ITOBO 資源というかゴミの再利用についての エグザンプル。

ぽいぽい おけいの店


私がまだ二十歳そこそこのころだった。友人が、文京区大塚にアパートを借りてい て、当然のようにひまだった私は、ときどきそこに遊びにいっていた。
「ぽいぽい おけいの店」は、友人のアパートから歩いて4〜5分のところにあった と思う。もっと遠かったかもしれないし、近かったのかもしれない。いまになって みると、本当にあったのかどうかすら、疑いたいくらいのかすかな記憶なのだ。 「おけいの店」なら、なんでもない。しかし、そのまえになにげないふりを装って 記された「ぽいぽい」が気にならないものは、人間として最低限持っているべき好 奇心をどこやらへ捨ててしまった、なにか別の生物だ。「ぽいぽい」の4文字以外に 、不思議なものはない。なさすぎるくらいだ。まったくあたりまえの、とりえも愛 想もない一杯飲み屋というやつだ。どこかの肉屋の看板に、「コロッケ1個1380円」 と書いてあっても、それは、ユーモアという犯人の手になるものだから、気にはな らない。
「ぽいぽい」には、ぽいぽいとかく心には、なんにもないのだ。その虚無が、青年 の私にはおそろしかった。
私と友人は、店に入った。正しくは、「ぽいぽい」という虚無の奥へと、ひきずり こまれていった。
店には、数人の先客がいた。とりえも愛想もない一杯飲み屋にいる、とりえも愛想 もない客だ。彼らは、「ぽいぽい」をどう考えていたのだろうか。
カウンターのなかには、とりえと愛想はないけれど一目見ただけで別世界を感じさ せる個性の女がいた。何に似ているかは、すぐに説明できる。「見せ物小屋で、生 きた鶏を食っている女」そのものだ。
『おけい、かもしれない?』私は思った。この女が、おけいだとすると、それはおそ らく、同時に「ぽいぽい」なのである。いや、おけいであって「ぽいぽい」でない という可能性も、ないわけじゃない。いくら考えたところで、わかることなどない 。
友人と、どちらが口火を切るかについて、さんざん小声で争ったあげく、どちらだ ったかがさりげないそぶりで女に尋ねた。「じゃ、あと、おしんこ‥‥。この店、 どうして『ぽいぽい』っていうの?」
女は、答えなかった。あからさまに、質問を無視した。私たちは、聞きなおすこと もできずに、静かに自分たちだけの話をしていた。
ほかの客は、私たちとおけいらしき女の会話を耳にしていたはずなのに、けっして 口をはさんではこなかった。店に、いやな沈黙が流れていた。
女が、じっと私たちの方をみている。怒らせてしまったのだろうか。聞かれて怒る くらいなら、看板に「ぽいぽい」なんて書かなきゃいいのだ。
‥‥「むかし、大塚に、おけいという女がいた」、女が、急にしゃべりだした!さ っきまでとちがった講談調の発声になっている。「女は!‥‥」おいおい、力はいっ てるよお。
「女は、竹を割ったような性格から、『竹割りのおけい』と呼ばれていた‥‥」は ぁ、なるほど。「また! 女は、とても歌が好きで、歌を歌うあいだに、よく『ぽ いっぽいっ』というくせがあった。そんなことから、女は、また、『ぽいぽいのお けい』と呼ばれていた」おおおおおおおおっ!答えは、それかよーっ!
「じゃ、じゃあ、ママ(!)が、その‥‥『ぽいぽいの、おけい?!』」、生きた 鶏を食ってる女の顔をした女に、私は叫んだ。女は、こんどは、顔を講談調にして 、「さぁ‥‥」と言いやがるではないか。
さぁ、じゃねぇだろ!さぁじゃ!私たちのあっけにとられたような表情を、うれし そうに見つめ、女は歌いだした。
「雨がふるかぁら あぁえなぁいのぉ ぽいっ ぽいっ‥‥来ないあなたは やぁ ぼなぁひとぉ ぽぉいぽい‥‥」
「あああっ!やっぱり、ママが『ぽいぽいのおけい』なんだぁ!!」そんなふうに 驚いたふりをする自分を、私は、まだ理解できないままである。
女は、何曲も何曲も歌いつづけた。
たぶん、あの店は、いまはもうない。

1998-06-06-SAT

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