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さて、この小さな連載の最終回です。
前回は、聖書の奇跡の話は比喩であり、
言葉の発生順でいえば
直喩の前に暗喩があったということを
お伝えしました。
そして、さらに、暗喩の前には
虚喩という概念があったと
吉本さんは付け加えています。
ちょっとむずかしく聞こえるかもしれないけど、
ぜひ、ついてきてくださいね。
吉本さんのおっしゃっている虚喩は、
「たとえになる前の状態」を指すのだと思います。
ですから、それは、
ほんとうは名づけようのないものです。
あきらかに何か、
感情や心や経験や概念のもとがあるのに
何にも比喩されていない状態です。
黒澤明さんの映画『七人の侍』で、
長老が「やるべし」と言う
決断のシーンがあるでしょう。
あの人の「やるべし」というひと言には、
いろんな虚喩が入っています。
喩の根っこにドーンとしたものがあるのがわかるから、
村人が立ち上がり、
あの映画のお話が成り立つんです。
俳優さんは、あのひと言で、
そこを根こそぎ演じたんですね。
昔からドラマでは
職人さんやお父さんたちが
無口に描かれていたりしますが、
あれは虚喩の根もとだけを描いているのです。
ドラマを書く人たちは、
きっとそこを描きたいんでしょうし、
演じる俳優さんたちも、
台本に書かれた台詞をしゃべりながらも、
つまりは虚喩の根の部分をやってるんだと思います。
「美」という字のなりたちはもともと
「羊」と「大」という字らしいです。
美しいという概念はもともとなく、
食べものや着るものになる羊が
「まるまる太って大きい」という
思いだけがありました。
そのときに起こった虚喩の心が、
「美しい」という言葉として記号化していったんです。
ですから、「美しい」という言葉には、
概念のもとにある
満ち足りようとしてる人間の喜びが入っています。
そのうち変化が起こって、
痩せたモデルさんに対しても
「美しい」という表現を使うようになりました。
とんでもなく微妙な比喩のくりかえしが
「美しい」という言葉にはこめられています。
それを、役者さんや歌手や画家や詩人は
フリーズドライを戻すみたいにいっぺんに
再現するわけでしょう。
俳優さんや詩人だけじゃない、
みなさんだってそうでしょう。
しっかりと生きてきた人というのは、
ふだんはどうにかしてごまかして
直喩で生活しているのかもしれないけど、
ひとりで生きてる時間は、そうじゃない。
みんな、ほんとうは
腹の底から湧いて出てくるような何かと
向き合っていたりするはずです。
そこがみんなの芸術なんです。
マルコ伝は、
暗喩や虚喩などのたとえ話がうまく言える人は、
それだけで信仰が篤いと断言しています。
言葉が唯一信じられるものとして扱われている以上、
その言葉をわかってるということは、すなわち
世界を知っているということなんですね。 |
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ああ、こいつはわかっているんだ、わかっているということは言葉がわかってるんだ、言葉がわかっているということは、喩がわかってるんだ、喩がわかってるということはいい信仰を持ってるんだというふうに思ったので、そんなのは治ったも同然だよ、と言ったんだと思います。
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これは、イエスが、
悪鬼に憑かれた子どもについて
パンを与えるたとえで謎謎のように話した際に、
その母親が、床にこぼしたパン屑のたとえ話で
返答したという場面です。
そのときイエスは
おまえのたとえのほうがいい、おまえはもう治った、
と言いました。
母親のたとえのほうがいいということは、つまり
「おまえの言いかたのほうが世界をよく表している」
ということなんです。
「そこまで表してる人は治ります」という比喩をまた
イエスはその母親にプレゼントしたわけです。
ここでもういちど思い出してほしいのですが、
ここで言われている奇跡のたとえは
つまり、暗喩や虚喩のことです。
この「マルコ伝」について1977年に講演している
吉本隆明という人は、その31年後、
「芸術言語論」の講演で
「言葉の根と幹は沈黙である」
というふうに言い表すことになります。
言葉を直喩でうまく表せなくても、
マルコ伝の母親はイエスの答えに対して
暗喩で語ることができたわけです。
これは、その母親の
子どもを救いたいという根っこが語らせたんです。
その根っこさえ見えれば
語れなくてもいい、そこがすごいことなんだ、
ということを
吉本さんはずっと言いたいのだと思います。
語れなくてもいいんです。
上手に表せなくても、
喩がわかる、言葉がわかるということは
あるのです。
このことをちゃんと認めると、
言語のやりとりで
どちらが優れたコミュニケーションができるかとか、
どちらが言葉という魔法の武器を
自由に操れるかという、
狭くどうしようもない諍いに
終止符が打てるんです。
女であれ、男であれ、
子どもであれ、奴隷であれ、
老人であれ、若者であれ、
力を持っていない者であれ、病人であれ、
そこにある沈黙の根っこのところで
見てきたものや感じてきたものが豊かにある人は、
どんな言葉の上手な人にも
匹敵するし、負けない。
それをここで吉本さんが、
「なんとかそっちの側に立って、
負けない場所を作るからね」
と言っているのだとぼくは思います。
昔から宗教では「弱者の側に」と言いますが、
弱者の側にある無限の「宝」について
マルコ伝でも、やっぱりこのように
語られているんですね。
──だけど、「宝」という言いかたは、
ほんとうは適当ではないのかもしれません。
「豊か」とか、「宝」とかいう
価値をつけるような言いかたも、
ほんとうは残念なんですよ。
「宝」じゃなくて、
ただただ言いたいんです、ほんとうは。
そうやって吉本さんはやってきているんですが、
ぼくたちは、どうしても
そこをうまく伝えるために
「宝」などという言葉を使ったり、
何かわかるようなヒントはないかと探したりします。
「ほぼ日」で、吉本隆明プロジェクトとして
いろんなことをやってきましたが、
その仕事のほとんどが、その部分です。
カエサルの言葉を使いながら、なんとか
神の国の言葉について言えないかな、
という仕事です。
さて、さらにここから、喩について、
ぼくなりに考えたことをお伝えして、
この連載のおしまいにしたいと思います。
虚喩や暗喩というものが、
「心」と「たとえられるもの」の関係だとすると、
それは商品にもなります。
ですから、自分がある商品を使うときには、
「これは自分の心の中の、どういう喩なんだろう?」
という考えかたをしてみるといいのです。
例えば、ごちそうを食べているときは、
そのごちそうが自分の心を
変えたり満たしたりしてくれます。
そのごちそうのたとえとは、いったい何だろう?
もしかしたら食べないごちそうというものだって
あるかもしれない。
自分の好きな人たちが
「おいしいね」と言うとき、
自分もうれしい気持ちになる。
それは、ごちそうの喩のひとつです。
感動とか感情とか、
たとえられるべきものはあるのに
喩として表現されていないものがあります。
必要なものを商品やコンテンツとして
作ることのほかに、
すでに「虚喩」として存在しているものを
暗喩にしたり直喩にして、ものを作っていく。
そこのところに、
ぼくらは未来の産業というものを
抱えてるんじゃないのかな、と思います。
これはつくづく詩の読み取りなんだと思います。
現代に起こってるさまざまなことを
喩として読み取ったり、
その喩のもとになる心を感じたり、
またはもういちど喩として生み出したりすることが
肝心です。
「お母さんは肩が凝った、揉んでほしいなぁ」
と言われて、お母さんの肩を揉んであげても
「ああ、ありがとう」
で、おしまいになっちゃうでしょう?
お母さんが肩が凝っていることで表している
虚喩は何なのか。
もしかしたら、
思ってもいないようなプレゼントかもしれない。
何が空白としてそこにあって、
感情として存在しつつあるのかな、ということを
ぼくはぼくなりに、これからも
考えていきたいと思っています。
こういうことが、吉本さんの
マルコ伝の講演や
「芸術言語論」にふれたおかげで
ぼくらの目の前にひらけてくるわけです。
犬の散歩をしながら
ぼくはこの講演を聞いて、
とりあえずこのあたりまで、考えがふくらみます。
でも、きっとまだまだあるんでしょうね。
いま公開できている吉本さんの講演以外にも
あと120講演以上あるんですから、もう、
「吉本さんの前に見えて
立ちふさがっている世界って、
どんだけ?」
と思います。
吉本さんの言葉をメモして覚えるのではなく、
吉本さんの考えの渦に飛び込んで
闇を一緒に旅をするということができると
おもしろいんだよなぁ、と思っています。
このあたりで
「喩としての聖書──マルコ伝」、
ぼくのいまの聞きかた使いかた、
まずはおしまいです。
ありがとうございました。
(おしまい)
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