Editor 朝日新聞に掲載された
「赤瀬川原平」さんに
ついての記事...
の取材ノート


ことのてん末は、そのまま原稿のなかに入っているから、
詳しくは書かないけれど、
よく、ぼくはノッてる取材を受けてる時に、1時間以上過ぎた頃
「ところで、これって、どのくらいの分量の記事になるの?」と聞いてしまう。

この、いっぱいしゃべったことが、そのまま掲載されるはずがないと、
知ってはいるのだが、いつも、なんかもったいない気がしてしまう。
ここの時間とか空間を、まるごと伝えられなくては
なんだか別のものになってしまうと、思ったりするわけだ。
深夜のテレビで「イトイ式」という番組をやっていたときは、とにかく
だれたらだれたでいいから、まるごと放送しようよという方針で
けっこう面白くやれたおぼえがある。

よく凶悪犯人が捕まったときに
「そんなひとには見えなかった」というご近所のひとのコメントがのるけれど、
その人だって、もっといろいろしゃべったと思うんだよね。
だから、取材にきてくれた山脇さんを口説いて
「400字じゃ、言いたりないでしょ」と、頼んだわけだ。
ほら、やっぱり面白いよ、このほうが。

 糸井重里さんに取材した。
 私はA新聞の記者である。A新聞には「批評の広場」という、ひとつのテーマを4人の評者に批評してもらう欄がある。
ここで作家・画家である赤瀬川原平さんを特集するのでコメント をいただけないか、とお願いしたのだ。そして私は、快く引き受けていただいたその取材のバーターとして(?)、この原稿を書いている。

 赤瀬川さんといえば、六十年代の前衛芸術家グループ「ネオ・ダダ」「ハイレッド・センター」の一員であり、「模造千円札」を制作したかどで「通貨および証券模造取締法違反」に問 われ執行猶予つきながら有罪判決を受けた人だ。
その後は雑誌内雑誌として母体雑誌を乗っとってしまう恐るべきパロディージャーナリズム「櫻画報」を出したり(例の「アカイ・アカイ・アサヒ」)、尾辻克彦の名で小説・エッセーを書いたり。宮武外骨になったり、超芸術トマソンや、映画「利休」なんかの脚本、カメラの「ライカ同盟」や油絵の活動もある。
最近では、「新解さんの謎」で「新明解国語辞典」の面白 さを広めた人、もっと最近では「老人力」ということばを広めている人、ということでも有名だ。
 ことほどさように、ひとことで言い表すのが大変むずかしい人なのである。
ずいぶんはしょっているけど、原稿用紙1枚分を費やした。
マイナーポエットにも似た、知る人ぞ知るといった魅力の持ち主赤瀬川さんが、どうも今年あたり大ブレイクしそうな気配がある。
これは、ものごとの「本流」に対しいつもパロディー精神を失わない赤瀬川さんにとってどういう意味をもつんだろうか。そんな思いから、赤瀬川原平の「謎」に、4人の評者のてんでばらばらの「批評」を通し迫ってみようと考えた。

 評者1は哲学者の鶴見俊輔さんにお願いした。
 鶴見さんが「最近一番おもしろいのは老人力だ」と雑談のなかで話していた、と知人の編集者から聞いたことがきっかけだった。鶴見さんは京都に住んでいて電話に出ないことで知られている。手紙を書き、速達で出した。折り返し「OK」のFAXをいただいた。

 鶴見さんは五枚のカードにメモを作って待っていてくださった。「京大カード」というやつである。
時折インタビュイーのほうがインタビュアーより綿密なノートを作っていることがあ る。これは緊張する。
ちょっと脱線するが、前に作家でパンク歌手の町田康さんが「亭主三杯、客一杯」と書いていた。もてなしの心得についてのことだが、それくらいしゃべってでも言葉を引き出せ、と何も努力しないインタビュアーに怒っているのである。
 鶴見さんの三倍の内容をしゃべって見せることは不可能である。
それでも鶴見さんは朗らかに「赤瀬川論」を話してくださった。いわく「 赤瀬川原平」は時代に押し負けていない。赤瀬川自身がトマソンである・・・。
脱線につぐ脱線がものすごくおもしろい。
たとえば。老人力といえば、負け惜しみである。負け惜しみといえば、谷川雁ほど見事な負け惜しみの男はいないよ、彼はね。鶴見邸を辞したのは午後六時近かった。四百字分のインタビューなのに。

 評者2は文芸春秋社員の鈴木マキコさん。「新解さんの謎」の読者は「SM嬢」としてご存じかもしれない。
月刊文芸春秋で「新解さん」の元になる原稿を企画、依頼した人でリトル・モアから続編「新解さんの読み方」を出したばかり。だいたい赤瀬川さんは、エッセーに身近な人々を登場させることが多い。「南伸某」「泊まりぐせのある筑摩書房のM田君」とかいう ふうに。「SM嬢」もそんな赤瀬川ワールドの住人だ。

 鈴木さんは熱烈だった。熱烈さは赤瀬川さんの呼び方にも現れている。以前は「文豪」と呼んでいたが、それでは尊敬の念が足りない気がして今は「神様」。赤瀬川さんから電話があると、「あ、神様ですね」と言うのだそうだ。赤瀬川さんも「あ、神ですよ」と平然と返すらしい。なんかこのへんも「超芸術」ぽいのである。
ちなみに鈴木さんの高校時代の先生は、かの宮武外骨の子孫らしい。

 評者3は椹木野衣さんにお願いした。新進気鋭の美術評論家で、著書「日本・現代・美術」が出たばかりである。
そのなかで赤瀬川 原平について、もっとも多い紙数を割いている。
 一九六二年生まれ。八年前に出した初めての本では、あえて歴史を無視するスタンスでのぞんだこともあって、赤瀬川さんに批判的だった。それが今度の本では肯定する評価に変わった。芸術をつきつめ、突き破ってしまって既成の芸術の枠にもたれず今を生きる赤瀬川さんの航跡を評価する、というのだ。

 新聞の場合、ゲラを取材者に見せることは原則としてしていない。ゲラを見て、自分の都合のいいように記事を書き直さない人はまれだからだ。それに、新聞記者の主観の入った部分を事前にチェックしてもらうようなことをしては、取材者に批判的な記事など出せなくなってしまう。

 ただ、今回のような聞き書き記事の場合は原稿を作った段階で見せることも多い。椹木さんとは何度かファクスのやりとりをした。まずこちらが書いて送って、椹木さんから全面書き直 しが送られてきて。それをもとに、またこちらがA案とB案を作って送った。A案は椹木案に近く、B案はこちらの案に近い。
相談してB案 のほうがいいからと選んだ。

 評者4がコピーライターの糸井重里さんである。昨年度まで夕刊で雑誌批評をお願いしていた。同僚に連絡先を聞いて電話をする。「OK」をいただくと、引っ越したばかりの新事務所の簡単な地図がファクスで送られてきた。

 赤瀬川さんには「純文学の素」という十六年前に出版されたすばらしいエッセー集がある。これは「自宅に深く潜行するルポ」というやつで、だれひとりまねできない、深い深いルポなのである。
 この深い深いルポに糸井さんは時折登場している。「オリンパスXA」のカメラをくれたり、芥川賞受賞式をやじ馬として見にきていたり、川崎のコンビナートで宴会してたりする。本の 糸井さんは、お友達の中でもちょっと毛色の違う印象がある。それで、「生活者としての赤瀬川さん」「文学者としての赤瀬川さん」についてうかがえればと思い、お願いしたのだ。

 タニシかカワニナ、と糸井さんは言った。
そう言う前に、生物としての生存戦略がある、とも言った。なんだか具体的なようで抽象的な話なのだが、ついつい深くうなずいてしまう雰囲 気をもつ話なのである。
タニシかカワニナ。ほんとにそんな感じがしてくる。私は会ったことはないけど。

 あえて批判すれば、という前置きのもとに、「生きててナンボ」という話も出た。評価される、ということをあまり大切に考えていないので、もしかしたら後生に残らないかもしれない。 そしてそれは、おそらく彼ののぞむところなのだろう。

 糸井さんは話はじめて30分ぐらいたったところで「ねえ、この記事って分量どれくらい?」とたずねた。「400字です」「それだといっぱい書けない話が出てくるよね。その原稿を書きませんか」。それ以後は「ほぼ日刊イトイ新聞」の話題に移っていったのだった。

 でも。翌日の記事審査レポート(毎日の新聞について社内でレポートが出る)でこの赤瀬川さんについての記事はほめられた。実はそのなかで一番ほめられたのが、「生きててナンボ」の糸井さんのコメントだった。

1998-06-06-SAT

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