ITOI
緊急再掲載
なんでいまごろ、
サイババなんだよ?!

まだ、サイババに会いに行く人がいるらしいリアリー?
ぼくは、ずうううっと前に行きましたよ。
自慢してるわけじゃないんです。
おいおいっ、ちゃんと調べろよ、と言いたいだけなんです。
あれは、もう超能力少年ブームように、
「終わってる」とばかり思っていたのに。
まだ、インドの田舎に行きたがる日本人がいるっていうから、
すっかりびっくりしちゃってね。

1994年、お調子者のイトイは、インドに行きましたよ。
なにせ、「なれるものなら
ゲイになってもいいという」ぼくです。
サイババ様が本物の神の化身なら、
すがりついてでも弟子になるつもりでしたよ。
テレビ特番で、90分のワクを準備してたしね、
本気で「野次馬さん」でしたもの。
思えば、あの時、内部を案内してくれたのは
オウムの脱会信者だったよ。
いま思えば、おもしろい旅だった。
「アガスティアの葉」にも出かけたしね、
長い旅だった(笑)。

そのときの、レポートを、「月刊PLAYBOY」に
ながながと書いたんだけど、熊谷くんも林葉くんも、
最近では石田くんも、読んでなかったみたいね。
読んでれば、行ってたかなぁ?
信用とか信頼感とかには、縁遠いぼくですが、
書いてあることはとても素直で正直でしたからね。
「ほぼ日」読者のみなさまも、予防接種のように、
この連載を読んでおくといいと思いますよ。

(この記事は、「月刊PLAYBOY」に
上・下にわけて短期連載されたものを、
再掲載するものです。
写真は、ノッテケ・矢嶋氏の提供です。

<
プロローグ---精神の埋蔵金を掘りに行くとか言っちゃった。

出発の前---腸内異常発酵的に、期待は腹部に膨満した。

インドの日々---夢のようなお家やお庭を拝見して、
マイケル・ジャクソンを思い出してしまった馬鹿。

聖地の馬鹿ども---煙草が吸いたいけど、吸ってもまずいのは ババ様の思し召し?

サイババ登場---ババ様ったら、ほんとに恋の駆け引きがお上手。

イイコをやめた馬鹿---赤城山の苦労に比べれば、こんなこと、なんてことないさ。

_____さよなら、生き神様。_____

神様っていったい、なぁに?

この原稿をほぼ書き終わったころ、
音楽評論家の湯川れい子さんから手紙をいただいた。
私信ではあるので、詳しくは書かないが、
いちばんのテーマは、サイイバが最初の日に
私をにらみつけて言った謎の英語についてだった。
英語に堪能で、ご自身もサイババのインタビューに
招かれた経験を持つ湯川さんの耳には、
あの一言は「アイル・ミート・ユー、カム!」と
聞こえたというのだ。
彼女は私たちのテレビを観ていて、
地団駄を踏んでいたという。
さらに、ババは、インタビューに呼ぶときには
「カム!」の一声だけをかける場合が多いという。
終わってしまったことだが残念であると、
湯川さんは教えてくれた。

土産もの屋
こういうのを見ると
ちょっと驚いちゃうよなぁというのが、
アシュラムの外に数多く並ぶ
「サイババ・グッズ」の店。
ま、お土産屋です。
ババ様のプロマイドからキーホルダー、
バッジなどなど。
「サイババTシャツ」が欲しかったが、
なかった。
そいつは、
私だって残念だった。
しかし、
いまの私としてみると、
それはそれでよかった
とも思っているのだ。
あの時、「ゴー!」が
お呼びですよの
サインだとばかり
思っていたために、
「カム!」で
立ち上がらなかった
私たちは、
指輪や甘露を
土産にできなかった。
しかし、
もう恋の駆け引きも
思い出に
なってしまったいま、
あらためて言えるのだが、
サイババの部屋に
呼ばれなくて
ほんとうによかったと思っている。

サイババの圧倒的な存在感に 、
畏怖を感じているような
状態で、彼に招かれ、彼の近くに立つことになったら、
それだけでもう私はサイババを全面的に信じる心の準備を
してしまっただろう。
そして「イトイ」と名前で呼びかけられ、
「おまえが心の清い人間だということは、
私にはわかっていた」
なんて言われたら、もう頼まれもしないのに
額を床にこすりつけて土下座しちゃう。
「おまえの探している宝は、見えないが大きなものだ」
なんて追い打ちをかけられたら、
勝手に埋蔵金のことを考えて驚いてしまうだろう。

さらに「しかし、宝はここにあり、
おまえの心のなかにある。
それが、おまえにはわかっているね」
などとおだてられたら、
ねずみ花火のように部屋中を火ィ吹いて走り回っちゃう
かもしれない。これだけでババ様は許しちゃくれない。

「しかし、見えない宝ばかりでなく、おまえがその心を
いつも強く持っていられるように、
見える宝をあげよう」と、
死者にムチ打つような歓ばせ方をするのだ。
そして、目の前で指輪を
「物質化」して見せてくれるはずだ。
「おまえには、この色の石が似合う」
なんてお見立てまでしてくれて、
「大切なのは、ラブだ」とシメてくれる。
こんなことをされて、サイイバの信者にならないと
自信を持って言える人間がいるだろうか。
私は、正直言って、自信がある。
必ず、信者になってしまうほうの自信だ。

あの時の「カム!」で、ついて行っていたら、
絶対にそうなっていたのである。

ババ様のほうも、考えこんじゃってたに違いない。
「カム!」と言って招いたのに、やつらは来なかった。
何を考えているんだろう、わからんやつらだ。
もう少し、とにかく様子を見てみよう。
そんなふうだったのだと、私には思える。
「あら、私の魅力にまいっちゃわない男なのかしら?」
といったところであろう。

しかし、とにもかくにも、指輪を持たずに
帰ってきたのである。これで、ほんとうによかったと、
負け惜しみでなく私は思っているのだ。

日本に帰ってから、あらためてサイババの説教集ともいえる
本を何冊も読みかえした。彼の伝説と、
彼を「研究」した本と、
あわせてほとんどサイババ関係の日本語で書かれた本は
読んだが、どうしても私には、彼が「神の化身」だとは
思えなかった。

 私にはピンとこないが、読む人が読めば
立派なことを
言っているのだろう
といった説教が、
どんなに素晴らしくたって、
それは「立派な人」とか
「たいした坊さん」
ということにしかならない。

 学校や病院を建てたことは、
政治家として
評価されるかもしれないが、
神の御業であるとは言えない。

空中から指輪を出すという奇蹟は、どうやらインドには
伝統的で宗教的なマジックとして、何人もの人間が
やっていたことらしい。もっともそのトリックはたいていは
暴かれてしまっているらしいが。

では、サイババが「神の化身」を自称してもよい根拠
というのは、どこにあるのだろうか。

突き詰めて考えていくと、やっぱり
「奇蹟」を根拠にするしかなくなってしまうのである。   

サイババの奇蹟の数々は
、ほとんどが「また聞き」のかたちで
流布している。前号(雑誌には
二度にわけて連載されたので、
ここでの前回は、「ほぼ日」とは異なる。
「ほぼ日」では、このエピソードは、
連載の第2回目にあたる)でちょっと触れた
「オーストラリアへ
瞬間空間移動させられたテレビスタッフ」
の話などが、その典型的な例だ。
インタビュールームという限定された空間で行われる
「指輪の物質化」以外に、正確な証言を取れる奇蹟は、
現在ではもうほとんど見せられていない。
私たちのスタッフが、出発を1日遅らせて、
ブッタパルティの名士の家の結婚式でサイババが、
白昼、ネックレスを「物質化」する場面を
8ミリビデオで撮影してきたが、
これなどはどうしても「袖口から飛び出るように」
見えてしまうので、サイババ弁護人としては資料として
提出しにくいものであるに違いない。

それでも、信じている人間にとっては
「奇蹟の重要な記録」にしか見えないはずだ。
私だって、もし「ゴー!」と
「カム!」の合図を取り違えずに、
彼に直接会えていたら、感動とともにそのビデオを見て、
「これだけはホンモノだ」と、宣伝していたに
決まっているのである。
それは「不思議、大好き。」の好奇心とはまったく正反対の
ココロが成せる業であって、だからこそ、私はサイババに
会えなくてよかったと思っているのだ。

現在「西洋の科学の限界」を語ることは、
「愛が大切」と語ることと同じように、
人々の同意や支持を得やすい。
これに、科学雑誌的な次元の「量子力学の最新理論」や
「ニューサイエンスの諸理論」をコラージュしてやれば
「何だかよくわからないけれど
十分に科学的でもある新しい夢」
を見ることができる。
何せ、「いままでの科学は、行き詰まっていて、
さんざん害毒を垂れ流している」
と考えることが前提にさえなっているのだから、
少しくらい理論に欠陥があったとしても
「東洋的な伝統に裏打ちされた新しい考え」
のほうがましだと思われやすいのだ。

そこまでは、私も同病の人間であることを認めよう。
しかし、「科学の限界」を語る者が、
「不思議だがほんとうだ」という立場で
「神秘」や「超」のつく能力について報告する時には、
ある一定のルールを持たなければならないだろう。
それは、とても簡単な、子供でも守れるルールだ。
たったひとつ、「嘘をつかない」ということだけだ。

オカルトの世界は、賭博に似たところがあって、
賭け金が積もり重なっていくほど、
後に引けなくなるものだ。
早い話が、日本からインドの奥地まで
2日もかけて行ったら、
その労力や経費のモトを取らないわけにはいかない
という気持ちになってくるということだ。
これに、大酒飲みが禁酒するとか、
ヘビースモーカーが禁煙するとか、
夜型の生活になれた人間が早起きするなどという
「投資」が追加されていったら、
「あれはインチキでした」と言って
サラッと帰ってくることが困難になってしまう。
当然のことだ。
しかも、この「賭場」では、誰それが大勝ちしただの、
昔ある人がこんな大儲けをしただのに類する「物質化」やら
「瞬間移動」「予言」などの会話が
四六時中交わされているのだ。
賭博に勝って帰らないことには、大損してしまう。

いま私たちが毎日暮らしている「近代社会」は、
勝つべき人が勝ち、負けるべき人が負ける
「本命ガチガチ」の世界である。
奇蹟もなく、幸運もなく、
無感動に時間が流れていくと感じる人間がたくさんいても、
それはそれで当たり前ではあるだろう。
かつて農業圏と工業圏の境界で
起こっていた「公害」問題が、
現在では「工業圏」と「情報圏」の境界で
「精神的公害」の問題として
噴出していると捉える考えがある。
近代は、いま、新しい「疲労」を生み出している。
その、近代への疲れが、主婦に泥付き大根を買わせたり、
女子高生を占いの館に向かわせたりしているのであろう。
サイババの修練場で見た多くの西洋人たちは、
例外なく「優しそうで、ひ弱そう」な表情をしていた。
あの白人たちにとって、サイババの黒く怖い顔は、
泥付き大根のように、信じるに足るものとして
映っているに違いない。

近代への疲労感、というキーワードで解くと、
(私も持っている)恐竜の卵の化石も、
(私は持っていない)
ブルセラショップのしみ付きパンティも、
(私は持っていない)サイババの指輪も、
同じものであることがわかる。
とすれば、サイババの信者は、
これからもますます増えていくに違いない。
テクノストレスは、さらに加速的に拡大する病気であると、
考えられるからだ。

しかし、信者が増殖していった時、
現在のサイババの世界は、
持ちこたえることができるのだろうか。
マイケル・ジャクソンのように小動物を愛し、
お菓子のコトブキの店鋪のような少女趣味の建物に住み、
愛を語り、指輪を出す、という
「プリミティブな善意のデザイン」に疑問を抱く巡礼が
増えてくると思えるからだ。
現に、近代への疲労度が低いとも言えない私は、
サイババのデザインポリシーに、
「いい年をした大人にしては、
子供っぽすぎる善意の表現」
を感じて、
逆にその裏に隠しごとを見るようになってしまった。
あれで、サイババがもう少し
「一般的な人間」のような姿をしていたら、
それにもっと早く気づいてしまったかもしれない。  

サイババがイメージし、デザインした「神の国」は、
インドの奥地では十分に
通じるものだったのかもしれないが、
もう古くて半端なものになってしまっていると、私は思う。

しかし、私は、自分に問いかけてみた。

自分が「神の化身」だったら、私という神の住む場所を、
どんなふうにデザインするだろうか。これは難しい。
単純に考えて、神が自分の家や、
自分の服をあれこれ考えるはずがないと思えるからだ。

ついでに、もっと考えて、自分が「神の化身」だったら、
人々を招き寄せて指輪や「名刺や切手」を
空中から取り出すだろうか。
もっと他にすることがありそうだなぁ。

さぁ、オレが神なら何をする?
これは、まったく困った問いかけになった。

10年ほど前、知り合いのパートタイムの香具師に、
大黒様の像をプレゼントされたことがある。この像は
「どんな願いごとでも、
ひとつだけ叶えてくれる」のだという。
ひとつだけ願いごとをして、それが叶ったら次の人に渡す。
そうやって、次々にさまざまな願いを成就させて、
私のところにめぐってきたというわけだ。
それはありがたいと、受け取ったものの、
何を願ったらよいのかわからない。
そのころは、親父がガンで入院していたので、
それを治してくれというのが、
いちばん当たり障りがないかとも思った。
しかし、ガンが実際に治ったとしても、
そこの奇蹟のすきまを埋めるように
母親が交通事故に遭うかもしれないではないか。
運命にひねりを加えたら、
きっとどこかに別のひずみがきたり、
ひびが入ったりする。大金が欲しいと願ったら、
家族に不幸があって保険金が入ったなんてことがあっても、
やっぱり願いは叶ったことになるのだ。
そんなふうに考えると、何ひとつ願えなくなる。
結局、私は、早く次の人にその大黒像を渡したくて
「今日一日、私の知ってる人たちが
無事で生きられますように」
という、願わなくても結果は同じというような
安全パイを切って、
そそくさと「奇蹟」を済ませてしまった。

神だって、ムリはできないはずだ。
特定の人間に「おお、よしよし」とばかりに
願いごとを叶えてやったりしたら、
別の人間にきっとしわよせがきて不幸になる。
誰も彼も、生きものみんなに都合のいいことなんて、
あるはずがない。極端なことを言えば、
地球上から結核がなくなったら、結核菌が死に絶える。
そりゃ結構なことではないかと、私も思うけれど、
結核菌だって神がつくったのなら、
殺してよろこぶのは人間の身勝手という理屈にもなる。

そんなふうに突き詰めていくと、
私は神になっても何もしないことになる。
何もしない。
ユダヤ人のためにも役に立たず、
イスラム教徒の力にもならず、
ロシアの政局にも介入せず、
どこかの民族が大虐殺されていても何もしない。
何かしても、別の何かが起こってしまうのだから、
何をしても迷惑だし、
何もしなくてもやっぱり頼りにならないと思われてしまう。
ほんとうに神が、まったく全能であるならば、
神は役立たずとののしられつつ、
何もせずに消滅させられてしまう他はないのだと思う。
これ、論理的に間違っているかなぁ。

だから、いま生きていない神は、
触れることも見ることもできない「昔いたらしい」神は、
みんな本物である。何もできないということで、
結果的に何もしないと同じ状態にあるのだから。

逆に言えば、「生きて動く神」は、
ただじっとして酸素を吸っているだけだとしても、
宇宙全体のなかで局地的に影響を与えてしまうから、
神の資格を持てない。
その意味で、サイババは、どんなに偉い人か、
どんなに優れた超能力者か、
どんなに周到なペテン師かは知らないが、
余計なことをしすぎているから、
神ではないということだけは言えそうだ。
特に、自ら「神の化身」と名乗ることで
人々に与える影響は大きすぎる。

これが、私のインドから帰ってから考えたことだ。
サイババのさまざまな「奇蹟」が、
トリックか否かなんてことは、どうでもいいことだ。
ひまな時に、全生物にとは言わないまでも、
せめて全人類に、自分の全能の証拠として、
同時に指輪をバラまいてみてはどうだろう。
そんなことをご提案して、サイババ様のことは、
もう忘れることにする。

私は、信仰を持つ人や、
信仰そのものへの尊敬は持っているつもりの人間だ。
人が何を信じて生きるかは、
誰にも邪魔されるものではないはずだ。
信仰を持っている人が、私にとってよい人であれば、
彼の信仰をますます大切なものだと思うし、
信じることの素晴らしさを、一緒になってよろこぶであろう。

それは、「あらゆる考えは、自由だ」という、
私自身の「信仰」に基づく考え方である。
挑発的な言い方になってしまうが
「姦淫の心を持って女を見ること」さえも、
自由であるはずだというのが、私の「信仰」ではある。

「姦淫すること」が自由なのではない。
「姦淫の心を持つこと」が自由なのだ。
「善でないとされる心を持つこと」で、
その人は何か目に見えない利益を得るかもしれないし、
不都合な目に遭うかもしれない。
しかし、それは、「心」がにじみ出てしまった時のことだ。
いやらしい笑い顔になってしまったら、
「姦淫の心」は、「物質化」(笑)しているということになる。
そこで平手打ちを受けても、
私の知ったことではない。

しかし、あくまでも「心」にとどまっているかぎり、
「想像力」の範囲にあるかぎり、
それをどう膨らませようが歪ませようが、
彼の自由であり、誰にもさまたげる権利はないはずだ。
そうでなければ、あらゆる作家は逮捕されてもいことになる。
ま、作家の場合は、表現として
「物質化」(笑)しているわけだから、
その時点で別の社会的な
制約を受ける可能性はあるんだけどね。

ともかく、信じることは
信じないことと同じように自由だという私の立場は、
この私の「信仰」の自由を守るために、
あらためて言うことにする。

 人々に、たくさんの不自由をプレゼントしてくれる
「生き神様」、さようなら。

私は、何もしてくれない神様を、うらんだり、
馬鹿にしたりしながら、
その神様のおつくりになった世界で、
よろこんで生きて、死にます。
(おわり)

このページへの感想などは、メールの表題に
「なんでいまごろ、サイババなんだよ?!を読んで」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。


1998-10-25-SUN

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