生死については、考えてもしょうがないです。 生死については、考えてもしょうがないです。
「老い」と「死」をテーマに、
集中的にコンテンツをつくっていきます。
ひさびさにほぼ日が取り組む本格的な特集です。
簡単ではないテーマですが、
食らいついていくのでおつき合いください。



さて、そのはじまりに
これほどふさわしい人もいないでしょう。
解剖学者の養老孟司さんです。
鎌倉にある養老さんのご自宅を尋ねるとき、
糸井重里はちょっとたのしそうにこう言いました。
「養老さんはそんなに簡単に
死を語ってくれないんじゃないかなぁ」



果たして、そのとおりだったのです。
しかし、だからこそ、おもしろかったのです。
最終的に、養老孟司さんはこう言います。
「生死については、考えてもしょうがないです」
ええええ、そうなんですか。
そんなふうにはじまる「老いと死の特集」は、
いったい‥‥どうなるんだろう?
【第1回】知り合いだった人を解剖するのはいやです。
糸井
こうして養老さんのお宅にうかがうのは
はじめてですけど、
広々していて、周囲の自然になじんでいて、
なんというか、すごいですね‥‥。
これは、けっこう計画的に建てられたんですか。 
写真
養老
いやあ、自分では設計は全然できなくて、
妻が考えてくれたんですよ。
僕は、正確に何坪あるかも
わかっていないくらいです。
糸井
そうなんですか(笑)。
でも、こうして
鎌倉の山中に住むことの良さは、
感じていらっしゃいますか。
養老
ええ。
虫や動物がやってきて、四季の変化が
うるさいくらい感じられるのが気に入っています。
隣は墓地で、ひっそりしていますしね。
写真
糸井
ここまでは、きっと、
観光の方もいらっしゃらないですもんね。
養老
はい。
引っ越してきたばかりの頃は、
この土地に馴染むのが大変な時期もありましたが。
例えば、ものを書くようになってから、
出版社さんから
お歳暮をたくさんいただいたんですが、
それをご近所にどうおすそ分けするのがいいのか‥‥
とか。
糸井
(笑)
養老
そういうことにも、
妻がいろいろと気を回してくれました。
大学でただ解剖学を研究していた頃は、
もらい物は葬儀屋さんからだけだったので、
その意味では楽だったんですけど。
糸井
そうか、解剖学を研究される方は、
葬儀屋さんとやりとりがあるんですね。
養老
大学で働いていた当時は、
どなたかが亡くなったら、
お盆でもお正月でも関係なく、
すぐにご遺体を引き取りにいくような生活を
していたんですよ。
糸井
ご遺体が出たらすぐ、ですか。
そのお仕事って、
そうとう大変だったのでは。
養老
当時はあまりご献体が多くなかったので、
なんとかやっていけた、という感じです。
糸井
ということは、いまは、
以前よりご献体が多いんですか。
養老
大学にご遺体を預けると、
管理がしっかりしているから
お骨がきちんと出るということが、
一般の方にもだんだん知られていったので、
最近は増えているみたいですね。
糸井
ああ、なるほど。
ご遺体がちゃんと返ってくるというのは、
遺族の方にとって重要なことですね。
ご遺族がいないようなご遺体にも、
それぞれいろんな物語があるんでしょうね。
お骨には、故人の「生死」が
凝縮されているような印象を受けますし。
養老
そうですね。
‥‥ただ、実際にご遺体やお骨を見てきて思うのは、
そこにあるのは「死」だけだということです。
「生」はありません。
写真
糸井
なるほど。
養老
毎年、10月には慰霊祭という行事があって、
そのあとに、解剖のため、
ご遺体のご献体をしてくださったお宅に、
お骨を返しに行くんですね。
いくつか同時にお返しすることになるので、
そのとき、お骨を一旦、
この家でお預かりすることもありましたよ。
そこの、そっちの部屋で。
糸井
ああ、そうですか。
この場所は、
生き生きした自然に囲まれている一方で、
お墓に隣り合っていて、
「死」を預かっていた場所でもあるわけですね。
まさしく「生と死」の話をするのに
ぴったりの場所という気がします。
養老
言われてみれば、そうですね。
糸井
自分もだんだん年を取ってくると
「死ぬ」とか「老いる」ということについて
考える分量が増えてきました。
そのとき
「思えば、養老さんは、
長年老いや死を考えてきた方だな」
と気づいて、
あらためてお話を聞きたいと思ったんです。
そういえば「養老」というお名前にも
「老いる」という字が入っていますが、
そのことが「老い」についての考えに
影響していたりもしますか。
養老
いや、それはないですね。
「書きにくい字だなあ」と思うくらいです。
バランスが難しくて(笑)。
糸井
お名前からの影響はない、と(笑)。
ですが、
亡くなった方だけを扱うお仕事を
長年なさってきたということは、
やはり、ほかの人よりも、
老いや死について考える機会は
たくさんあったのでしょうか。
写真
養老
そうですね。
しかも、亡くなった方の多くは
お年寄りでしたから、
必然的に「老い」と「死」を併せて
考えることは多かったと思います。
糸井
養老さんが
解剖学者という職に就いたばかりの頃は、
まだお若かったと思うのですが、
どんなふうに、それらの「老いたご遺体」と
向き合っていたんでしょうか。
養老
やっぱり、自分が若い頃は、
ご遺体に対して、
だいぶ心理的な距離がありましたね。
10年、20年関わっていると
「僕もいずれこうなるんだな」
という実感が湧いてきて、
距離が縮んできました。
糸井
距離があった頃は、一種の
「学問」として老いや死を見ていたわけですね。
養老
たしかに学問的ではありました。
でも、学問って「学び続ける」ものですから、
その意味では、僕は今も勉強中だと言えますね。
糸井
ああ。
養老
勉強中というか「修行中」かな。
解剖学に取り組むことって、
一種の修行だと思うんですよ。
つまり、解剖の際は、
感情を適度にコントロールしないといけないし、
不要な好奇心は抑えないといけない。
相手にしているのは、
亡くなっていても人間ですから、普通は
「どういう人だったんだろう」
というような興味が出てきます。
でも、その興味をあまり
深堀りしないようにするんです。
写真
糸井
生前の故人に興味を持ってしまうことを、
自分に禁じるわけですね。
それは、訓練したんですか。
養老
意識して訓練したというよりは、
ひとりでに興味を抑えられるようになっていった、
という感じですね。
とはいえ、生前に知り合いだった人を
解剖するのは、やっぱりいやです。
知り合いだった人というのは、
亡くなっていても、やっぱり、
こっちの気持ちの中では「死んでいない」んですよ。
僕は、こういった「知人の死」を
「二人称の死」と呼ぶことがあって。
糸井
自分自身の死が「一人称の死」、
親しい人の死が「二人称の死」、
赤の他人の死が「三人称の死」
という、養老さんがたびたび提唱されている
概念ですね。
養老
それです。
やむを得ない事情で、
知り合いのご遺体を解剖したこともありましたが、
「二人称」だと、どうしても落ち着かなかったです。
言ってしまえば、知り合いという感覚が、
解剖学の場面においては
邪魔になってしまうんですよ。
糸井
先ほど、ご自分とご遺体との距離感が
だんだん縮まっていったとおっしゃいましたが、
それも解剖を繰り返した結果というより、
自然にそうなったのでしょうか。
養老
はい、自分も年をとったからだと思います。
(つづきます)
2024-05-08-WED
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