実家の家業は、もともと機械の部品や工具を
卸売りする会社を営んでいた。
戦争から戻ってきた祖父が、弟とパン屋を始めたものの
手先が不器用でパンをうまく作ることができず、
パン作りに長けていた弟にお店を譲り、
自分で機械の部品を仕入れて売る仕事を始めたという。
周囲からの支援もあり、次第に軌道にのって、
人を雇い入れ、会社の規模も少しずつ大きくなっていった。
そして、祖父の息子であるぼくの父親が入社し、
10年ほど経って祖父が会長職につき、
父を後継者として社長を譲ることになった。
社長になった父はとても忙しそうで
家に仕事を持ち帰って夜遅くまで机に向かっていた。
ときおり休日に仕事に行く父に
連れて行ってもらった会社の中は
ボルトやナットなどたくさんの部品が箱に入って
うずたかく積まれていて、
金属に囲まれたひんやりとした空気に
気後れしたことを覚えている。
今からちょうど20年前、
ぼくは中学三年生で受験勉強と
ハンドボール部で最後の大会に向けた練習に追われ、
自分のことで精一杯だった。
うだるような暑さが続く夏の早朝、
父が過労によるクモ膜下出血で倒れ、
一週間後に帰らぬ人となった。
あまりにも突然のことだった。
そのときのことは記憶が曖昧で、
断片的にしか思い出せないのだけれど、
父が置いていった北杜夫の小説を
読むともなく目だけで字を追っていて、
ただ時間が過ぎゆくのをじっと待っていた。
大黒柱を失った会社は、祖父が再び社長に戻り、
陣頭指揮をとることになった。
祖母も母も会社の仕事を手伝うようになり、
どうにか経営を維持していたようだけど、
父を喪い、社員も少しずつ辞めていき、
会社は次第に活気を失っていった。
数年が経ち、ぼくが進路を決めた高校三年生の春、
祖父に後を継ぐかと聞かれたとき、
はっきりとノーと答えた。
東京の大学に行き、出版社に入って本を作りたいと宣言した。
それが原因で、地元に止まらせようとする祖父と
文字通り取っ組み合いのけんかをしたこともある。
東京に憧れを抱いていた18歳の少年は、
親の敷いたレールの上を誰が歩くもんかと憤慨し、
鬱屈とした気持ちを解き放ちたいと願っていた。
そして、東京の出版社で編集者として働き、
ことし会社を辞めてフリーランスになったぼくの
そばにあったのは、継ぎたくないと拒み、
母が細々と続けていた家業だった。
別にすがろうと思ったわけじゃない。
肩書きを利用して何かを企んだわけでもない。
でも、自分が歩いてきた道の下に
太くて長いパイプがあることに気づいたのだった。
放り出したままではいられなかった。
長男としてなのか、使命感にかられてなのか、
はたまた地元に貢献したいと思ったのか、
気持ちの整理がついてないけれど、
久しぶりにひとりで岐阜を訪れた。
(つづきます)