最近、ちょっとした悩みをかかえている。
妻が「お肉」を食べようとしないのだ。
妻はベジタリアンになったわけではない。
魚は食べるし、卵だって食べる。
しかし、最近になって牛・豚・鶏を、
ほとんど口にしようとしなくなった、という話である。
妻が肉を避けはじめたのには理由がある。
食に関するドキュメンタリーを見たのをきっかけに、
彼女なりに何か思うことがあったらしいのだ。
そのあと何度か、食に関する本や映画をすすめられたが、
僕はやんわりと断っている。
そうした映画はいくつも見ていたし、
食を題材にした本だって読んでいる。
世界中にそうした「食問題」があることも知っている。
知っていてなお、
僕はいま肉を食べる選択をしているのだ。
僕の家では妻が料理をつくってくれるため、
彼女が肉を食べないとなると、
日々の献立は自然と野菜や魚が中心になる。
ただ、まったく肉料理が出ないわけではない。
から揚げやひき肉を使った料理も出る。
ただし、それらを食べるのは僕と3歳になる息子だけ。
本人は口をつけることなく、
肉以外のものを進んで食べているのだ。
僕は料理をするのが好きなので、
肉が食べたくなれば自分でつくるという選択肢もある。
でも、それでは根本的な解決にはならない。
ここが今回のポイントでもあって、僕としては
「何が何でも家で肉料理が食べたい」
という理由だけで、
妻の肉断ちを問題視しているわけではないのだ。
僕と妻は「食の趣味」が非常によく似ている。
出会って10年以上になるが、
2人が共有する思い出の多くは
「何かおいしいものをいっしょに食べたとき」
という割合がとても高い。
「ごはんをいっしょに食べる」という行為は、
2人の大切なコミュケーションなのだ。
それだけに妻が「肉を食べていない」と知ったとき、
僕は血の気が引くような感覚になった。
なんてたって、僕は肉料理がとても大好きだからだ。
食べることが好きな僕にとって、
「おいしいものを、おいしいと思える感覚の共有」は、
彼女という存在を「信頼してもいい人間」と判断する
重要な基準のひとつになっている。
こういう話をすると
「食べ物の趣味で人を判断するのはおかしい」
といわれることがある。
でも、こればっかりはしょうがない。
これが自分の正直な気持ちだし、
「食の趣味が合う=信用できる人」という謎の公式は、
なぜだか、僕の中で大きな影響力を持っているのだ。
これが友人同士ならそこまで問題にはならない。
しかし、同じ食卓を共にする夫婦である場合、
こうした些細なズレが価値観の不一致へと発展し、
そのうち「離婚」になる可能性だってないわけではない。
夫婦という特殊で複雑な人間関係だからこそ、
共通していた価値観が崩れたときのショックは
とても大きいのだ。
僕が取った行動はシンプルだった。
2人の関係が手遅れになる前に、
彼女の考えを真っ向から否定し、
まだそれほど定着していない「新しい価値観」を
根こそぎ刈り取ろうとした。
僕は自分の意見を彼女に伝えた。
だいたいこういった内容だったと思う。
・家族で別々のものを食べるのはあり得ない。
・子供の成長に肉は必要だと思う。
・子供の前で親が好き嫌いをするべきでない。
・動物性たんぱく質は必要不可欠だ。
・肉の旨味はおいしい料理に欠かせない。
・肉を食べないとやる気が出ない。
・肉を食べないと食べた気がしない。
・野菜ばかりだと逆に食費が高くなる。
・そんなことしても世界は変わらない。
内容の真偽はともかく、僕は彼女に
「現代社会で肉を避けながら暮らすことは面倒」
と思ってほしかっただけなのだ。
ちょっと冷静になってみれば
「そんな頭ごなしに言っても‥‥」
と思うかもしれないが、
そんなこといまさら言われても困る。
すべては後の祭りというやつだ。
妻はこうした僕の度重なるイヤミにしびれを切らし、
ある日の夕食のとき、
ついに大声が飛び交う夫婦ゲンカになってしまった。
江戸っ子の血を引く彼女は、
僕の意見を聞き入れるどころか
「だったら自分で飯をつくりやがれ! てやんでぃ!」
と、さらに意固地になってしまったのだ。
問題はとてもややこしくなった。
愛する人を理解したい気持ちと、
理解することで自分の好きなものが
失われるかもしれないという気持ち、
その両方が複雑に交じり合っているからだ。
とはいえ、ここまで彼女を怒らせてしまっては、
やはり僕は「家では肉を食べない」
という選択をせざるをえないのだろうか。
人生の墓場とも揶揄される結婚生活は、
やはり不条理に満ちたイバラの道なのだろうか。
哲学者のソクラテスは、後世にこんな名言を残していた。
ともかく結婚せよ。
もし君が良い妻を持てば、幸福になるだろう。
もし君が悪い妻を持てば、哲学者になるだろう。
そうかぁ、だからあなたは哲学者になったのですね‥‥。
僕は何をすればいいかを考えた。
このままでは彼女と平行線だと思った僕は、
まず、彼女がなぜ「肉」を食べようとしなくなったのか、
それをじっくりゆっくり、考えてみようと思った。
彼女が影響を受けたという映画や本を読み、
自分の中にない「別の価値観」を
しっかりと理解して、
それから彼女ともう一度話し合ってみようと思った。
はじめに断っておくと、これは
「食肉問題の是非を問う」といった社会派の記事でも、
「夫婦とは何か」を考えた啓蒙的な記事でもない。
あえていえば、
「違う価値観に直面した男が、そのとき感じたこと」
を正直に綴ったものである。
そのきっかけになったのが、
たまたま肉であり、相手が妻だったというわけだ。
自分と違う価値観をどう認めるのか。
これからの時代に必要なテーマであることは、
僕だけではなく、多くの人が感じていることだと思う。
僕と妻の「肉問題」は、
ものすごく個人的な世界の片隅の話ではあるけれど、
それはアカデミックな現場で語られる
「多様性の尊重」という話よりも、
もっとリアルで身近なものとしての
「違う価値観との向き合い方」を
伝えられるような気がした。
作家でも有名人でもない、
ごくごく普通の一般人の話だからこそ、
ここで表現することに、
なにか意味があるように思えたのだ。
なぜ僕は「妻の肉断ち」を
素直に認めることができないのか?
僕は彼女と直接話し合う前に、
まずは彼女が肉断ち始めるきっかけになった
“あるドキュメンタリー作品”を鑑賞することにした。
そう、すべてはこの1本から始まったのだ。
(つづきます)