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ぼくはいっぱいしゃべってきた相手は
たくさんいるんですけど、岩田さんは
たぶんベストテンにかならず入っていて……。
おもしろいのは、
岩田さんはこれだけロジカルに
ものを考える人なんですけど、
説得力のあるデタラメというのを、
ものすごく要求しますよね? |
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ゲームを作っているときもそうですし、
世の中の話をしているときもそう。
それから、真剣に
なにか目の前にある問題について
答えを探っているときもそうでした。
岩田さんと会っているときには、
岩田さんはぼくに対して
「さぁ、ウソでもいいから
なるほどと思えることをいう番ですよ」
とでもいうかのように、
じっと待っているみたいなんです。 |
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だからぼくもなんかいうんですけど、
そのときは
「ただしいかはわからないけど魅力のあること」
をいわざるをえなくなります。
それを伝えると岩田さんは、
いったんそれをまずただしいと決めてから
仮説を組みたてなおして、
その日をすごしていきますよね。 |
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それであとでそれぞれに、
話しあったことを
「あれはちがっていたな」と思う場合もあるし、
「この要素を足せば、
あの話はもっとおもしろくなる」
だとかまた思いなおすことができる。
正解を探すことよりは、
「豊富さ」を選ぶといいますか……
どれだけおもしろいことが
数珠繋ぎで出てくるかという考えを、
まるでくじびきするかのように選びますよね。
それにそもそも、
岩田さんとぼくって、
性格がぜんぜんちがうじゃないですか。 |
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だから、自分にない部分というのが
くっきり見えるわけです。
そうすると会話のなにが変わるのかというと、
自分のキャラクターを
相手にかさねる必要はないんだ、
と安心できるんですね。
変なことをいう人に
「ぼくも変です」と
変なことをいいあって笑うよりは
「それをこの箱に入れるとどうなりますかね」
という会話をしていることに近くなる。 |
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やっぱり、
糸井さんがしゃべってくださるのは、
自分が絶対しない発想や、
自分が絶対に使わない視点なんです。
だから自分が予想もしないような球が
いつも来るんだけど……
でも、ちゃんと、こちらが
受けとめられる球を投げてくれるんですよ。 |
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とれないことは一度もないんです。
だけど受けとったことのない球が来るので、
それがおもしろくてしょうがないんです。 |
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ぼくはぼくで、お客さんが
ひとりだけいる高校生のときの
岩田さんとおなじで、
岩田さんと遊ぶときだから
しゃべれることというのがありまして……
「ぼくはこんなことをおぼえたんですけど」
というと、
おもしろがってくれるじゃないですか。
「自分の側からすると、
それはこういうことですかね」
そんなことでしばらく会話のラリーがつづいて、
それによって最初に投げた球筋が
見えてくるみたいなことができて……
岩田さんもぼくも
もちろん他の人とは
ちがうラリーをしているわけだけど、
このふたりの組みあわせのなかでは、
ぼくの場合はいつも
「使える道具」を探しているような気がします。
「岩田さんに会ってから使えるようになった道具」
みたいなものが、ぼくにはけっこうあるんです。 |
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わたしもたぶん、
糸井さんとのやりとりのなかで
生まれた表現や言葉を、
まるで自分で考えたようにして、
人を説得するのに
使ったりしているような気がします(笑)。 |
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ぼくはコンピュータをやっている人と
会わないわけではないんだけど、
そういう人全般と岩田さんとは
なにがちがうんだろうと想像してみると……
やっぱりさっきもいいましたが、
岩田さんは「ただしい」ということについて
強く意識していないといいますか。 |
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はい、わたしは、ただしいことよりも、
人がよろこんでくれることが好きです。 |
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ですよね!
……あのう、数学でいう
「エレガントな解答」というものと
「人がよろこぶもの」というのは、
多少、ズレがあるんですよね? |
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そうですね。
だけど自分の価値体系のなかには、
「まわりの人がよろこぶ」とか、
「まわりの人がしあわせそうな顔をする」
とかいうことが、すごい上位にあるんですよ。 |
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「そのためなら、
なんだってしちゃうよ!」
というところがあるんです。 |
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うん。
「あなたは
まちがっているかもしれない」と
ただしく指摘してくれる人がいたとしても、
ともだちにはなれない、
みたいなことですよね? |
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それは、その人が受けとったり
共感したりするように
伝えてないですもんね。
まちがっていることがわかっていたら、
その人が受けとって
理解して共感できるように
伝えないと意味がないわけで……。
まぁでも、
ただしいことをいう人が
いっぱいいまして、
それでいっぱい衝突するわけです。
おたがい善意だからタチが悪いんですよね。
だって善意の自分には
後ろめたいことがないんですから。
相手を認めることが
自分の価値基準の否定になる以上、
主張を曲げられなくなるんです。
でもそのとき
「なぜ相手は自分のメッセージを
受けとらないんだろう」という気持ちは、
ただしいことをいう人たちにはないんですね。 |
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「神の意志にそえ!」と
両方がいっているようなもんですよね。 |
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それぞれ別の神様を頭に描いている。
だからただしいことをめぐって
論争しあっている状態って、
ある種の宗教戦争ですよね? |
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はい。
だからじつは
コミュニケーションが成立しているときは、
どちらかが相手の理解と共感を得るために、
どこかでじょうずに
妥協をしているはずなんですよ。 |
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妥協というか、その場合は、
両方が通り抜けられるように
しているんでしょう? |
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岩田さんが
「コミュニケーションが
成立しているとき」
のことをわかったというヒントは、
社長になってひとりずつと会ったときに
「人というのは、わかったつもりでいても
こんなにいろんなことを考えているのか」
と思ったあたりにあるんじゃないですか? |
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そのときに、
そういう理解がずっと深くなりましたね。
それ以前にも
すこしわかっていたような気がします。
そうでなかったら、きっと
面談しようとは思いたたないわけですから。
あのとき面談をできたことには
きっかけがあって、一回会社が倒産すると、
「明日までに
何々を作らないと会社がたいへんだ」
というのがなくなるんです。
つまりある程度、
モラトリアムができるんですよね。
「ほんとうにどうしようもなく
時間に遅れるときは、三十分遅れそうなら、
あと三十分で着きますといわずに、
思いきって二時間遅れますっていうんだよ」
昔に糸井さんに教わって、
それはすごく「なるほどなぁ」と思ったから
今でも忘れないでいるんですけど……。 |
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会社のモラトリアムもそれとおんなじで、
会社がたいへんなときって
「一週間後までに
これをしあげないとたいへん」
という自転車操業状態が
ずっとつづいているんです。
ところが一度頓挫して
まとまった時間をとると……
以前にできなかったことができるんです。
その「できなかったこと」が、
わたしにとっては、みんなとの対話でした。
そうしたらすごいたくさんの発見があって、
じつはこれはものすごい
優先度の高いことだとわかったんです。
だから後でまたいそがしくなっても、
それはずっとやめないできたんですよ。 |
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