糸井
このところ、ぼくがよく考えていることのなかに
「主観」ってものがあってさ。
矢野
主観。
糸井
うん。
「私が思った」とか「私が感じた」とか、
そういうこと。
あるものを「おもしろい」と思うにしても、
私が「おもしろい」と思ってるのと
隣の人が「おもしろい」と思ってるのとは、
なにかが違うわけですよね?
そんなふうに、いろんなところで
主観だらけなのが人間なのだと思います。
でも最近、知らないうちに
「みんなはおもしろいと思ってるかな?」
と心配したり、
誰かがおもしろいと言いはじめてから
「おもしろいよね」と、重ねたりする。
主観を出したり、発表したりしては
いけないんじゃないか、というふうに
みんなが生きるようになっちゃった。
矢野
うーん、そうね。
糸井
誰かが誰かをいじめてても、
「やめろよ」とすぐに言うか?
「何か事情があるんだろうな」と思うか?
それとも「何か事情があるのか」と問うてみるのか?
黙ってディレイさせて、
考えをまわりに揃えようとしているうちに、
主観がなくなっていく。
矢野
それはよくないね。
糸井
よくないですよね。でも、なってます。
アッコちゃんはあんまり
日本のテレビを観る機会がないと思うんだけど、
漫画家の蛭子能収さん、知ってる?
矢野
はい、存じております。
糸井
あの人、いま、バラエティ番組に
出たりしてるんだよ。
矢野
そうなの?
糸井
うん。蛭子さんは、
言っちゃいけない場所で
言っちゃいけないことを言う人なんです。
ほんとにのびのびした方で、
番組でごはん食べても
「俺はあんまりおいしくないや」なんて言っちゃう。
蛭子さんのような人を混ぜないと、
もう、テレビは
同じ意見を言う人しかいなくなって、
おもしろくないんです。
自分たちが、生々しい主観を我慢してるうちに、
言えなくなっちゃったんでしょうね。
矢野
へぇえ。
糸井
それは、ぼくにもあてはまるんです。
自分の中に、がまんしていることが山ほどあります。
「主観そのままを出して、
 叩かれたりするのもめんどくさい」
というようなことを、
調節しすぎてるわけですよ。
でも、アッコちゃんは‥‥。
矢野
うん。そうね。
糸井
言葉をていねいに使ってるけど、
ちゃんと主観を述べてて
わりに、のびのびなさってる。
矢野
のびのびですね。
糸井
歌にも、そういう「主観の歌」があると思う。
「これは、みなさんがお好きでしょうから」
ということを、
アッコちゃんはいったん考えから飛ばして歌う。
それで、あとになって
「いかがだったでしょうか?」
というやり方でしょう。
矢野
まぁ、そうだね。
糸井
いま、矢野顕子が求められてるのは、
そのあたりかなと思ってます。
「もうちょっと、
 わかりやすい歌い方ってもんがあるでしょうが」
とか、
「前に、こう歌ったときがすごくよかったのに、
 また変えたでしょう」
とか、言われたりしたっておかしくないでしょう。
ピアノだって、
「なんであんなんなっちゃったんですか?
 興奮してんですか?」
矢野
はははは。でもね、でも、
そのときの自分を
失礼にならないように表す、
ということはつねに思ってますよ。
糸井
「私だって思ってます」(笑)
矢野
聴いているみなさんの立場を
考えてないわけじゃないんです。
だけど、最終的には、
「どうでしょう?」という演奏に
なっちゃってるかもしれない。
糸井
「私は」ということだよね。
そこには強い「私は」があるわけですよ。
そういうものが足りなくなってる時代に、
主観をしっかり鑑賞し合ったり、
味わったりし合う、そういうことが、
アートの役割なんだと思います。
意見よりも、アートのほうが
人の主観を耕す仕事ができるんですね。
矢野
なるほどね。
糸井
ぼくが詞を書くことは、つまり、
ぼくの主観を
アッコちゃんに渡しているわけです。
矢野
そして、イトイの詞が、私の主観を
呼び起こすんですね。
糸井
そう。
「あんたがそう言うんだったら、
 私はこういう曲をつけたいんだけど」
というように、人の何かをかき立てる仕事は
やっぱり、いいものの特徴なんですよ。
矢野
そうね。
糸井
大貫妙子さんは、
自分の主観をかき立てるような
主観の受け渡しを
自分ひとりでやってるんだろうね。
矢野
そうだね。でもそのかわり、
「100パーセント大貫妙子の風景」を
みんなが見られる。
そしてそれが、すばらしいというのが
すごいところです。
糸井
そうだね。
矢野
でも、やっぱりそれはひとりの人の中のこと。
私は、自分で作詞作曲する歌については
「だいたい自分が書きそうなことぐらいわかるなぁ」
というときがあるんですよ。
糸井
うん、自分ではわかるよね。
それって、たぶん、距離に関わることだと思うんだ。
矢野顕子という人を
1メートルの近さで味わいたいときと、
10メートルの距離で味わいたいときは、違う。
離れていたら、通り過ぎられることだってある。
しかし、誰かとの共同作業にした場合には、
ちょっと距離を置いた人のところに
届くことがあるんじゃないかな。
矢野
ああ、それはあるね。
自分が思ってもなかったような曲が
言葉に喚起されて出てくるのと同じように、
誰かと組んでやった仕事は
倍々になっていくことがあります。
糸井
うん。そのあたりがおもしろい。
矢野
でも、それは、
誰とでもできるわけじゃないですよ。
プロとプロの技の組み合わせで、
ほんとうにうまくいった場合は
非常に高度なものができるわけですけどね。
「何が出てくるかわかんないけど、
 でも、いいんじゃない?」
という茫洋とした、強い信頼関係の中から
思ってもみなかったものが出てくるのです。
開けてみて「うわー、でけえー」って、びっくりする。
(つづきます。次回は
 歌は誰のものになる? というお話ですよ)

イラストレーション・ゆーないと

© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN