故郷で「あれは大工の息子だ」と 言いだす人がいたら、 そっちの意見のほうが正しく聞こえます。 なぜならそれは、小さい世界で そばで見ていた人の指摘ですから。 たくさんの人がいくら 「あの人はすごい人だ」と言っても、 近くで見ていた人に 「じゃあ、あんた、会ったことあるの?」 という対決に持ち込まれたら、 負けてしまうのです。 「ちっちゃい頃、鬼ごっこしたときに、 あいつはこういう卑怯なことをした」 「スケベなことばかり言うやつだったよ」 なんて言われちゃうと、 どんなに人を助けるような すばらしいことをしていたとしても、 あんがい、リアリズムのほうが勝つんです。 これは、いまの メディアの足引っ張り合いの構造と同じです。 スキャンダリズムとは、 こういうことなんです。 社会の側でない自分が、恋人に かわいいあだ名で呼ばれていたとして、 ひざまくらをしてもらったとして、 それが書かれて公になったとしたら、 社会の側の自分が大きければ大きいほど おしまいです。 かなり効果的ですから、みんな そっちの足を引っ張ろうとします。 だけど、同じ自分が、たとえば 「国のありかたを考える」なんていうのは、 両方で、成り立つことなんです。 これはきっと、昔のほうが上手だったのでしょう。 芸者さんのひざまくらで都々逸を歌ってた 維新の志士なんて、 物語でよく描かれていますけど、 あれはつまり「両方あるよね?」という話です。 いまの時代はとくに、それを許さない。 足を引っ張るネタとしか思えないのです。 男性でいえば、個人が持っているオトコ性、 おとっつぁん性だとかガキ性だとかを 表現できなくなっちゃってます。 両方あるのが人間です。 ぼくだって、小出しにしてごまかしてますよ。 (明石家)さんまさんみたいな人がいてくれて ほんとうに助かってます(笑)。 お笑いの人たちが代わりにやってくれて、 ぼくらはその背負い賃を、 応援することでギャランティーしている、 ということもいえるでしょう。 そんなことはもうイエスの時代から、 とうにあって、ずーっとそうなんです。 これは、故郷の人や 引きずり下ろす道具にしようとする人が 悪いということではありません。 人間と社会の関係の中に 必ずあるものだということを イエスは知っていた、 マルコ伝の作者はそう書いてるんです。 「『両方が別の人間として立っているんだ』と マルコ伝の作者は書いてるんですよ」と 吉本隆明が言ってるんです。