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さて、今回は、
イエスは自分自身を信じることができたか、
という問題です。
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イエスは最後に、マルコ伝では
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」
(神よ、神よ、なぜわたしを見捨てるのか)
といって息絶えたというところがあります。
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この部分で吉本さんは
イエスは結局、
自分を信じきれなかった、と
語っています。
千年に一度しか出現しない人も
そうだった、と。
イエスのこの言葉、
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」
(神よ、神よ、なぜわたしを見捨てるのか)
みなさんにはどのように聞こえますか?
いろんな解釈のしかたがあるでしょうし、
旧約聖書の詩編からの引用とも言われています。
ぼくは昔、
イエスは「神から遣わされた人の子」だから
みんなのかわりにこういうふうに言ったんだな、
と思っていました。
でも、考えてみると、
こう言う以外ないだろうな、とも思います。
割りきってすっぱり
笑いながら死んでいくなんて、
ないことなんじゃないかなぁ。
「俺はご機嫌さ」と言えば、
自分に嘘をついていることになってしまう。
そう思います。
生きて死ぬことは不完全で、
個がひとりで全うするものは
ひとつもないということなんだと
ぼくは思います。
「ひとりで満足な人生」と言う人が
いるかもしれないけど、
ほんとうに満足なことって
なかなかないでしょう。
なぜなら、人生は、終わっちゃうんです。
だからみんな、何かを残すのでしょう。
残したり残さなかったり、悔しがったり、
それが、個というものの宿命で、
個が世界全部じゃない以上は
満足なんて無理なんだと
ぼくは思います。
それはイエスをもってしても、
誰をもってしても、そうだと思います。
だから、すごく観念的な
無限大のようなものを
人間に求めたら
ほんとうはダメなのでしょう。
しかし、「不完全です」と言いつづけていたら
結局、自分が生きていることを
全面否定しなきゃいけなくなります。
そのために、ここにこうしてイエスがいるんですね。
吉本さんは、このあたりを
ひじょうに上手におっしゃっていて、次の
07 聖書のなかで信じられていること
の冒頭で
「みなさんはそれでは
おさまりがつかないでしょう」
と言っています。
「おさまりがつかないから
信じるんでしょう」
信仰とは、そういうものなんですね。
そして、
近親者も同信者も信じられない、
最後には自分も信じられない、
それならばなにを信じるのか、という話に
移っていくわけです。
さあ、ここからが、
タイトルの「喩としての聖書」に
かかわっていくところなんですが、
難しくて長いんです。
次回からは、ある程度まとめて
話を進めていくようにします。
ここで、ちょっとひと息入れましょうか。
ぼくは吉本さんと、
かれこれ25年以上つきあいがありますけど、
ひとつだけ‥‥ということでもないけど、
強く心にひっかかっていることがあります。
自分でも、どうしてこうなっちゃったのかな、と
思うんですが、
吉本さんが1996年に、
伊豆の海で溺れて倒れたとき、
見舞いにも行かなかったし、
声もかけなかったんです。
ほんとうに、どうしてだったんだろうと、
いまでも思うくらいなんですけど、
なんか行きそびれちゃったというか、
ニュースで様子を知っているというような、
そういうことになっちゃっていたんです。
でもねぇ、あれで、病院で助からなかったら、
ぼくはもう会えてなかったわけですからね。
すっごく大事なお見舞いだったかもしれないんです。
だけど、生還して退院してから、
はじめてお会いするときにも、
なんかものすごく自然にお会いできたんですよ。
「そうは言っても、なんで来なかったんだ」
という気持ちが、
まったく感じられないんです、吉本さんには。
「糸井さん、あの頃って何してたの?」
とか、ぼくだったら、
ちょっと聞いてみたりしたくなると思うんです。
思うんですけど、吉本さんには一切それがない。
吉本さんは、論争で闘ったり、
悪口はさんざん言ったりするんだけど、
見舞いに来なかったことに対しては、「言わない」。
そこに対しても、ぼくは興味があります。
きっとぼくは、吉本さんの
そういうことを真似したいんだと思います。
「来なかったね」と
言ったり思ったりしない人になったほうが
お互いにうれしいですもんね。
吉本さんは、きっと、
言わない人になりたくて生きてきたから
そうなったんだと思います。
もともと「人は言うんだ」とわかって
認めているから
そういうことができるんです。
吉本さんはよく
「ぼくなんかもそうだけど」と
照れくさそうに前置きして
人や、人の書いたものを批評したりします。
「わかっちゃいねえんだよ」なんて言いながら、
自分もそうだということを
当然知っているわけです。
それを知ってて
混ぜこぜにできるということが
批評や批判には、けっこう重要なんです。
そういう自問自答のないところで
ガミガミ言うようなやつのことは
相手にしてないし、
ぼくらもみんなも、しなくていいと思う。
自分が持っているしょうもない部分というのを、
アクをすくうようにすくってごらんといったら、
吉本さんはすくえる人です。
「あの話をしたときに
俺はこういうアクがあった」
と言えるという状態にしておけるのが
思想としての強さに結びつくのです。
マルコ伝は、
最後に自分を捨てるということで
宗教書として確立しています。
それは、無限を感じさせます。
これがもし、
「ほんとうに信じました」というふうに
書かれていて
それでおしまいだったら、
平凡なおとぎ話になってしまいますから。
では、次回からは
難しい言葉の部分に入りますから、
ちょっとまとめてお話ししていきます。
音声、ぜひダウンロードしてください。
それではまたつづきの日に。 |