大学に入るまでは、
長期休みがはじまると
うれしくてしかたがなかったのだが、
大学に入ってからは
休みに飽きてしまうことがたびたびあった。
はやく、学校へ行きたい。
高校までの自分が聞いたら、
思わず耳を疑ってしまうようなフレーズだ。
一体なぜこんな気持ちになるのだろう?
四年制大学に通っていたわたしには
春休み、夏休み、冬休みが用意されていて、
学生の本分である勉強に追われながらも
その期間は自由に過ごすことができた。
いま思い返すと、
何の制限もない時間の流れのなかで
すきなことを考え
すきなものを食べ
すきなことをして
すきな人に会えるだなんて
ずいぶんと贅沢なごほうびだったとおもう。
それでも、学校へ行きたくてたまらなかった。
キャンパスに点在する
「宇宙」を感じることがすきだったのだ。
大学という場所には
一見そぐわない単語かもしれないが、
わたしの目には確かに映っていた。
周りの価値基準を気にすることなく、
借りもののことばを使うこともない。
まぶしいくらいに純粋な
「自分らしさ」が広がる世界。
会話をしている相手や
偶然すれ違う人々のなかに、
そんな宇宙のようなものが垣間見えると
ものすごくわくわくした気持ちになった。
たとえば、服装ひとつにしても、
その人らしい色を感じることができる。
制服やビジネススーツでは分からない
普段着の生活が見えるような気がする。
はじめましての自己紹介でも、
その人らしい温度を感じることができる。
職業や肩書きだけでは分からない
ほんとうの素顔が見えるような気がする。
キャンパスでは、
誰もが自分自身の世界とつながっているような
そんな気がするのだ。
教室に足を踏み入れれば、
「自分たちが何かを変えられるかもしれない!」と
社会問題を真剣に討論する声が聞こえてきて
学食に行けば、
「あの人とこんな付き合い方がしたい!」と
十人十色の価値観に彩られた
人間関係の話が聞こえてきて
帰りの駅のホームでは、
「どうしてもこれに挑戦したい!」と
アルバイトで必死にお金を貯める理由が聞こえてきて
失敗しても転んでも、
それぞれが立ち続けたい舞台の上で
一生懸命手足を広げて声を出す姿は、
見ていてとてもすがすがしい気持ちになった。
そしてわたしも、自分の心と身体を使いきり、
めいっぱい生きようと刺激を受けるのだ。
こうして振り返ると、
大学時代の4年間はただ単に世間知らずで
恵まれすぎた環境だったのかもしれない。
けれど、就職活動を終え、
少しずつ社会に溶けこむにつれて
「好き嫌い」や「大切にしたいもの」を発信することに
ためらいを覚えるようになったのは確かだ。
それをはっきりと自覚したのは、
このエッセイを書くことが決まったときだった。
恥ずかしながら、
「わたしの好きなもの」というテーマにそって
声を大きくして発信することが
こんなにも勇気のいる作業だとはおもわなかった。
提出期限の直前までうんうんとうなり続け、
頭を抱えこみ、ようやく出来上がったのがこの原稿だ。
気づかぬうちに、正しさや見た目ばかりが気になって、
自分の直感を信じることが怖くなっていた。
大学を卒業してから、この春で2年が経つ。
あのころ、自分のなかに広がっていた宇宙は、
一体どんなものだっただろう。
キャンパスにあふれる活気を思い出し、
当時のまっさらな想いと向きあいながら、
社会とうまく関わり続けるためのバランスを
これからも模索していこうとおもった。