その壱−−−「蝉の声」
芭蕉の句を待つまでもなく、日本人から愛されて止まない夏の風物詩。
「蝉の声」と聞くだけで、あの幾重にも広がる鳴き声と夏の匂いで、
頭の中があふれてしまう人は少なくないだろう。
それほどまでに力強く、記憶に焼きついてしまう魔性の声。
蝉の声をきくと、私の脳裏にも夏のほろ苦い思い出が甦ってくるのである。
三年前の夏の日、私は代々木上原駅の交差点で信号待ちをしていた。
ボーッとしている私に向かって、いきなり小さな黒い影が突進してきた。
なんだ蝉かと思った時、そいつは私の背中にしっかり止まっていた。
道路の向こうにいた女子高生やOLがのけぞっている。
信じられないことに、その阿呆蝉は私の背中で鳴き始めたのだ。
「ミーンミンミンミン・・」
私の額から冷や汗が滴り落ちた。まずい!みんなが見ている。
平静を装い何とか追い払おうとするのだが、
ポロシャツに爪が食い込んでいるらしくなかなか離れない。
米つきバッタのように上半身を動かすと、やっと飛び立ってくれた。
だが、すでに遅かった。
信号が変わり女子高生がこちらに向かってくる。
私の横を通りすぎると、二人は吹き出した。
「蝉、止まってたよね」。「鳴いてたよ」。
「あの人、木なんじゃない」。「そうかもね、ブワッハッハッ」。
すみません、私は蝉に止まられた男です。
トントン。トントン。
裏木戸を叩く音がする。
「こんにちは、小林先生」
愛弟子の北小岩くんだ。蝉に止まられた男にも、先生と呼び慕ってくる男はいる。
彼は私に顔を近づけると、大きな声で問い掛けてきた。
「先生、臭いおならと臭くないおならがあるのはなぜですか?」
北小岩くんの質問は難解だ。
真剣になると私は関西弁になり、舌鋒が鋭くなる。
- 先生
- 「ええか、北小岩。よく聞けや。
肛門の奥には小さな小屋があってな、
そこに『屁のプレンダーはん』という人がおるんや」
- 弟子
- 「『屁のプレンダーはん』!
どんな人ですか、それは!!」
- 先生
- 「まあ、屁の調合師やな。ここで匂いを調合して、
くさい屁にしたりくさくない屁にしたりしとるんや」
- 弟子
- 「エッ!」
- 先生
- 「それとここ一番笑いをかまさなあかん、てな時にはごっつうでかい音を
屁にいれ込むんやな。だからにぎりっ屁などをする時には、
『プレンダーはん、たのむで』と一言いうのがええ。
そうすれば『よっしゃ』てなことで、
えれえくせえ、いい仕事してくれまっせ」
- 弟子
- 「先生、ありがとうございました」
- 先生
- 「うむ」
弟子との問答とは関係なく、梅雨が明ければまた蝉の季節がやってくる。
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