりどこでも通用する純文学ですけど、これに該当するものっていうのは、いま少し思潮(?)を変えております、例えば、少し、同時代、思潮(?)を変えた作家をあげてみれば、老人と子どもを書いた作家……ど忘れしました、誰か言ってくれるといいんだけど(笑)、作家で、この人の『老人と海』っていうのはいい小説ですけど、決して、はるかに大衆性に富んでいて、中間的な色彩というのを加味した、そういう小説で、われわれが望むように、望みとして感動した、アメリカの文学というヘンリー・ミラーみたいな人の文学とは、少しだけ質が違ってきます。
 たぶん、その質の違い方っていうのは、現在で言えば、アメリカの盛んな中間小説、中間音楽っていうものの優性さ、ヨーロッパといえども、それを無視した、ヨーロッパの先進国のいわば純文学的な、音楽といえども、これを無視することはいまはできないよという段階まで質を変えてきてると、
こういうことに、なってると思います。
 そういう質の変化のしかたっていうのを、俳句みたいな、場合には、あれすることはできないです。つまり、あまりに短い、五七五の間でしなければならないですから、はるかにむずかしいわけです。そのことは、俳句は形式を縮小すればするほど、新しい芸術になって、新しい文学になっていくっていう、新しい詩になっていくというそういう傾向。小説で言えば私小説ですけど、そういう傾向っていうのを解釈するにはとても無理である。
 これは日本の文学から、この特色を、あるいは文学、詩でもいいんですけどこの特色を抜かしたら、ちょっと、なにとも比較できないような特殊なあれになっちゃうと。しかし、少しも特殊なものではありませんよ、ということを言うためには、第二芸術論、第一芸術論っていう論議は、指示表出の表現の面を加味するだけ、芸術の価値をしては増大するっていう、そういうところを無視してるところから来てる論議であり、また、芸術の魂は決して負けてないんですよ、という言い方は、芸術の本質は、指示表出よりも、自己表出そのものの中に主なる問題があって、それで指示表出の面が、すじの起伏、物語のおもしろさっていうのは、起伏っていうのは、副次的な要素として加味するんだっていう、芸術の価値に加味するんだって、そういうふうに考えるほか比べようがないわけです。

12 太宰治と「善蔵を思ふ」

 そこのところが、重要な問題なものですから、もう少しつけ加えますと、価値、芸術に価値というのは、あるのか、ないのか、という論議も、日本語の文学あるいは、芸術言語の場合には、そういう論議も成り立つわけです。そういう論議をやったのは、太宰治です。
 これは、反語的な意味を含めて太宰治は「おれは芸術の価値なんて考えたことねぇ」っていうふうに言ったことがあります。それは、ごもっともということで、価値という概念はなかなか面倒、実際にあれするとね、面倒だからです。これは、この価値という概念はある意味ではヨーロッパにおける近代ヨーロッパ近代から現在に至るまで引きずっている僕なんかの言葉で言うと、ファンクショナリズムっていう、つまり機能主義ということになります。機能主義を引きずってるということで、科学的ではちっともないですよ、科学的ということとは違いますよって。
 科学的っていうのは、ここに人間という分節言語でもって
コミュニケーションもやるし、独り言もつくり出すし、書くこともつくり出すし、書くことも沈黙のうちにつくり出すし、しゃべることもつくり出す、こういう芸術っていうのは
完全に成り立ちうるんならば、それならば、ヨーロッパの芸術と日本の言語芸術っていうのは、ちょっと特殊なところっていうのを同等に考えればそれでいいじゃないかと言いたいところですけど、いつでも、そうはいかないところで、日本の芸術家は、そこのところで苦労しています。
 太宰治は、それでよく苦労してて、太宰治が、例えば、
太宰治自身の考え方をもう少し普遍しますと、つまり、太宰治の、例えば、みなさんは、もしかすると、『人間失格』とか、『ヴィヨンの妻』とか、あれでいうと、『駆込み訴へ』とか、そういう晩年の力作ですね、晩年の意識的な力作です、これを太宰治のもっとも完成した言語芸術というふうに考えられるかもしれないけど、そうではないと思います。
つまり、これは、すでに太宰治が自分がやってしまったことを、終わったことを、もう一度確認して意識的に書いてる、優れた、いい作品です。作品としては『ヴィヨンの妻』なんていうのは、ものすごくいい小説ですけど、完成された小説ですけど、これは意識的な作品です。『人間失格』っていうのも、無意識的に見えますけど、意識的な作品です。これは、改めて自分の完成された芸術を、言語芸術を最後に残したいっていうことかもしれませんし、やってみたいということかもしれません。そのために、書いた作品で完成度は高いですけど、ほんとを言うと、『人間失格』は、失格どころじゃなくて、太宰治は、正常な、と言いましょうか、あるいは健常な作家として、終始しております。
 つまり、晩年の作品『人間失格』『ビヨンの妻』とか、『駆込み訴へ』たいへんすばらしい優れた作家として、そのまんま文句なしに通用しますが、だけど、それ以前に書かれた、無意識のうちに、おれは価値なんて考えたことねぇよって、ないよっていうときに、太宰治の作品は無意識ですから
作品としては、同じことを書いてあっても、そっちの方が立派だと、僕なんかは、立派というか、執着を持つと言いましょうか、そういう作品だと思う。
 例えば、太宰治の戦争中の『富嶽百景』でもいいし『東京八景』でもいいですし、無意識のうちに病的だった、つまり、無意識のうちに自分の本質とつながっていた小説……何をあげればいいでしょうかね……こういうこと忘れるなぁ。まぁ、なんとかしてるうちに出てくるかもしれないけど、時間がそうとう経って申し訳ありません。
 つまり、太宰は、無意識のうちに病的だった、僕は、確か例として『善蔵を思う』っていう小説をあげたと思います。善蔵っていうのは、葛西善蔵のことで、葛西善蔵っていうのは、言ってみれば無茶苦茶人間として、もうこの人は人間としてぶっ壊れてるんじゃないかみたいなふうに思われやすいほど、大胆な私小説を書いた人です。
 『善蔵を思う』っていうような小説の題で何を太宰治は書いてるかっていうと、田舎っていうか、東京近辺の地方の農家のおばさんが花束を売りに来るわけです。売りにきて、この花束は必ず、もう少しするとものすごく立派は花を咲かせるから、これを買ってくれないか。わたしは、このお宅の庭に植えてってあげるからっていうふうに太宰治が庭を見ていたときに、そういうふうに言うわけです。そういうふうに、植えてあげるから、植えさせてくれないかって言うわけです。太宰治は、これは押し売りだっていうふうに思っていや、おれは花なんかいつでも眺めてるような人間じゃないし、そういう余裕もないから、勘弁してくれって断るんですけど、農家のおばさんは太宰治よりもはるかに言い方がうまくて、わたしに植えさせてごらんなさいっていま、もうすぐ経つと、ものすごく立派な花を咲かせますけど、って言って、決して、けっこうだから、いいよとは言わないんですよ。
 わたしは、いいよとは言わないで、とうとう太宰治は押し切られて、そのおばさんは、それをひとりで庭を掘ってそれで、それを植えて、これは立派に花を咲かせますよなんて言って、それでお金をもらって帰っちゃうわけです。
 太宰治は、またおれは騙されたというふうに感じていると、少し経ってから見ると、あるとき、起きて見ると、まことに立派な薔薇の花が、庭に花を大輪の花を咲かせているわけです。
 それで、あっ、と思って、あのおばさんの言ったことは、ほんとだった、おれは、てっきり嘘だと思って、そういうふうに考えてきたけど、それは、間違いだったという、こんな楽しいことは、おれはあまり体験したことはないと、太宰治自体は考えるっていう、そういう小説が『善蔵を思う』っていう表題の小説、短編ですけど、そういう小説です。
 僕の話はまずいから、のっぺらぼうですけど、太宰治という人は、落語やなんか、よく研究してた人ですからどう言ったらいいでしょう、オチがうまい、落とし方がうまいわけです。自分は嘘だ、嘘つきばばあだっていうふうに思っていたけども、本当は、あのおばさんの言う通り、ほんとに立派な花を咲かせて、それを植えていってくれたんだっていうふうに、話はオチがちゃんとついて、終わるわけです。
 これは、僕らみたいな、凡俗の言い方では、うまく説明できないですし、芥川のような、真面目一方の作家には、やっぱりできない作品なんですよ。つまり、芥川にも『蜜柑』みたいな、そういう作品がありますけどね、なんか、列車に乗ってると、前に女の子どもが乗って窓を勝手に開けて、その頃、汽車の煙がもうもうと中に入ってくる、そのもうもうとっていうのが、たまらないわけで、こんな勝手な娘はいないと思ってると、踏切のところまで来たら、その弟らしい男の子が、手を振って見送っているわけです。それではじめて、ああ、この子は、これから都会へ、東京へと言いたいところなんでしょうけど、東京へ奉公かなんかに行くところなんだと、それで、子どもは、それをなごり惜しくて、それを見送ろうと思ってやってきて、手を振ってるんだっていうのに、はじめて、そういうことに気がついて、いままでは、もくもくと、こんな無鉄砲な馬鹿な娘はいねぇと思ってたんだけど、それは、自分の勘違いだったっていう落とし方をしておりますけど、真面目な人の落とし方ですから、あんまり落ちにならない、作品としては、あまりたいした作品じゃないと、そういうふうになります。
 それは、3篇ぐらい、オチがうまくないからしかたがないよなぁっていう作品が晩年に近くありますけど、それは、太宰治は見事な落とし方をするけど、何がこの作品がいいのかって言いますと、つまり太宰治は、これに『善蔵を思う』っていう、つまり、私小説作家の無茶苦茶な作家で、これは、もう一般の人、社会の人から毛嫌いされて読まれるはずがないような、無茶苦茶な私小説を書いた人です。でも、心ある人が、あるいは心ある体験をした人がそれを読めばやっぱりものすごく感心せざるを得ない私小説なんですよ。それは、太宰治は、そのことを言いたいために書いてるっていうこれが、表題から見ればすぐに見当がつくわけで、結局そこまで読めっていう作品というのは、そこまで読めっていうことを言いたいところなんですけど、どんな作家も、詩人もおんなじで、そこまで、文学には、そこまで読む人を強要する強制する力はないわけです。それから、強制するのは、本意ではないわけです。
 つまり、偶然のように、ある読者は、ある事を考え、偶然ある本を読み、そしたら、そこに書かれていることは、自分と同じようなことを考えてる人がいるんだなとを読者の人に思わせたとか、自分はこう思ったけども、同じようなことを考えたけども、ここまでしか考えられなかったのに、この人は、もっと奥を考えてるなということがわかったとか、そういう偶然と偶然の、それも、偶然と偶然と、しかも自己表現と自己表現が、たまたま出会ったときしか、文学芸術の感銘っていうのは、ないわけなんですよ。それ以外の力っていうのは、ないわけですよ。
 そのことを、太宰治は、要するに、表題と中身となんの関係があるかって何気なく読んだら、そうなっちゃうんですけど、ちゃんとして読むと、これは、ちょっとまだその向こうっ側に何かあるんだよって、その何かは、この私小説作家が、やっぱり文学にとっては本質的な部分、自己表出のっていう面ではたいへんな作家なんだよ、ということが人にわかって欲しいんだよ、自分も、そうだけど、それをわかって欲しいんだよ、っていうことを暗に言ってるわけですし、もっと、想像をたくましくすれば、その当時で言えば、太宰治と同郷の東北の作家で、石坂洋次郎っていう人の「若い人」っていう作品が映画になったり、いろんなものになって、もてはやされて、いい小説なんですけど、悪い小説なんて知らないですけど、それで、もてはやされてるってことは、一方にあるわけで、なぜこれが、もてはやされて、葛西善蔵のがもてはやされないのか、っていうことが、やっぱり、いろんな考え方を広げれば、なぜおれの作品がどうして、もてはやされないで、どうも自分では、自分よりいいとは思えない作品がもてはやされたりするのだろうかって、太宰治は思いたかったのかもしれないということも、読む人は無限にそういう問題を広げて、やっぱり芸術っていうのは、何なんだっていう、何が主なる価値なのだということを、やっぱり言いたかったんだっていう、そこまで読めば、それでいんじゃないかなっていう、あとは、ほんとに偶然と偶然の出会い、しかも、偶然の自己表出と、偶然の自己表出が、読者と作者の間に成立したときだけ、芸術言語の価値っていうことを言いうるんだという、そういう結論になります。

13 時間をかけるほど芸術的表現は価値を増大するか

 ところで、価値っていう概念は、太宰治は、いらないと思って、そんなの自分は考えたことねぇって、考えたことなんかないんだっていうふうに、別なところで、書いてますけど、何が芸術的価値と、ただの価値と違うのかっていうと、ただの価値っていうのは、これは、マルクスまでもってくればいちばんわかりやすいですけど、マルクスが、ちょうど、
アダムスミスと同じことを言ってるんですよ。つまり、要するに、空気と、天然水っていうのは、要するにただだと。だけど、これ、どういうふうに、使われるかっていうことは、
考えれば、いろいろ考えて、やっぱり無限に使われるだけの価値がある。無限に何かと交換する価値があるもんなんだということが、マルクスのアダム・スミスと同じ言い方をすれば価値論の根底なんですけど、一方の、なんとでも交換できるんだと、そういう意味合いのこと、マルクスは交換価値と呼んでいます。
 で、柳田国男みたいな人は、殷(いん)の時代には、宝貝が、紙幣の代わりで交換価値があって、貨幣の代わりでなんとでも交換できたというのは、柳田国男の『海上の道』のいちばん根底にあることなんですけど、僕がどうしてそう言うかと言うと、マルクスは、要するに資本論の中でちょっとだけですけど、ついでに言ってみただけ、っていえばだけなんですけど、要するに、芸術の価値も、労働価値の代償によるんじゃないかと思う、そうじゃないかなと自分は思ったりするということを資本論の註みたいな、そういうところに書いてます。
 つまり、何を言いたいかというと、言葉の芸術みたいなのを考えても、詩を考えてもいいんだけど、なぜギリシアの詩は、ギリシアの書かれたものっていうのはギリシア時代に書かれたものが、なぜいいんだとか、日本で言えば万葉集とか、古事記、日本書記とかに書かれた詩はなぜいいんだっていうのをどうやって解明するんだという問題とつながるわけですけど、その場合に、そこのところで、マルクスの言うようにこれ労働価値を加えれば、加えるほどということは、
作品は、文学の作品と言えども、直せば直すほどよくなると、よくなるんじゃないかということは、暗に疑問符をつけながら、そういうふうに資本論の中で言っています。
 それで、僕なんか、おっ、と思ったのは、そこなんですけど、価値読みとして、そこがいちばん思ったわけです。なぜ、おっ、と思ったかと言えば、そうじゃないですよ、って、芸術の価値は、もう即興的に書いたって、いい作品がよくできたということは、ありうるんですよって。だから、力を入れて直したり、手直ししてて、労働価値を増そう増そうといい作品ができるっていうのは、それは、そういうことは、芸術には成り立たんですよって、あるいは、芸術文学には成り立ちませんよと言いたいわけで、そこのところで、いわゆる経済的価値を生むっていうのをファンクショナリズムと言いますか、機能的に重要とみる見方、それを近代の見方、近代初期の見方っていうような、そこでいつでも、僕は、危ないなぁ、危ないなぁと思う点なんで、それならば、いっそうのこと、太宰治のように、価値なんて、芸術にはねぇんだって、して、いい価値のものが売れなかったり、そうじゃない価値のものが売れたりする、そんなことは、ごく当たり前のことで、そんなこと問題にするにあたらないっていう考え方をやる人が出てくるのが当然だっていうふうに思いますし、それは悪くないので、手直しをして、労働の価値の多く加えるっていうことは、必ずしも作品をよくするとは限らないということは、作品を何か書いたことがある方ならば、すぐにそれは理解することは実感的に理解することはできると思います。
 そういうことと、芸術の価値は関係ないところに存在することは言うまでもない。その価値というのは、自己表出と自己表出が出会うところにしか求められない。出会うというのは、偶然である、と。で、偶然以外には芸術は価値を強要することもできないし、否定することもできない。
もちろん、たくさん売れたから価値がある、とも言えないし、たくさん売れたから、僕、ダメだということも言うわけにいかないんですよ。知らないけど、僕は、知らないけど、
『カラマーゾフの兄弟』っていうのは、何十万単位で売れたっていう、だからダメかって言ったら、そんなことはないですよ。つまり、それは読み方ですよ。読み方のいい悪いとか、いうことはありうるけど、それは、売れた売れないっていうのは、別だ。いいとも悪いとも判定する問題ではありませんよと言うよりしかたがない。これは、とても、重要なことですから、そこのところを、やっぱり、僕なんかの考え方からは、注意してくださるといいですね、読む場合に注意してくださるといいですねっていうくらいのこと言えるだけなわけです。ですけど、そういうことをぜひとも言ってみたいと思います。
 つまり、僕は、何十年かかって、その周辺のことを書いたり、しゃべったり、表現してきましたけど、なんで、おまえそんなことを、そんな馬鹿らしいことに、生涯をもうすぐ費やすかもしれないですけど、どうして、そんな馬鹿らしいことで、そういうことに、なっちゃったんだって言ったら、「まぁ、いや、おれ馬鹿だからな」とか言っても、あまり通らないし、しょうがないですね、なんとも言いようがないわけです。どう言ったらいいかわかんないですけど、「そういうことになっちゃったよ」というふうに、結果的に言う以外に方法はないわけですけど、でも、僕が、そういうことで、「おまえ、なにやって、なんで生きたんだ」「わぁー」って、終わればいいかなぁ。
 2時間43分……
 もうちょっと。
 それで、いいかなぁっていうふうに思うわけです。それで、いいじゃないか、って言いたいところだけど、いいじゃないかって言うと、おまえわざとそう言って、そういうの卑下マンって言うんだっていうふうに言われちゃいそうな気もしますし、このために何ができたんだって言われたら、
僕は、ひとつだけ言えることは、それが目的だったから、言いますけど、要するに、なんと言うか、一般的に芸術っていうのは、芸術に一般的に通用する理論なんてないんだって
個人個人の芸術家自体の問題であって、そんなことは、一般的に言えないで、ひとりひとり評価が違う、それも当たり前だ、っていう議論と、もうひとつは、芸術には政治的価値と、文学的価値があってこの両方がなけりゃ、芸術とは言えないから、両方が書け書けって、そういう有効性がないものはダメだって、こういう論議と、まぁ、極端に言うと、そのふたつしか、ないわけですけど、僕は、たぶん、僕の論議は、僕が書いてきた余計なものを含めてきちっと読んでくださると、どちらでもないと同時にどちらの考え方っていうのも、部分的には通用するけど、全体としては通用しないよということ、はっきりと指摘してるっていう、自分なりに、誰も得意だって言ってくれないから、僕は自分で言うわけですけど、自分なりに非常に得意な文学理論を作り上げたっていうふうに、これまた、自分だけしか思ってないから思っています。

14 第三列音を中心とした日本語の音

 それで、あとは、ちょっと、僕は悪気を出して、ちょっと日本語のことを、調べてて、あまり知らないんですよ。日本語のこと、知らなかったですよ。だからあれですけど、知らないと言っときますけど、日本語のあいうえお、かきくけこ、っていう、五十音図っていうのがあります、
 これは、小学のとき、はじめのとき教わったりするわけですけど、先生が遠慮して、もう少し詳しくやってくれたらよかったと思いますけど、日本語の五十音であいうえおというので、「あいうえお」をいうのを母音と言います。そして、それ以外の音と、仮名遣いによっては、一字であったりしますけど、そういうものを子音と呼んでいます。
 何が違うかっていうと、区別するのは、ひとつは、母音というのは、あいうえおの「あっ」って言っても、「あー」って言って伸ばしても、「あああーー」いつまでも「あ」なんですよ。「い」も、「いっ」って言っても、「いー」って言ってもいつまでも「い」なんですよ。これが要するに母音の特徴なんです。これは、日本語における音の元になっています。
 それ以外の音は、3つに区別されます。ひとつは、要するに、典型的に持ってくればいちばんいいんですけど、例えば「かきくけこ」っていう子音は、どういうふうにできてるかっていうと、かきくの「く」っていう、3列音と言います、と。3列音をいちばん最初に持って来て「あ」とか「い」とか、母音をつなげればいいんです。例えば「かきくけこ」の3列音は「く」です。「く」をいちばん最初に持って来て、母音をつければいいわけです。「くあ」を早口に言えば、「か」になります。3列音と「き」をつなげれば、
「くい」です。だから「き」かきくけこの「き」になります。
 つまり、この子音というのは母音と3列音を先頭にして母音を加えれば、全部、か行音はできます。大抵の音は、それで、できています。五十音というのは。そういうことは、すぐわかります。特別なのは、た行音です。た行音というのは、それでやってもうまくいかないんです。分列するのに。た行音だけは、最後の音、たちつてとの「と」を先頭に持ってくればいいんです。5行音を先頭にもって来て、「とあ」とすれば「た」です。最後の「と」を先頭にしないとそういうふうになりません。
 それと、もうひとつだけ、特殊なのは、それは、や行音と、わ行音です。や行音と、わ行音というのは、全部、3列音でいいんですけど、3列音と、母音との組み合わせたもの。そうすると、たいてい全部、母音と母音を順序を変えて、組み合わせたものだというふうになります。だから、そういうふうに作られております。その3つの他には、考えなくていいし、場合によっては、省いちゃっていいように、いまのではなります。省かなくても、それだけの区別っていうのがあればだいたい全部の音を、五十音の全部の音を作り上げることができます。
 僕は、癪にさわって、つまり、五十音あるから、ローマ字音を使ったりするのかっていうのじゃなくて、英語より数少なけりゃいいんだろうっていう、数少なくて、書くっていうことをわりに主体にすれば、僕なら僕は使い分けてるから、使えますから、そういうので、いいわけだろうって、そういうふうに考えて、五十音をもっと、英語、米語の、二十何音よりも少なくできないかっていう考えでいったら、それは、すぐできるわけで、母音と3行音と、それを、とにかくなんでもいいから並べて、指の2本で並べればちゃんと出てくるじゃねぇかっていうふうに考えたわけですよ。
 それで、そんな馬鹿なことやってられるかっていうのが専門家の言うことで、まぁ、僕も、そう馬鹿なことと言われれば馬鹿なことと思いますし、ま、だけど、要するにあんまり日本語をローマ字にして、米英語を元にして、ちゃかちゃか見てると、もうちょっちゅう、この僕がしゃべるこの早さでも、しゅっちゅう手を動かしてないとしょうがないみたいな、昔のタイピストのように手を動かしてなきゃ手が追いつかない、というの見てると、これ、おれにこれやれって言ったって無理じゃないかっていうふうに思ってそういうの考えたんだけど、だれも相手にしてくれてないから、自分だけを相手にして、そういう3列音ということに、ひとつ注意してもらいたいということ、あるわけです。
 どうして、3列音が、あらゆる子音との組み合わせにどうして、なりうるのかっていう問題に対して、明瞭な解答をもっていません。もし明瞭な解答があるんだったら、ある人がおられたら、その人は、もっとその上を考えてもらえたらと思います。
 僕は、ただ3列音というのは、学業の3列音というのはね、要するに口をいちばん、その行の言葉で言えば、いちばん口を動かさないで発音できる言葉だっていうことは、言えそうな気がしております。だから、これと母音を組み合わせれば、あらゆる子音はできるんだっていうふうに発想したらというふうに思います。
 それから、た行音だけは、どうしてそうならないで、たちつてとの「と」を使うのかっていう、これはたぶん、たちつ、っていうのの「つ」なんですけど、「つ」も、「と」も、これちょっと、口を小さくしてれば済むって言う音じゃないんですよ。で、これは、たぶん、そうとう新しい、つまり、江戸時代ぐらいに、うまくできてきて、誰か考えた音じゃないのかなと思ったりしますけど、これは、よく、わかりせん。だけど、一般的に言えば、3列音が口をあまり動かさないで、あまり、声にも出さないで発音できる簡単に発音できるとそういうことに多く関わってるんじゃないかなぁと、そういう気がします。僕が、日本語について知ったというのは、そのくらいのもんで、これ、おれ考えたんだよ、って言えるとすればね、2列音っていうのがあるんですよ。2列音っていうのは、あいうえお、かきくけこも、2列音っていうのでね、例えば、和歌っていうか、いまの短歌っていうか、短歌をつくってる人は、いまでもわりに、よく使うんですけどね、例えば、なんでもいいんですけどね、2列音で……わりあいに古い歌謡で、日本で言えば、いちばん古い歌謡と言っていいんですけど、日本書記とか、万葉集とか、古事記とか、いちばん古い5音がでてくる、そういう古い時代の使われた言葉で、えーっと、ひとつは、「しらとほふ」という、これは地名で言いますと、新治(にいはり)っていう新しい田んぼという意味合いになりましょうけど、新しい田んぼにつく枕ことばがあります。
 新治、まくらことばですから、しらとほふ 新治
っていう言い方をするわけです。土地の名前でも、新治郡というのは、常陸風土記(ひたちふどき)に出てきますけど、
新治郡の、上につく枕ことばとして、「しらとほふ」っていうしらが遠くあるっていう意味合いにとれますけど、しらとほふ 新治、って、新しく田んぼになったところに、しらが遠くまであるよ、っていう意味合いで「しらとほふ」
という枕ことばがくっついてると思います。この「ほふ」っていう使い方が、古いもんだと、うんと古いもんだと思います。それで、これは、2列音が主になっております。
 2列音が主になって、新治っていう新しい田んぼっていう意味合いとか新しい田んぼをつくったとこだとか、そういう意味合いで新治の枕ことばとして「しらとほふ」というのがあります、これは、橋本進吉さんみたいな偉い学者さんが、このことは指摘しておりまして、ただ指摘して、逆ふで(?)中世に近くない平安朝時代になっていくとそれは常用されますけど、「とおしろい」って言い方が出てきます。
「とおしろし」っていうのは、つまり和歌の表現体として、
とおしろ体っていうのが、言われています。
 つまり、とおしろ体ってなんかのかと言いますと、遠くに白い、って意味合いにとれば、よく取れるわけですけど、僕は、「しらとほふ」っていう古い言葉が、逆語として出てきて、そして意味も和歌の、中世の和歌の専門家が、それを逆ふ(?)にして、「ふしらとほふ」をとおしろ体っていう、和歌の文体のひとつとして、とおしろ体っていうのを考えてつくり出したっていうふうに、僕は思っていますけど……

15 司会(糸井重里)

16 挨拶(糸井重里)