糸井 |
ぼくが3日間に電波少年的放送局にいて
あの監禁部屋に持ちこんだモノって何かというと、
「あそこで留守番している人たちを
競争社会にしてしまった」
ということだと思うんです。
土屋さんたちが無理な注文をする、
ある程度の制約をつける、という中で、
誰でもが本気で悩まなければいけないところが
映像になって写ると番組として成り立ちますよね。
どんなつまらないやつを置いても成り立つ仕組みを
土屋さんは、作った。 |
土屋 |
うん。 |
糸井 |
その土台があるところに、
「それよりも、つまらなくない方法を
考えるヤツのほうが、ちょっとおもしろい」
という、ほんのちょっとした差を
持ちこむべきなんじゃないか、というのが、
ぼくの根っこにあった考えなんです。
典型的なのが食いものに関することだと思ったんです。
ぼくが食い物に不自由するというおもしろさは、
「ある程度、食いものには不自由していない、
若手でも何でもないヤツでも、こんなに
食いものに関しては考えるんだ?」
ということで番組としては成り立ちますよね? |
土屋 |
うん。ありえますね。 |
糸井 |
そっちの流れで引き受ける方法も、
あったと思うんです。
でも、それでは、ぼくが出てこないと思いました。 |
土屋 |
ぼくもそこには、正直
こだわりはなかったんですよ。 |
糸井 |
土屋さんも
「そこは、オッケーです」
と許してくれたもんね。
食いもので悩まない時のほうが、
ぼくにとっては、テレビの前にいる時の
悩みは、深いんです。 |
土屋 |
そうですよね。 |
糸井 |
ポルノで言ったら、
挿入はなしだよ、言われたところから
はじめるからこそ、表情の工夫が要るし、
ということになってくるわけですよね。
オトナのおもちゃを入れてみたり、
朗読を入れてみたりというか。
そこで勝負をするほうが、
あのメディアを見ている人に対して、
人間の持っている可能性の幅を
たくさん表現できるだろうなぁと思ったんです。
だから、ぼくはあの部屋の中で、
テレビとほぼ日刊イトイ新聞を一緒に使って
できることは、正直に言ってここまでだよ、
というところまではやろうと考えたんです。
ただ、それをやってしまうと、
捨て身でやれる範囲の狭い人とぼくとの間に
ものすごく差がついちゃって、
ぼくは、卑怯な人間になるんですね。
だけど、もともと、人に何かを伝えて
こっちを向いてくださいと言うことは、
歩行者天国でライブをしてることと同じだから、
やっぱり、いい曲をたくさん持っている
バンドのところにお客がたくさんいくからこそ、
競争が起こって、
「オレも、必殺の一曲をつくりたい」
とか思わせるわけじゃないですか。
そこのソフトの質の競争こそが、
おもしろいものを生むのであって、
テレビって、実はそれを
ものすごく繰り返してきたからこそ
こんなにものすごいものになってきた。 |
土屋 |
うん。 |
糸井 |
電波少年というコンセプトのおかげで、
努力しなくても、チンチンを出して
挿入しちゃえば、誰でも一回目をひきつけるよ、
という方法を土屋さんが発明しちゃったおかげで
あの放送局が、その路線の
お客さんだけになっちゃった。
ぼくは、その層に向けて、よくも悪くも
刺激をしちゃったんだろうなぁと思います。
あそこにものすごくたくさん持ちこんだ
食料を、土屋さんがどうするのかについても
ちょっと、考えたんですよ。
結局、引き上げたんですよね。 |
土屋 |
そうです。 |
糸井 |
そうじゃないと、次の方策を練るまでの時間が
間にあわない、ということですよね? |
土屋 |
人はそれぞれなんですが、
実際のラインナップの中には、
何もツールを持たない人間もいるんですね。
そうすると、やはり、ツールを与えてやらないと、
難しいだろうなぁというか。
ツールを他で持っている人間には、
制約は何も必要がない、ということでしょうねぇ。 |
糸井 |
たぶん、テレビっていうものが
ツールを持たない人間でもここまで成り立つ、
ということをどんどん証明しちゃって、
松本人志さんが、ある瞬間だけではあるけど
「山田花子に負ける瞬間というのもある」
ということにすごく注目している。
あれが、テレビというものの
総合力のすごさだと思います。
電波少年は、無数の山田花子を輩出できる
仕組みを作っちゃったおかげで、
今までテレビの持っていたさまざまな
表現の歴史に対して、
「チンコ一本でここまでお客さん来るよ」
とやっちゃった。
だから、そこで固定しかかったんじゃないか。
ツールを持たない人間じゃ、ダメなんだ、
というようにしたほうが、
もしかしたら、おもしろいかもしれない。 |
土屋 |
改めてぼくはそれにすごく気づいたというか、
やっぱり、あの放送局のスタートを
室井滋にこだわったということがあって。 |
糸井 |
そうですね。
土屋さん、実はすでに
どこかでは気づいていて、中心には
ツールを持った人を据えていたんですね。 |
土屋 |
ええ。
猿岩石以来の方法で、
24時間かける7日の1週間のあいだ
撮りつづけたものを、6分にまとめて
日曜の電波少年で流すのなら、できるんです。
でも、24時間流されているということを前提に
例えばぼく自身も仕事の合間に見る、となると、
「これが、放送されてるのかよ?」
「そうじゃなくて、ああやってよ!」
とか、言いたくなっちゃうわけです。
そうすると、もう一回、
あの部屋に入っている人が
それぞれに持っているチカラみたいなものは、
よくわかってきます。
テレビの中でもちょっと遅れた人たちは、今、
「テレビっていうのはタレントの時代じゃなくて
今や演出の時代だ」って言っているんだけど、
「いや、違う違う、今こそタレントの時代だよ」
って、ぼくはものすごく思いますね。 |
糸井 |
重心がしょっちゅう揺れ動いてるけど、
主たる軸足がタレント側っていうか、
人間側にあるっていうことですよね。 |
土屋 |
ええ。 |
糸井 |
だから、大道芸の経験を散々積んでいる人たちが
おなじ2時間を持たされたら、
絶対にテレビのタレントさんよりも強いなとか、
だけど、テレビのタレントさんの持っている
付加価値というのは、2時間のあいだ
そこにいるだけで持たせちゃうというか。
例えば、山崎邦正が椅子にすわって
ずっと陰鬱な顔をしていても、
大道芸に勝つ可能性があるというあたりが、
さっきの「テレビという3文字」に
似た「すごさ」になるんじゃないでしょうか。 |
土屋 |
うん。
どっかで衣を着せちゃうところがありますよね。
ぼくなんかも、最近ちょこちょこ出ているおかげで、
歩いていても、「あ!」って言われる。
次に言われる言葉は、
「テレビに出ている人ですよね?」
となるじゃないですか。
いや、作っている人だよ、なんですけど、
その「テレビに出ている人」という意味の中での
テレビっていうものは、独特ですよね。
山崎邦正という人をぼくは知っているから
敢えて言うと、24時間撮って6分で成立させる
テレビの作り方の中にある人です。 |
糸井 |
そうですね、「6分」の人ですよね。 |
土屋 |
そういうことを日々やっているから、
例えば24時間の中で2時間座り続けていても、
「もしかしたら、これで
雰囲気が持っているんじゃないか」
という幻想が見えてしまうかもしれないですよね。 |
糸井 |
そうですね
|