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HAL研究所では、バイトから、
開発担当、開発部長、と進んでいくんですか? |
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ええ。
開発の責任者みたいになって、
なんとなく名刺には課長と書いてあって、
それが開発部長になったみたいなところです。 |
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最初はそういう
「岩田くん」という若者だったんですね。
そんなうちに、
「岩田っていうものがおるんや」と、
任天堂の上層部の知るところにまで
入っていくわけですか。 |
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たとえば昔、
ブラインドタッチでタイピングをする人って、
少なかったんです。
それでわたしが任天堂に
プログラムのしあげでくるじゃないですか。
機械をガーッとたたいていると
「ものすごいスピードでタイプする」
ということが、
まるで見せもののようになるんです。
いろんな人がいれかわりたちかわり
部屋にやってきては
「ほんとだ、はやい」といって帰っていくんです。
そういう時代でした(笑)。 |
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手品のもとみたいに見えていたんでしょうね。
つまり一芸に秀でた人という。 |
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いくつかのソフトを
つづけて作ったのですが、それは
「企画はあったけど
誰も作れなくて困っていた」
みたいなゲームでした。
そこである程度の評判を得ることができたので、
技術的に評価をしてもらえるように
なったんでしょうね。 |
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そのへんはもう、
完全に技術者としての道を、
歩むことになるんですね。 |
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それはまだ監督とかではなくて、
選手として、試合をすることが
おもしろくてしょうがない時代でしょうね。 |
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岩田さんに会ったことがないというときに
噂できいていた印象では
「ゲームを作るためのコンピュータ」
みたいなものを作っている人なのかなぁ、
と思っていました。
技術者としてどんどん進化していくと、
もうひとつ、上位概念のところにいくんですか。 |
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ものを作っていると、毎日の苦労は
「人が苦労するしかない」ということと、
「毎日汗水たらしているけど、
この苦労をしつづけることは
正解なんだろうか。
こんなことは機械がやればいいのに」
ということのふたつにわかれるんですね。
ですから、機械がやればいいことを
自動化する仕組みを作ろうと
はやい時期から思うわけです。
もともとわたしは
単純作業にはすぐに飽きるんです。
ラクをしたいし、
おもしろいことだけをしたいんです。
だから単純なことで
毎日何回もおなじ苦労をするのが、
イヤでしょうがなくて……。 |
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岩田さんは、
それを他人にさせることさえ、
イヤなんですよね? |
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他人にさせるのもすごいイヤです。
こうすればみんながラクになる、
というようなことを考えて実践しますと、
最初はあたらしいことを
おぼえなきゃいけないから
みんな抵抗するわけだけど、
そのうちそれがわかると、
「いやぁ、よかったですよ、あれ」
とかいうことになるわけです。
それはまさに相方が
自分のアウトプットをほめてくれるのと
まったくおなじで、
おもしろくてしょうがなくなるんですね。
『MOTHER2』で
糸井さんと出会うころのわたしにとっては、
ゲーム開発において、機械がやればいいことは
自動化するということがいちばんの課題でした。
「ゲーム開発の効率を大きく向上させるんだ」
ということを、ちょうどやっていたときでした。 |
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そのことが岩田さんのマネジメントの
「方式としての原点」なんじゃないかなと、
ぼくは漠然と考えているんです。
つまり、はやい話が、
お母さんが家事に苦労しているのを見て
洗濯機を考えたとか炊飯器を考えたとかいうのと
おんなじレベルのものですよね。 |
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それはすごい似ています。
毎日自分の身のまわりで
起こっている仕事のなかには、
どう考えてもこれは絶対に
人のするべきことではないと思えることが
いっぱい見つかるんですね。
見つかったら
その仕事を使いやすいようなかたちにはがして、
自動化する仕組みを作りあげて、
「このボタンを押せばこうなるよ」
というようなことにするわけですね。 |
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もしかしたら
「HAL研究所で開発部というのは
わたしひとりだったんです」
というときには、
すでにそういうことが念頭にあったんですか? |
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そういう意識は持っていたんですが、
「人間は人間にしかできないことをしよう」
と明確なメッセージとして打ちだしたのは、
やっぱり自分が社長になったあとなんです。
会社が経営危機になって、
わたしが社長になって
会社を立てなおしますというときも、
開発部門の中でいちばん総合力の高い人、
という程度の信頼はありますから、
べつにみんながいうことを
きいてくれていないわけではないんです。
ただその一方で、
基本的に会社には信用がないんです。
社員から見たら
不信のかたまりじゃないですか。
「会社の指示に従って
仕事をしていた結果がこれか?」
と思ってあたりまえですから。
ですからそのときに一か月ぐらい、
ひたすら、人と話していたんです。
それが面談人生のはじまりですけど。 |
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のちのち何度か話に出てくる面談は、
そのときにはじまったんですか? |
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そのときに、いっぱい発見がありました。
自分は相手の立場に立って
ものを考えているつもりでいたのに、
直接ひとりひとりと話してみると
こんなにいろいろな発見があるのか、
と思いました。
当時はなにが強みで
なにが弱みなのかをわかろうと思って
やったことだったんですね。
それがわからないと、
自分は社長としてものを決められないですから。
最終決定者として、
ものを判断するものさしを作りたくて
やりはじめたことなんでした。
プログラムの判断基準は、
短いとかきれいとかはやいという
ものさしなんですよね。
だけど世の中でいわれている
マネジメントはそんなに単純ではないし、
短期的なもうけを追求することが
かならずしもただしいとはかぎりませんから、
「それじゃ、どうすればいいのか」
ということを、
会社がある種の極限状態に陥った瞬間から
考えはじめるわけです。 |
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社長業からは逃げられないということは
もう前提で、逃げないと決めたんですか? |
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「逃げない」と決めてから
材料集めに入るわけですが、
たぶんその面談のときにわたしは
「判断は、情報を集めて分析して
優先度をつけることだ」
ということがわかったんです。
「そこで出た優先度に従って
ものごとを決めて進めていけばいい」
と思うようになりました。
そうしたらものごとが
だんだんうまくまわりだしますから、
それはきっといろんなことに
適用できる真実なんだろうというふうに、
自信につながっていくんですね。 |
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それ、三十二歳でだよね?
ふりかえってみたら、
すごいことをしてますね……。 |
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いまのわたしには、
あの当時よりも
いろんなことが見えているので、
三十二歳の自分のチャレンジが
いかに困難だったかを、
いまのほうが、もっとよくわかるんですよ。 |
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たいへんだったでしょうねぇ。
「いまだからわかること」
のひとつには、たとえば
「遠まきにしている味方の存在がおおきい」
ということもあったんでしょうね。
若いときには、遠まきにしているものや
帳簿につかない応援が、
あんまり見えないものですから。 |
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はい。
ただ、わたしはそれのもっと前から、
「自分が誰かと仕事をしたら
『次もあいつと仕事がしたい』
といわせよう」
というのがモットーだったんです。
それは自分のなかに常に課していたことの
つもりでいたんです。
だって、もうあいつとはごめんだ、
とは、いわれたくないですからね。 |
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