もくじ
第1回淀川長治さんのお葬式 2016-11-08-Tue
第2回「たくさん映画を観なさい」 2016-11-08-Tue
第3回「友情愛情をぐっとつかんで離さない世界」 2016-11-08-Tue

日本文化と食と寅さんを愛する、87生まれ。サブカルから伝統文化まで、いろんなことを書くお仕事をしています。ロマンチックに生きたい、です。Twitterはここです。

淀川長治さんと父と私。

淀川長治さんと父と私。

担当・羽佐田瑶子

淀川長治さんといえば、「日曜洋画劇場」の
“サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ”というセリフで有名な
映画解説者で、映画への愛情あふれる独特な語り口で、
多くの人に映画のすばらしさを伝えていました。

私の家族は、大がつくほどの映画好き一家。
そんな父と母、私と弟が敬愛する人、
それが淀川長治さんです。

映画だけでなくその人生観も魅力的で、
”豊かな心をもつ楽しみ”を教えてくれた
私もとっても大好きな方です。

実は、このほぼ日の本文に入る前の短い文章、
ここは淀川さんへの敬意を表して「ヨドガワ」とよばれます。
(私も失礼ながら、塾に入ってから知りました・・・!詳しくはこちら

淀川さんが亡くなられて18年。
知らない方も増えてきている今、
ぜひ淀川さんのことを知ってほしいと思い書きました。
敬意と愛をもって、
淀川長治さんのことを皆さんにお伝えできたらと思います。

第1回 淀川長治さんのお葬式

人生ではじめて参列したお葬式が、
淀川長治さんのお葬式でした。
1998年、12月13日。
私は小学校5年生、弟が小学校1年生でした。


私の家族は、大がつくほどの映画好き一家です。
毎週末家族で映画を観て、
2LDKの狭い部屋の壁一面に並べられた本棚には
撮りためられたビデオや映画雑誌が何百冊も並んでいました。
玄関には『大人は判ってくれない』の大きなポスターが飾られ、
父と母の会話のほぼ8割が映画の話でした。
そんな父と母の敬愛する人、
それが淀川長治さんです。

淀川長治さんは、89歳で亡くなられました。
亡くなる直前まで『日曜洋画劇場』の映画解説をされ、
独特の優しい語り口で映画の魅力を教えてくれました。
私と弟もよくマネをしていました。

お葬式の日は、とても寒かったことを覚えています。
いくつものバスや電車を乗り継いで、
「お別れ会」が開かれる青山霊園に向かいました。
真っ黒な服を身につけた大人たちが
ぞろぞろと列をなしていました。
それは、とても綺麗な列でした。

都会とは思えない静けさの中、
柵の中から女性の声がマイクを通して聞こえ始めました。
静まり返った空気の中を引き裂くように透き通るその声を、
私は今でも鮮明に覚えています。
その声は、黒柳徹子さんが弔辞を読まれる声でした。
少し甲高くて、ふるえるような声にほぐされるように、
うつむいて、どこか心あらずだった大人たちが
ぽちっとボタンを押されたように
皆、一斉に泣きはじめました。
父と母も、泣いていました。

何を話されていたかは覚えていませんが、
とにかくその声から感じる
さびしさなのか、怖さなのか、
胸がぎゅっとしめつけられて
涙がこぼれてしまいそうな感覚をからだが覚えています。

中に入ると祭壇には
真っ白なバラが一面に飾られ、
上には、大きな淀川さんの写真が飾られていました。
光のせいか、まるで天国にいるような気持ちになりました。
ああ、素敵な写真だなあ、と思いました。
周りには、私と同じくらいの年の子たちも何人かいて
みんな口をぽかんとあけて、淀川さんの写真をみていました。


1枚、父と母が写真を撮ってくれました。
神妙な面持ちですが、悲しいとかそういう気持ちはあまりなくて、
わからなかったんだと思います。
でもこの先一生忘れない、お葬式になりました。

「淀川さんの映画への愛っていうのは、
作品だけではなく、作り手や役者、
本当に広く、深く注がれていて
それを1人でも多くの人に伝えたいという情熱を持った、
映画の神に遣わされたような人だったから
2人にも、そうした映画愛を持ってほしいと
どこかで願っていて一緒に行ったんだろうね。」と、
父は大人になってから教えてくれました。

目をつむれば今でもあの声を思い出して涙が出てくるほど、
さびしくて、さびしくて、
小さなころのとっても悲しかった思い出です。
でも、あそこに並んでいたすべての大人が、
淀川さんのおかげで数多くの素晴らしい映画と出逢い、
映画に笑い、映画に泣かされ、
映画のおかげで人生が豊かになることを知った
とても幸せな人たちなんだと思います。

(つづきます)

第2回 「たくさん映画を観なさい」