『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>

以前このコラムで書いた
『カッティヴェリア』
きっかけで実現した
作家・塩野七生さんとの対話です。
新潮社の「波」という雑誌に
1年半ほど前に書いたものですが、
『ぼくは見ておこう』のコラムが
始まりだったこともあり、
その後の起きたこと、
カッティヴェリアと神についての
塩野さんの言葉を
読者の方に紹介したいと思っていました。
『ローマ人の物語』の書評という
スタイルで書いた文章なので
本の紹介が入るなど
いつもと少々スタイルが違いますが
ご容赦ください。



カッティヴェリアと神

それは一本の電話から始まった。
席に戻ると若い女性のスタッフが
おもむろに告げた。
「シオノナナミさんという方から
 電話がありました」
「え、塩野七生さん?」
信じられない思いでメモを受け取り、
高鳴る胸を押さえて
残された番号にかけてみた。
「塩野七生です。いま日本に来ています。
 もし、あなたが
 『最も怖いけど最も逢いたい』と
 今も思っていらっしゃるなら、
 時間をとりますが」
穏やかな声だった。
「喜んで」
私の声は間違いなく裏返っていたはずだ。

ある女性誌で塩野七生特集が組まれた。
以前、コラムで彼女の魅力を
書いていたためか、
私にもインタビューの申し込みがあった。
その中で私は、塩野氏の人の描写に
すごみや怖さをも感じると話し、
彼女がスポーツ誌に寄せた文章に触れた。

彼女の好きなサッカー選手に共通するのは
『カッティヴェリア』という言葉だった。
日本語に訳すと『悪意』ということになるのだが、
『究極の自己中心主義』とも言うべきもので、
『自分のためにプレーしているのだが
 結果はチームのためになる』というものだった。
その言葉は今の日本に
最も大事な要素に思えた。
さらに彼女は
「『カッティヴェリア』を持つ人間、
 つまりある種の悪意を持つ人間こそが、
 神に近づけるという思想が
 ヨーロッパにはある」と締めくくった。

この一節に強く惹かれた私は、
一度お逢いして是非このことを
聞いてみたいとインタビュアーに話した。
そして正直な思いを告白したのだ。
「塩野さんは僕にとって、
 最も怖い人であり、最も逢ってみたい人です」

ホテルのカフェに現れた塩野氏は、
黒い皮のスーツを身にまとい、
茶系のしっかりしたハンドバッグを
小脇に抱えていた。
完璧な出で立ちだった。
様々な話を伺った。サッカー、
日本の政治、男と女、テレビ、
書くことの意味などをめぐって
彼女が紡ぎ出す言葉は、率直でありながら
さりげない品格と奥行きが備わっていた。
作品について話しているとき
彼女はふとこうつぶやいた。
「時々言われるわ。塩野さんのように
 わかりやすく書くのは大変でしょうって。
 とんでもない。
 わかりやすく書こうとしているわけではない。
 学者は『知っていること』を書くけど、
 私は『知りたいこと』を書いているのだと思う」

『ローマ人の物語』を読むことは、
まさに彼女の『知りたいこと』を
一緒に旅することだと私は思う。
確かに彼女の作品群を読めば読むほど、
ローマ帝国という存在が人類史の中で
いかに大いなる輝きを放っているかがわかる。
だが少なくとも私に関して言えば、
ローマ帝国史を読んでいるのではない。
ローマ帝国という人間ドラマの宝庫の中で、
彼女が誰と出会い、何に惹かれ、
どこで立ち止まり、どんなふうに感じるのか、
まさに彼女自身の豊潤な孤独の時間を
追体験しているのだ。

前作の11巻からローマの衰亡期に入った。
新作の12巻ではローマ人が
ローマ人でなくなっていく危機の時代を、
史実を紐解き時に想像力を駆使しながら
塩野氏は丹念に描いていく。
人道的ということならば批判のしようのない
『アントニヌス勅令』が、
ローマ人の本質を一変させ、
財政や司法をも混乱させるまでに至る考察は、
間違った政策選択が
時に自らのアイデンティティーをも
崩壊させうるかを鮮やかに示している。
それはまさに我々が
肝に銘じなければならない教訓でもある。

さらに、目の前の危機に右往左往し
コロコロとリーダーが変わる様は、
どこかの国のありようを
想像させるかもしれない。
「たとえ憎まれようとも
 軽蔑されることだけは
 絶対に避けなければならない」
はずの権力者たちが、
いとも簡単に蔑まれ
次々と殺害されていく姿は、
反面教師のリーダー論として
読むこともできるだろう。

そして私がいつも
密かに楽しみにしているのは
彼女の人物評だ。
新作でも随所にちりばめられているが、
今回特に興味を惹かれたのは
女と男をめぐる二つのエピソードだ。
ひとつは、ローマ帝国の皇帝捕囚という
前代未聞の失態に乗じて、
勢力を拡大した女性ゼノビアを
めぐる描写だ。
「同性としては毎度のことながら
 残念に思うのだが、
 女とは権力を手中にするやいなや、
 越えてはならない一線を
 越えてしまうのである。
 しかもそれを、
 相手の苦境につけ込むやり方で行う」
なかなかぞくぞくする表現ではあるまいか。

もうひとつは、
兵士たちの不満を静めるために
カエサルとアレクサンデルの二人の皇帝が
演説でどう説得したか、
塩野氏が比較して論じている部分だ。
彼女はそこに男の力量とでも言うべきものを
はっきりと見ている。
私が言う塩野氏の『怖さ』はそこにある。
彼女にかかったら、
男たちはどんなに取り繕っても
容赦なく見透かされてしまうのだ。

初めて実現した塩野氏との対話は
二時間に及んだ。
私は聞いてみたかった質問を、
最後にしてみることにした。
「なぜ悪意を持った人間こそが
 神に近づけるという考え方が、
 ヨーロッパにはあるんでしょう?」
「だって、神なんて悪そのものじゃない。
 こんな世の中を作ったんだから」
 そう言って彼女は微笑んだ。

時間を割いてもらったお礼を
述べて立ち上がった。
別れ際、塩野氏は私に言った。
「実際話してみてどう、
 怖くなくなりました?」
彼女は今度はにっこり笑うと、
きびすを返して去っていった。
私がますますしびれたのは、
言うまでもない。

「波」2004年1月号より

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2005-08-31-TUE

TANUKI
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