ほぼ日刊イトイ新聞の乗組員全員で、
デパ地下へ、お弁当を買いに行く。
そして、そこで、各自が真剣にお弁当を選び、
買って、持ち帰り、語り合う。もちろん、食べる。

それが、ほぼ日刊イトイ新聞の
創刊11周年記念企画です。
なんのこっちゃわからんわい、というあなた。
なんのこっちゃわからんわい、と思って当然です。
だってほら、ふつうに考えれば、これ、
なんのこっちゃよくわからんでしょう。

それほど頻繁にではないものの、
ほぼ日刊イトイ新聞はこういった
冗談なんだかマジなんだか
よくわからないようなことを企画します。

そして、意外に感じる方も多いかもしれませんが、
こういった、一見、真意のわかりづらい企画にも、
「なぜ、そういうことをくわだてるのか」という
狙いやコンセプトは、じつは、しっかりとあるのです。
‥‥いや、ほんとですよ?

さて、今回のお弁当企画。
多くの愉快なイベントの出所がそうであるように、
首謀者は糸井重里その人です。
彼は、いったい、なにを考えて、
「大丸の地下にお弁当を買いに行くぞ!」
などと、言い出したのか?

今回は、初の試みとして、
「タネ明かし」から先にやっちゃおうと思います。
ミステリーでいえば、
真犯人のモノローグからはじめます。
設計図を先にご覧いただきます。
おばけの自己紹介からはじまるおばけ屋敷です。

──これから、どういう狙いで、
  なにが起ころうとしているのか。

それを、ある日のミーティングで、
乗組員全員に向けて、
糸井重里がしゃべりました。

今度、何回かに分けて展開していく
「お弁当を中心にした愉快なお話」のなかで、
最初のこの回が、ある意味、いちばんマジメです。

プロローグとして、あるいは総論として、
ひょっとしたらクライマックスとして、
首謀者、糸井重里の独白に、
どうぞ耳を傾けてみてください。


大丸の地下の弁当売場に行って、
みんなでお弁当を買おう、
という企画について説明します。
この企画は、創刊11周年の記念企画じゃなくても
成立するとも思うんですけど、
このお弁当の企画が
この先の「ほぼ日」のいろんなやり方と
重なってくる部分もあると思いましたので、
あえて創刊11周年記念の企画にしました。

まぁ、言ってみれば、
みんなでお弁当を買うだけですから、
記念のイベントにするには小さいんですが、
その小ささを逆に上手に工夫することによって
お客さんにたのしんでいただいて、
ぼくらなりの、原寸大の力というか、
こういう人たちがこんなふうに集まってることで
いろんなものが成り立ってるということを
表現できたらいいかなと思ってます。

だから、あえて大げさに予告したりしてね、
すばらしい企画をスタートさせると予感させておいて、
はじまってみたら思ったよりくだらないなと、
そういうことでもいいかもしれませんね。
ま、どう着地するかはわかりませんけど、
しっかり取り組みたいと思います。

最初に、あえて、曖昧な話をすると、
この企画は「鏡」のようなものです。

自分がなにを考えているかをわかることによって
向こう側になにがあるかが見えてくるんです。
たとえば、「虫」っていうものが
世界にいないと思って世界を見る人にとっては、
虫は見えてこないわけで、
その世界を見るための目玉さえあれば、
向こう側にもともとあったものが、
きちんと見えてくる。
だから、「自分がなにを考えているか」
ということがわかるというのは
ものすごいことなんです。
そういったことが、この企画をやるときの
軸になる考え方だと思ってます。
‥‥で。
きっかけは簡単でして、ご存じのように
ぼくはしょっちゅう京都に行くんですけど、
東京駅で新幹線に乗る前に、
必ず大丸のお弁当売場に寄っていくんです。
で、ずっと、ぼくはお弁当というものを
それほど信用してなかったんです。
お弁当屋さんのほうもね、
いまにくらべたらそれほど本気じゃなかったと思う。
つまり、買う側のぼくも、売る側のお店も、
「お弁当って、なに?」っていうことを
ほんとうに考えたり問いかけたりしてはいなかった。
「お客さん対お弁当」っていうのを
考えないまま、停滞してきたわけです。

そんなふうな時代がずっと続いていて、
ぼくは「だったら、ずっとこれでいい」という感じで
ずーっと、弁松のお弁当を選んでたんです。
(弁松:創業1850年、江戸日本橋の味を守り続ける、
 日本初の折詰料理専門店)

弁松のお弁当というのは、
長い時間をかけて鍛えられてきたものですから、
食べると、やっぱり満足感があるんですね。
ご飯がすすむような、味の濃い煮しめや、
甘い煮豆なんかが入ってて、
いまの人たちが大好き、
っていう味じゃないと思うんですけど、
あまりぜいたくなものが食べられなかった
江戸時代の人たちの「ごちそう」を集めたお弁当で、
ある種、東京みやげのようなおもしろさも感じられて、
ぼくはお弁当というと、それを食べてたんです。
あとは、まぁ、「32種類の春野菜サラダ」みたいなものを
いっしょに買ったりしてね。

で、あるときのことです。
いつものように大丸の地下の弁当売場に行ったら、
すごく目立つ場所にあるお弁当の値段が
明らかに下がってることに気づいたんですよ。
弁松だと、いちばん質素なお弁当が890円とかで、
そこから1200円、1500円、くらいの感じで
豪華になっていくんですけど、
その場所に積んであるお弁当の値段は
もう、690円とかなんですよ。
パッと見もね、なんていうか、
きちんと詰められている感じじゃなくて、
ご飯の上におかずがいくつも積んであってね、
もう、ふたがちょっとふくらんでるくらいなんです。
ぼくはそのボリュームと値段で軽くショックを受けて、
おいしくなくてもいいからこれを買ってみよう、
くらいの失礼な気持ちでそれを買ったんですけど、
なんとあなた、これが、すごい。
掘っても掘っても食べ物が出てくるんです(笑)。
食べるときに、おかずが多すぎて、
かき氷を食べるときみたいにこぼしちゃいそうなんで
ふたのほうにいったん移したりしてね(笑)。
で、安くて、まずいかって言ったら、とんでもない!
もちろん路線は違いますけども、
弁松と同じくらいに十分な満足感があるんです。

で、思い起こしてみるとね、
その売場の横にもずーっと、そこと同じような、
熱意があふれるようなお弁当売場が並んでたんですよ。
なんか、あっちこっちのお弁当売場ぜんぶに
やる気がむんむんしててね、なんていうのかな、
「時代がここに息づいてるぞ」って気がしたんです。
つまり、生き延びていくためには、
オレたちはここまでやるんです!
というチョウレイを感じるというかね。

‥‥あ、いま「チョウレイ」が伝わりませんでしたね。
「チョウレイ」というのは「朝礼」です。
「おはようございます」というあの「朝礼」です。
「お弁当、気合いを入れていきましょう!」
「今日からC売場で新作が発売されます!」
「昨日の弁当の中のきんぴらですが!」みたいな、
そういう「朝礼」を感じたということです。
伝わりづらかったですか。ああ、そうですか。
ともかく、そういうような、
ひとつひとつの仕事に対する熱情を
ぼくは感じたわけです。
あの、たとえばね、
古典芸能的な、職人の世界なんかだと、
ぼくらは「仕事への熱情」を感じやすいわけです。
紺の洗いざらしの着物を着た職人さんがね、
こう、板の間であぐらをかいて、作業しながら、
「まぁ‥‥まごころだからね‥‥」って言うと
我々は「まごころだなぁ!」って思いやすいんですが、
そういうところばっかり見てたんじゃ
現代のまごころっていうのはわかんないわけで、
職人さんのやってる仕事以外は
粗末な大量生産品かっていうとそんなことはない。

たとえば、ぼくは以前、
弁松のドキュメンタリーも見たんですけど、
すごく小さいところでつくってるんですよ。
あれだけの数のお弁当を
ほんとうにこうやって丁寧につくってるんだって
感心するくらい、ほんとうに手作業で、
里芋をこうやって煮っ転がしてたんですよ。

たぶん、あそこで売ってるほかのお弁当も同じで、
ひいては、昔の職人さんたちが
やってたことと同じだと思うんですね。
どういうふうにすると味がいいんだとか、
どういう形にするんだとか、
いまの季節これが安いからどうだ、とかっていうことを、
プロデュースする人がいて、
ディレクションする人がいて、
試作があって、モニターがあって、
コストと利益の試算があって、
仕入れを改善する人がいて、配送に尽力する人がいて、
ものすごい工夫と熱情がそこに入ってると思うんです。

大丸の地下に集まる人たちっていうのは、
たとえば東京駅からどこかへ出て行く人たちですから、
「この昼食をなにがなんでも安くあげようとする」
みたいな感じではないと思うんですね。
そういう人たちに対して、
「こういうお弁当にするとよろこばれるぞ」
ということを徹底的に考えた人たちがいる。
並んでるひとつひとつのお弁当は、
「いまの人たちをうれしがらせる
 2009年のお弁当とはなにか?」という
問いかけへの答えだともいえると思うんです。
それをここにいるひとりひとりが
身をもって体験してみるっていうのはね、
大げさにいうと、ある種の歴史見学っていうか、
現代の歴史をとらえることに
なるんじゃないかと思うんです。

かつて、「考古学」に対して
「考現学」ということばをつくった人がいて、
それは「いま」を歴史として見て考える、
という学問なわけですけど、
いま、ぼくらがそういう心と目を持って、
2009年の創刊記念日の特集として
あのお弁当売場に入っていったら
わかることがたくさん
あるんじゃないかなと思ったんです。
お弁当っていうものの中に込められた
人々の考えだとか、現代というものだとかを
この日はみんなで探し合っていく。
なおかつモチーフが食べ物ですから、
いまという歴史を学ぶだけじゃなくて、
「自分が食べたいものはなんなのか」っていう、
自分のおおもとの欲望を確認することになります。
つまり、この企画では、
自分のボディーがフル動員される。

だって、お昼に自分が食べるお弁当を買うんですからね、
自分がほんとうに感じたことを行動に移す以外、
やりようがないでしょう。
となりの人が買ったお弁当が点数が高そうだから、
自分もそれにするよ、っていうことは、
お弁当を買うときにはありえないわけで、
動機の部分ではかならず自分が出るはずです。

自分の本能に根ざした興味を
活かしたままでできる企画ですから、
節を曲げる必要はまったくないですし、
目の前にあるお弁当を題材にして、
その中からつくり手の意思を感じ取ったり、
うまく表現できてることを発見したり、
ということができるはずです。

そして、
「オレはできないけど、この人はできてるんだな」とか、
「ここは、もうちょっと工夫したらいいと思うんだけど、
 それは考えなかったのかな、
 それとも仕方なくこうすることにしたのかな」
みたいなことを考えていくっていうのは、
非常にいい勉強になると思います。

ひとつのお弁当から、
つくり手のいろんなことを読み取ることができたら、
同じ見方がで小説を読むこともできますし、
映画を観ることもできるはずです。
これが、批評だとか、考えるということの原点なんです。
この癖が自分の中にすでについてる人と
まだついてない人では、
この企画に取り組むときの負荷が
たぶん、だいぶ違うでしょうね。
食べる前と、食べたあとには、
簡単なレポートを書いてもらいます。
いくつかの設問がありますけど、
あれこれ考える必要はまったくありません。
思った通りに、どんどん思いつくままに書いていけばいい。
ふだん考える癖がついてないと苦しいかもしれませんけど、
自分が食べたいと思って選んだお弁当なはずですから、
たとえば「選んだ理由」というようなことが
答えられないはずがないんです。

ひとつだけ難しい課題があって、なにかというと
「そのお弁当に自分なりのPOPをつくりなさい」
という設問ですね。

「POPを書く」というのは誰でもできるはずだし、
普通売場を任されたらやんなきゃいけないことですけど、
人のつくったものを自分以外の人に
おすすめする側に立ったときにどう言うかというのは、
ほかの設問と違って、「自分のこと」だけじゃできない。
自分がおいしいだの、まずいだの感じたこととは
ちょっと離れて書かなきゃならない。

ですから、おそらく「POPをつくる」ときだけは、
少しだけ、みなさんの足が浮くでしょう。
大袈裟な表現なんかもやりたくなりますし、
かっこいい言い方だとか、
いかにも考えました、みたいなこともやりたくなります。
でも、そういうところも含めて
自分を見るのに、いい素材なんで、
この設問を入れてみました。

ひとつ、ヒントとして言うと、
自分がなぜ選んだかっていうのを、
自分の心をメモリーできる人は、
こういう問題ってわりと簡単にできるんです。
つまり、自分が何を考えたのか、
何を考えているのかっていうのが、
自分でわかる人とわからない人がいるんですよ。
比較的わかるという人でも、
自分がいま何を考えたのかっていうのは
しょっちゅうわかんなくなる。
「POPを書く」なんていうことを突然やると、
自分が何を考えていたかがわかったりするんで、
すごくいい練習になると思います。

いまの時代は、POPに近いものが、
一番広告として有効だというのことはたしかですから、
ここのところがもしも上手にできたら、
自分たちの仕事に大いに役立つと思いますし。
ある日、みんなで、大丸の地下に行って、
お弁当を買ってくる。
そしてそのお弁当についてあれこれ言い合う。
くり返しますけど、それだけで、自分が出ます。
自分がいままで考えたこととか、
やってきたことがそのまま出ると思います。
そしてその発見の向こうには、社会があります。

ひとつひとつのお弁当に
ひとりひとりの個性が出て、
それらぜんぶをコンテンツにしたら、
そこにはぼくらのお弁当への思いはもちろん、
「ほぼ日」への思いも重なって出ると思います。
つまり、鏡に映してるぼくらの姿も、
そこに映りますからね。

だから、たとえば、適当に選んでおいて
「この弁当はダサいです」って言ったんじゃ、
なにも言ってないどころか、
あんたがダサいってことが、ばれちゃうわけです。
そういう「鏡の構造」になってますから、
痛い結果が出たとしたら、自分にも痛い。
送り手として自分が問いかけられているようなことを、
ほかの送り手から受け手としての自分が探し出すっていう
そういう構造になってる。
あるいは、ぼくが常々言っている、
「消費のクリエイティブ」っていうことの実態が、
ここの中に込められてるというふうに、
大袈裟に考えてくださってもいいと思います。
と、まぁ、そういうかたちで、
創刊11周年の「ほぼ日」を映す
ちょうどいいコンテンツが
できるんじゃないかなと思ってます。

これって、ひとりじゃ絶対できないことでね。
40人以上がいっせいにお弁当を買って
いっせいに自分を重ねて、
その結果をつなげるからおもしろいんですよ。
ひとつの大きなコンピュータでテストするより、
ふつうのパソコンを1000台つなげてテストしたほうが
結果がすぐ出るという話を聞いたことがありますけど、
そういうことにも近いんじゃないかな。

こういう、長いミーティングで
身内に向かってぼくがしゃべったことというのは、
ほとんど外に発表したことはないですけど、
今日、言ったことは、
「こういう大きな意図のもとにお弁当を買うんだよ」
ということで、出してもいいと思ってます。
その、学校から配布される教材でいえば、
「お母様がたへ」に当たる部分ですよね。
みなさんも、今日言ったようなことが
根っこにうっすらあるということを感じながら、
当日は、楽しく、右往左往してください。

まずね、ぼくが、
「創刊11周年記念にみんなでご飯を食べるぞー」
って言いますから、
みんなは「わーい」とよろこんでください。
いいですね? で、そのあと、
「じゃあ、1000円ずつ渡すからな!
 1000円分、自由に買っていいぞ」と言いますから、
また「いえーい」とよろこんでください。
で、そのよろこびがおさまらないうちにぼくが、
「いや、待て、11周年のお祝いだから、
 特別に、もう1000円プラス!
 予算は2000円だ!」って言いますから、
もう、これ以上ないくらいに盛り上がってください。
わかりましたか?
そんで、「行くぞー」と言って出かけます。
「どこに行くんですか」とか言いつつ後についていくと、
そこは東京駅、大丸の地下というわけです。
で、「いまから好きなお弁当を買いなさい」ということで
全員がそれぞれにお弁当売場に散りまして、
「さぁ帰るぞ」と言って会社に帰ってくる。
ま、おおむね、そういった構造ですね。

よろしいでしょうか?
よろしいですね?
じゃあ、当日、どうぞよろしくお願いします!

「よろしくお願いしまーす!」
(明日は、大丸東京店地下弁当売場に
 乗組員全員が訪れてお弁当を買った、
 当日の様子をお伝えします!)

2009-06-05-FRI



(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN