そこに「いっしょにいる」(5月12日)
・今年になってではなく、去年、一昨年‥‥。
なんだか、いつごろからか、
お墓の話をするようになっていました。
この『今日のダーリン』にも何度も書きました。
「縁起でもない」と避けられるような話だったけれど、
なんだか、そのことを、
落ち着いて考えたくなっていたのでした。
生きている日々の、目盛りのように、
お墓のことを考えたり話したりしていたんですよね。
いまも、どうやらそうみたいです。
お墓のこと、じぶんが死んでからのこと、
これまでに亡くなった人びとのこと、
思わないようにしているよりも、思おうと思って‥‥。
お墓は怖いところだとか、お化けが出るとか、
子どものころに勝手に感じてきたような記憶が、
考えてみたら、ぬぐい去られないままで、
ずっと残っていたんですね、こういう年齢になっても。
お墓が怖いとすれば、お墓以外の場所が怖いように怖い。
死んだ人が怖いといっても、
生きている人も、じゅうぶん怖いでしょう。
そして、たいていの人は、
生きてても死んでてもそれほど怖くなんかない。
水木しげるさんが妖怪を語るときもそうだけれど、
そこに「いっしょにいる」ものとして語られるほうが、
亡くなった人にとっても、この世の人にとっても、
いいんじゃないかと思うのです。
数えたわけではないのですが、
映画や小説のなかに、亡くなった人が登場して、
重要な役割をするものがとても多いように思うんです。
しかも、生きている人を助けるような役割で。
そういう世界を描きたくなるようななにかが、
ずっと、いまの時代には広がっていたんでしょうかね。
ひとりの人間には必ず、父と母がいて、
その父と母には、また必ず父と母がいたはずで、
そのまた父と母には‥‥と数えていくと、
死者たちの人口って、ずいぶん多いんですよね。
それがなにを意味するのか、よくわかりませんが、
ま、ある日、そんなことを考えたりしています。
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
しょうがシロップ、ついに発表。ロケットも追いかけます。 |