── |
江戸の寺子屋って
学費はどうなっていたんでしょう。
たとえば今は、いい学習塾に通わせると
お金もかかるじゃないですか。
いっぱい習い事をすると、
親も大変だったんじゃないかと‥‥。 |
市川 |
それは大変だったと思いますよ。 |
── |
やっぱり、お月謝みたいなのがいる? |
市川 |
いりますね。はい。
でも、日本の人口の大半を占めていた
農村社会っていうのは、ちがいます。
「ない人から、とる」
ということはありません。
そもそも、入学金とか
授業料って発想じゃないんです。 |
── |
あ、違うんですか。 |
市川 |
教えてくれる先生や、
教えに感謝しますっていうことなんです。
今でもお歳暮とかお中元をあげますよね。
それは基本的には
日頃の厚誼に感謝する意味ですよね。
ま、そうじゃない部分も
かなりあるでしょうけど(笑)。
でも、なかなか、そういうの、
なくなりませんよね。それはやっぱり、
ある種の気持ちの表現を
物で交換し合うっていうということなんです。
そういう伝統ってのは、
どこの社会にもやっぱりあって。
寺子屋では、例えば、
席書(せきがき)と言って、
綺麗な字を書いて貼り出そうという
発表会みたいなのがあるわけですよ。
その最後に食べものが
出たりだとかするんだけど、
その時に先生にお金を包むみたいなことが
あるわけです。
それは、日頃の指導の賜物に対する感謝、
ということですね。
あと、振る舞いものの感謝とか、
そういう形でお金が集まる感じです。 |
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▲「幼童席書会」 弘化年間 公文教育研究会蔵 (下は部分拡大図)
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|
── |
定価ではないんですね。
今のお坊さんへのお布施に近いですね。 |
市川 |
近いです。
対価じゃなく、感謝の気持ちだから、
相場がないんですよ。 |
── |
じゃあ、お金がないからといって、
行きたい寺子屋に行けない、
ということはないわけですね。 |
市川 |
ええ。基本的には
受け入れられてたと思いますね。
つまり、勉強するっていうのは、
道徳的な人間に育ててくことだから、
学びたい人はウエルカムなわけですよ。
行きたいっていう人を拒む理由は
まったくない。
それが農村社会の基本的な寺子屋の
あり方だと思います。
でも、江戸はね、若干違ってくるんですよ。 |
── |
違うんですか。 |
市川 |
ちょっと、ね、
経営の要素が入ってくるんですよ。 |
── |
へえー! |
市川 |
都市っていうのは、現代に近いんです。
田舎でしたら、もう当然、一対一の
すごい濃厚な師弟関係なんですね。
一人のお師匠さんがいたら、
その人が死んじゃったら、おしまい。
師弟関係を誰か他の人と結びかえる、
ということができない。
武士の「二君に仕えず」
といった感覚と同じです。
けれど、江戸には100人200人とか、
すごい数の生徒をもつ
寺子屋があったりするし、
この先生はダメだからこっちの先生とか、
そういうことが起きていたと思われます。
で、払うお金も授業料にかなり近い制度に
なってきます。 |
── |
だいたいこのくらい頂いてますよ、
みたいなガイドラインがあったんですね。 |
市川 |
たぶんそうだと思います。
人格関係じゃない替わりに、
授業料的なものが発生してた可能性が
かなり高いんですね。
人気の寺子屋だったら、たぶん定額。
しかも銭で。農村だったら、
額なんか決まってませんし、
払えない人は払わなくていいし、
お金がない人は大根だって何だっていい。
大根だって、何本てんじゃなくて、
大根だったら2本とか、
にんじんだったら3本とか
決まってるわけじゃないですよ(笑)。 |
── |
気持ちですからね! |
市川 |
気持ちですからね。
「先生ありがとうございます」
「お世話になってます」って。
しかも、七夕があったりとか、
重陽があったりとか、
色んな行事があるわけですよ。 |
── |
じゃあ、先生は、そこそこ暮らしていける。
お米もらったり、大根もらったりして。 |
市川 |
ええ。ただ、けして裕福な生活は
できなかったと思いますけど。
‥‥しちゃいけないっていう
倫理観はもちろんあったでしょうし。 |
── |
寺子屋で先生をしていた人というのは
どういう人なんですか? |
石山 |
農村では、やっぱり、
名主が一番多いですよね。
名主というのは村のリーダーです。
教養もあるし、
基本的には経済的にも豊かです。ですから、
人に施すということも行えるわけです。
あとは、寺子屋の名前通り、お坊さんですね。
寺子屋の始まりは、
室町時代の終わりくらいで、
師弟の教育機関としてのお寺がありました。
時代が栄えるに連れて、
農民の中でも名主が
そういう場をもつようになったんですね。 |
── |
私の父が昭和9年生まれなんですが
悪ガキでお寺に預けられたといいます。
お寺が教育機関であるということが、
ずいぶん長く残っていたんですね。 |
市川 |
確かに、いいお寺であれば、
礼儀作法も教えますし、
人の生き方も教えますよね。 |
── |
では、江戸の市中ではどうなんでしょう。 |
石山 |
江戸は、武士が多いですね。
士族、特に浪人ですね。
結局食えない武士が、自分の生活の糧に、
寺子屋を経営するんです。
今回展示したので、有名なのは曲亭馬琴です。
曲亭馬琴は用人といって、
武士と奉公人との間みたいな家なんですよ。
馬琴の息子は医者になっちゃうんだけど、
孫の太郎ってのは、同心って言って、
一応武士にはなるんですけれど。
そういう風な下級の武士が、
寺子屋をやっていたんですね。 |
── |
教養もあるし、時間もあるし‥‥ |
市川 |
金はないし(笑)! |
石山 |
明治期の調査なんですけど、明治の初めだと、
まだ旧身分とか出るんですよ。
昔は何の身分でしたかって。
やはり、江戸の場合は士族が多いです。 |
市川 |
寺子屋の先生には女性も多いんですよ。 |
石山 |
これも、農村と都市の大きな違いで、
女性の手習師匠が多いのが、都市ですよね。 |
── |
それも、例えば武士の奥さんとか
そういうことなんですか。 |
石山 |
も、いたでしょうし、
あとは、未亡人ですよね。 |
市川 |
それに、御殿女中なんかで行った人たちも、
当然素晴らしい字を書けたりするわけです。
そういう人がいっぱいいるわけです。 |
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▲風流てらこ吉書はじめけいこの図
歌川豊国(初代)画 公文教育研究会蔵 |
── |
その、お師匠さんになるっていうのは、
今だったら教員免許とかあるじゃないですか。
江戸時代は「やりまーす」って言ったら
なれちゃうんですか? |
石山 |
手習師匠ってのは、書家でもあるんです。
ほんとに書で食べていける人も
いるんですけど、そうじゃなくて、
有名な先生のさらに弟子くらいだと、
そんなに有名じゃないから、
手習師匠を兼ねるわけですね。
で、書家であれば、
書道の免許皆伝を得られれば、
「あ、何々先生に繋がる人だから」
っていう評判を得られますよね。 |
── |
あ、そういうことですか! |
石山 |
だから、農村の手習師匠も、
だいたい江戸のそういう有名な書家に
習ってから、もう一回、
自分の村に戻ってきたりするんですよ。
だから、資格というのと違うでしょうが、
ハクをつけるものは、
絶対に必要だったみたいですね。 |
── |
あの、士族の子供と町人の子供、
江戸にはいたわけですよね。
同じ寺子屋に行ってたんですか。 |
石山 |
ん‥‥。これもまだ、
資料的には明らかになっていないんです。
ただ、今回紹介した曲亭馬琴の門人帳には、
教え子たちの名簿の中に
稲垣栄次郎っていう人物がいるんですけど、
これの肩書きが、一橋御家人って
出るんですよ。
おそらく他のものは屋号がついてますから、
これみんな町人なんですよ。
町人の中に武士がいたということは、
一緒に学んでいたと言っても
いいと思いますよ。 |
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▲馬琴が経営する寺子屋の「入門名簿」
寛政9年~文化3年
左はその部分拡大図。
一橋御家人 稲垣栄次郎とある。 |
|
市川 |
僕は、直感的に言えば、
分かれているっていうのは不思議。
むしろ、ごちゃごちゃになってて、
全然問題がなかったと思うんです。
身分制‥‥といっても、
区別のある社会じゃなくて、
職業が世襲される社会のことだから、
子供を区別する理由があったのかは
わからないんですが。
研究者のなかには
士族と町人の寺子屋は別だったと
いう人もいますね。
たしかに武家は伝統的には
家庭教育なんですよ。
だから、武家の寺子屋に相当するような
初等教育機関ってほとんどないんです。
藩校とかできても、それは今だったら
高等学校、大学みたいな。 |
── |
では、教養にあたることは、
武家の子どもは、
おうちで、直接教わってたと。 |
市川 |
親から子に教えるのが
普通のやりかたでしょうね。
武家は知識階級ですから
教えようと思ったら教えられるんです。 |
── |
あ、そうかもしれないですね。だけど、
浪人が師匠をやるように、浪人の子供は、
寺子屋に行ってたかもしれないですよね。
『あじさいの唄』っていう
ビックコミックオリジナルに載ってる
時代ものの漫画が、お父さんが浪人で、
子供の栗ちゃんていうのが
寺子屋に通ってます。 |
市川 |
それもまったく荒唐無稽な設定ではないと
思いますよ。武士身分ていうものがね、
すごく流動的で、ある時は武士的でも、
ある時は武士的じゃないってことが
平気で起きちゃうんですよ。
ある武家の奉公人になってると、
一応その武家の家臣ですから。
ある時は、1日だけ雇われて
武士になったりとかするような人たちが
いっぱいいるわけですよ。
で、浪人ももちろんいるし、
浪人も代々浪人だった人と、
ついこないだ浪人になって、
まだまだ俺は武士になるぞって人も、
いるわけですよね。
浪人にしても、
家禄を相続してるのがほんとの武士だって
言うんだったら、
武士じゃないのかということになる。
けど自分たちは武士だって思ってるはず。
実体としては武士ではないけれども、
自分は武士だと思ってる人はたくさんいる。
そういうことだったと思いますよ。
そうすると、寺子屋にも、
武士的な家の子と、ほんとの武士の子と、
ほんとの町人が一緒にいても、
そんなに違和感がないですよね。
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