22歳の苦い春
好きなものは、ありますか?
「私の好きなもの」というお題を見た瞬間どきりとした。
大学4年生になったばかりの春を思い出す。
就職活動まっただ中。
実質的な最終選考と言われていた役員面接を前に、
「あなたの好きなものを持ってきて紹介してください」
という課題が出された。
私はとても困った。
採用面接だから、「好きなもの」をネタに自己PRを
しなさいという趣旨だとわかる。
私はその場にふさわしい、「好き」だと言えるものが
思いつかなかった。
場所、映画、作家、食べ物、芸能人。
具体的に尋ねられたらポンポンと出てくるけれど、
漠として「好きなものは何ですか」と聞かれると、
今もとても困る。
好きなものをひとつずつ思い浮かべて、
これは一番ではないな、と捨てていくと、
当時も今も、「書く」ということだけが残る。
それなのにあのとき「書くことが好き」だと言えなかった。
その場に「書くことが好き」だという回答を持って行けば、
私がその仕事を志す理由が嘘になってしまう気がした。
自分は、好きなことと仕事は分けられると思っていたのに、
書くこと以上に好きなことはないと土壇場で囁かれた。
結局「それらしい」ものを持って臨んだ面接のあと、
よい返事は来なかった。
11歳と大人
書くことで繋がる
私と「書く」ことの付き合いは長い。
物心ついたころには本が友達だった私は、物語に没頭する
のと同じく、自分だけの世界をつくることも好きだった。
鉄道の終着駅がある小さな町に住んでいた。
小学校までひとり、40分ぐらいの道のりを歩いて通う。
その時間は自分のつくった世界に遊ぶのにぴったりだった。
そして頭の中の世界を、絵や文字にして書きつけることが
私の大好きなことだった。
小学5年生のとき、新聞の読者コーナーに投書する作文を
書くという授業があった。
私の書いた文章が採用されたこと、掲載された紙面を見て、
家族や親戚が喜んでくれたことはとても嬉しかったけれど、
一番に記憶に残っているのは、
紙面を担当したひとからかかってきた電話だ。
当時塾に通っていたから、夜遅くまで家に帰れないことが
多くて、私とそのひとは何度もすれ違った。
やっと電話が繋がった夜、受話器の向こうのひとは
「ずいぶん遅くまで帰らないから心配でした」
と言った。
そのとき、自分の知らない誰かが、自分の書いたものを
受け取ってくれていることを初めて意識した。
そのひとは、
私を「書き手」として扱ってくれた最初のひとだった。
17歳の進路
好きなことを仕事にするって幸せですか
ずっと書くことが好きだったから、
「大きくなったら書く仕事をすれば?」
と言われることが多かった。
大好きな書くことで生きていくのは楽しそうだと思った。
けれど高校生になると、
「将来の夢」という漠然としたものではなく、
「進路」という現実的な選択と向き合わされる。
私は書くことが好きで、それで生きていければ幸せだ、
と思ったけれど、具体的な職業に落ちてこなかった。
記者は書く仕事だけれど、私が好きなのは「書く」ことで、
ジャーナリズムを志すには信念が足りない気がした。
小説家はもっと現実的じゃなかった。
そのころ、自分とほとんど年の変わらないひとが相次いで
文学賞を取った。
私はひとつの物語も書き上げたことがなかったから、
小説家を目指していますというのはあまりにおこがましい。
それに小説家という才能を見出されるような仕事は、
進路指導という、地に足をつけるためのプロセスには
なじまない気がした。
私は自分と書くことの関係について先延ばしを続けた。
就職活動がはじまっても自分の夢と進路は重ならなかった。
結局、いつまでも私の中で「書く」ことと「仕事」が
結ばることはなかった。
私は、書くことは好きだけど、仕事にしない、という
わかりやすい選択をした。
趣味でも書くことは存分にできた。発表の場もある。
書くほどに、私は書くことが好きだと思う。
でもふと、なぜ私は何よりも好きなはずの「書く」ことに
人生を捧げられないのかとも考えてしまう。
就職活動のとき出会ったアナウンサーのひとが言った、
「アナウンサーになれるならどんな小さな局でもよかった」
という言葉を聞いたとき、それほどの情熱を「書く」ことに
持てない自分に後ろめたさを感じた。
仕事をはじめてからも、私は書くことが好きな気持ちを
自分の人生にどう同居させるか決めあぐねていた。
書くことが好きであるほどに、
書くことで生きていく決断をしなかった自分への言い訳が
必要だった。
常にその引っ掛かりを感じていた私はある日、
好きなことを諦めても幸せに生きられるよ、
と言うひとに出会った。