搭乗橋も、コンテナも、セスナも、ヘリも。
津波でみんな流された。
空から見た仙台空港の全景。
土屋隆空港長は2013年4月に空港長に着任。
震災当時の方から数えると3番目の空港長にあたります。
(国の機関のため、よく異動があるそうです)
3.11当時は仙台空港に隣接する
管制官などの航空保安職員の研修を行う
「航空保安大学校岩沼研修センター」に勤務。
その後いちど東京に転勤になったあと、
ふたたび仙台に戻ってきて働かれているそうです。
取材当日はまず、仙台空港における
津波の様子をまとめたビデオを見ながら、
当時の状況を教えてくださいました。
「2011年3月11日の14時46分に、最初の地震ですね。
震源地は仙台空港から170キロの場所、
空港の地震計では震度6弱を観測しています。
そして約1時間後の15時56分に津波がやってきて、
2分程度で空港が浸水。
ターミナルビルや庁舎の1階部分が、ほぼ水没」
空港から見た、津波が空港に近づいてくる様子。
「‥‥これが津波の先端ですね。
ゆるやかに見えますけど、実際はけっこうなスピードなんですね。
そして、すごい力がある。
飛行機に乗るときに使う搭乗橋とか、コンテナ車とか、
セスナとか、ヘリとか、みんな流されたんです。
人間が流されたら、やっぱり死んでしまうだろうね。
かろうじてJALとかANAとかの定期便の民航機は
駐機してなかった時間だったんですが、
空港の敷地内の車も、なにもかも、みんな流されました。
もちろん中で亡くなった人もいると思います。
あと家ですよね。家も流されていました」
津波が押し寄せてきたときの、周りの様子。
津波に飲み込まれた建物の様子。
空港ビルは避難場所としても機能した。
そして米軍の「トモダチ作戦」。
「その後の経過は、資料を見ましょうか。
3月11日の夜、空港のターミナルビルにいた方は
近隣住民の方も含めて、1700人。
旅客が697人。近隣住民が382人。空港の関連職員が343人。
近くの養護老人ホームがあるのですが、
そこの車いすの方とか、
付近の住民の方はターミナルビルに避難されたんです。
ただ、空港自体が周りよりじゃっかん低くて、
1階まで水が入ったあと、なかなか引かないんですよ。
だから数日、閉じ込められている状態でした。
空港職員も住民の方も2日ぐらいずっと寝泊まりして、
水が引いてきた段階で皆、滑走路を歩いて脱出しました。
そして避難者全員が退去したのが、3月16日」
空港の復旧作業としては、
具体的にどのようなことが行われたのでしょうか。
「まず、津波によって漂流してきた『瓦礫の撤去』ですね。
米軍の方、海上保安庁の方、自衛隊の方、
民間の工事会社の方、そして空港職員と、
みんなで一丸となって、役割分担をして行いました。
瓦礫の撤去作業の中心となったのは、米軍の方です。
のべ3500名くらいの方が空港ビルに寝泊まりして、
滑走路に流れてきた車の撤去をしてくれました。
わたしも地震から一週間後くらいの時期にここに来たのですが、
体格のいい方たちが大勢、不眠不休で作業してくれていました」
米軍による復旧活動は『トモダチ作戦』という名前でした。
これはその『トモダチ作戦』終了時の写真。
「また、空港機能を取り戻すための
『排水処理』も早急に行われました。
滑走路というのは基本的に水はけがいいものなんですけれど、
今回ばかりは、なかなか水がはけなかったんですね。
だから国土交通省で全国から排水ポンプ車を集めて、
処理をしたんです」
圧倒的なスピードで行われた滑走路の復旧。
3月16日には輸送機の着陸が可能に。
「こちらが滑走路の状況の資料です。
航空局としては
『なにがなんでも、1日も早くオープンしよう』
という方針がありましたから、
地震の2日後、13日には
漂流物の除去作業をはじめています」
地震後の滑走路の様子。大量の車と泥が乗り上げている。
「とにかく滑走路の確保は、最優先課題でした。
緊急物資を運ぶ必要がありますから。
まず、15日には滑走路500メートル分を確保して、
緊急用ヘリコプターの離着陸をできるようにしたんです。
翌16日には1500メートル分を確保、
ここでやっと、燃料や医薬品、食料、水、毛布などの
緊急物資を運ぶC130という米軍の輸送機が
着陸できるようになったんですね。
到着した緊急物資をここでトラックに積み替えて、
各地に運んだわけです。
そして、地震から17日後の3月29日。
滑走路の3000メートルすべてが使用可能になりました。
ただ、飛行機を飛ばすためには
『航空管制業務』を行わなければならないんです。
とはいえそのための機材や設備は
津波でほとんど使えなくなっていましたから、
非常用管制塔や、緊急用の電波を出す機械とか
進入角指示灯、滑走路灯など、
あちこちから機材を集めてきて乗り切ったんです」
奥にある赤い設備が、非常用管制塔。
「そして4月13日、つまり約1ヶ月後に
民間旅客機の運用が再開し、
最初は羽田、大阪からの臨時便がとびました。
まだ、新幹線もまだ通っていないときです」
津波直後のような状態から
民間旅客機が飛べるようになるには、
およそ、どのくらいの時間がかかるものなのでしょうか。
「たぶん、最低半年ぐらいはかかると思いますね。
1ヶ月というのは、いろんなサポートもあって、
本当に大勢の人たちが、不眠不休で作業して、
力を合わせたからできたものです。
当時、管制官は
24時間体制で管制をやってましたね。
山形とか、庄内とか、福島とか周りの空港も24時間化して
全国の職員の増員を図って、対応したんです。
そして、4月15日にターミナルレーダー業務の復旧。
4月27日には商用電源が復旧。
そして7月25日には国内定期便が再開、
9月25日には、旅客ターミナルビルが完全復旧しています。
この迅速な空港機能の回復で
仙台空港は天皇陛下から『人事院総裁賞』をいただいたんです。
これは私の前任者のときですけど、
『それぞれの生活環境も大変なときに、一日も早く復旧し、
国民の期待にそえる大きな功績があった』と。
部署一丸となってがんばった、と」
人事院総裁賞の表彰状。
ひとまず研修生たちが
無事で良かった、とは思いましたね。
震災当時、土屋さん自身は
研修センターにいらっしゃったということなのですが
どのように過ごされていたのでしょうか。
「私がいたのはここですね。
航空保安大学校というところ。
全国の管制官などが、
再訓練のためにやってくる研修センターで
働いていました」
棒の先端が、研修センターの位置。
「地震が起きたときはひどく揺れて、
ものが倒れてくるから、とっさに机の下に隠れました。
小学生のときとか『机に潜れ』とか言いますよね。
それを反射的にやってました。
それから、研修生たちの点呼確認をしなければならないから、
皆でグラウンドに出たんです。
ですがそこで人数を確認している中で、
誰かが『津波が来るぞ!』と騒いだんですね。
それで『あぁ、これは危ない‥‥みんな逃げろ!』
ということで、全員で3階の屋上に逃げました。
掃除のおばさんとか、工事会社の人も一緒です。
屋上にいたら、津波が来るのが本当に見えてきて、
貯水槽の上までのぼった記憶があります。
そして、津波が落ち着いたところで、
2階の事務所に戻りました。
『今日はどうしようかな』とか思っていましたね。
水があって、脱出もできないですから。
当日、仙台空港のほうを見て、
『空港事務所も大変だろうな』と思った記憶があります。
あと、覚えているのは
その日の夜中、研修センターの屋上に出てみたら、
空港のほうで何か爆発してるんですよね。
貨物の倉庫に突っ込んだ自動車が、
火災を起こしたらしいんです。
さらにその先でも何か爆発してるのが見える。
ほんと、この世の終わりみたいな感じがしました。
『ああ、燃えたんだな』と思って。
でも、ひとまずは研修生たちが無事で良かった、
ということは思いました。
そして落ち着かないまま夜を過ごしたんですが、
次の日の朝、朝焼けを見たときに、
なんだかもうすごいことになってるんだな、と思って、
そのときようやく、
『まぁ‥‥命があって良かったな』と思いました」
地震翌日の仙台空港の様子。このときはまだ水没したまま。
「それで2日間ほど閉じ込められました。
食べ物はさいわい、研修生たちが持ってきた
お菓子がたくさんあったんです。
でもトイレは流れないし、部屋が寒くて。
女性はカーテンを身体に巻いて暖を取ったりしてました。
電話はないわ、テレビはないわ、電気はないわで、
東京のこととか、他の地域のこととか、
もう、わかんないわけです。
どこもこんな状態なのかな‥‥と思ったりして。
いた人たちと『この先大丈夫かな』とか、
『寒い』とか『大変だね』とかいう会話はしましたよ。
やっぱり、この世の終わりみたいな感じだったから。
ですが2日後に、消防署の方が
レスキューボートで助けにきてくれました。
ボートで水のない道路まで連れていってもらって、
研修生たちと市内の避難所に移動して、
そこでまた2日くらい寝泊まりしました。
研修生はみんな早く帰りたいのがわかるんだけど、
公共交通機関がぜんぜんなかった。
だから彼らはバスで庄内か山形まで行って、
そこから全国に帰ったんです。
それで、わたしもやっと自宅の宿舎に戻りました。
ただ自宅に戻ったはいいんだけど、何もないんでね。
電気も水道も止まってるし。
とはいえ研修センターの事務所に行くこともできないから、
宿舎の1部屋を仮事務所にして、
そこでみんなで今後の復旧のやり方を話しました。
ただ私自身は単身赴任で、住んでいたのは山側だったし、
事務所が津波の被害を受けたこと以外の
苦労はありませんでした。
住んでいた地域では、人々が普通に生活していましたし。
だけど、岩沼市役所の前に遺体安置所があって、
その前を通るときは、
やっぱり‥‥ちょっと寂しいものがありましたね。
そしてわたしはその後、
その年の4月1日付けで東京の方に転勤になったんです。
空港事務所も研修センターも、
そこからが、かなり大変だったと思うんだけどね」
仙台空港は、これだけ壊滅的被害を受けながらも、
これだけ進展したんだ、とやらないと。
2013年4月に空港長として戻ってこられたときは、
どういったことを感じられたのでしょうか。
「そのとき空港はもう、みんなきれいになっていました。
あたらしい管制塔も出来上がっていた。
だから、当時の思いもあるけど、
これから仙台空港を発展させていかないとな、
という考えを持ちましたね。
今後の仙台空港の大きなトピックとして
『民営化』というものがあるんです。
仙台空港では2015年度、
業務の民間委託をしようとしています。
経営能力など、民間の力を活かして空港自体の利便性を上げ、
どんどん人の集まる空港にしていこうという狙いです。
空港の民営化は宮城県知事の公約でもあるのですが、
民営化を開始した空港は、まだありません。
そして、仙台空港には
『その第1号になるんだ』という思いがあります。
”復興のシンボル” 的なところもあるわけだから
2番目、3番目じゃダメなんです。
仙台空港が、これだけの壊滅的被害を受けたにも関わらず、
『民間の力を活用することで、これだけ進展したんだ』と。
そういうことをやらなきゃいけないね、
それが皆の思いです。
そして、東北地方全体が活性化して、
『震災からこんなに発展したんだ』ということを
やっていかなければいけない。
そうした意味もあって、たとえば今、宮城県が主催で
『仙台空港600万人、5万トン実現サポーター会議』
というのをはじめています。
これまでの仙台空港の最高が、旅客300万人、
貨物2万5,000トンなんですけど、
どちらも、その2倍を目指してがんばっていこうという活動。
どうやって成し遂げるかは、頭を使わなければいけないけれど
確実に、いろんなことができるはずですから」
空港事務所のビルの屋上に
案内していただきました。
最後に「空港ビルの屋上とは違う景色が見えるから」と
空港事務所の屋上に案内してくださいました。
「今、家は周りにもうないでしょ。
家がね、前はあったんです。だけど流れた。
あのへん全部家だったんです。
今はもう、このあたりに人は住んでいないですね。
海側には防風林があったんですが、それも津波で流された。
あそこ、駐車場に車がいっぱいありますよね。
こういうのも、ぜんぶ流れた。
そうそう、わたしの通勤車も流されました。
わたしの車はボロ車だけど、
避難した庁舎の屋上から、自分の車が流れていくのを
ああ、残念だな、と思いながら見てた。当然ね。
水が引いて一週間くらいかな、車を見に行ったら、
もう中が泥だらけで、臭い状況でね。
もうそのとき、エンジンはかからなかった。
となりにベンツもあってね、それもダメになってた。
あと、納車されたその日に津波に遭った、
という人の話も聞きました」
手の方向にあるのが、当時土屋さんがいた研修センター。
「正面に、航空大学校の看板がありますよね。
あの右側の建物が、研修センターのある
航空保安大学校なんです。
わたしは、あそこからこっちを見てたのね。
そこにある『SACT』という文字の建物が、貨物の倉庫。
昔は3階建てだったけど、火災で焼けたんだね。
去年の6月に新しい建物になりました。今は2階建てです。
そこは新しい管制塔。
古い管制塔は地震の後、余震もけっこうある中、
管制官もがんばったと思います。
あの赤い囲っているのあるでしょう? レーダーの下。
あれ、密閉度高くて、水入ってなかったのね。
だからあそこの機材は大丈夫だったんです。
密閉度を高くすると、水は入ってこないんですね」
いまの滑走路の様子。一台、飛行機が飛んでいきました。
いろいろと説明していただいたあと
「寒いでしょうから」と、
屋上から空港長室に戻りました。
何枚か写真を撮らせていただいたあと、
取材の最後、土屋さんは
「仙台空港は元気です。そして、これからです。
それさえ伝えてもらえれば」
と、おっしゃっていました。
‥‥仙台空港のターミナルビルの1階には、
空港の復興についての展示があります。
左の青いラインは津波による浸水の高さを示したもの。
ここまで、水がきました。
かつてのロビー、そして今のロビー。
新しい管制塔も建ち、完全に復旧した今の仙台空港。
現在は2015年度の「民営化」に向けて、前に進んでいます。
2014-03-11-TUE