糸井 |
いま、設計図のない商品づくり、
っていう話をしていたから、ついでに言うと……。
このあいだ、
宮大工の小川三夫さんという人と
対談をしたんですよ。
その時の話が、ビューティフルで。
法隆寺の五重の塔に衝撃を受けて
宮大工になった、っていう人なんですけど、
法隆寺の五重の塔を作る時には、
設計図という概念が、なかったんですよ。
「ざっくりと、こういうもの」だった。 |
土屋 |
へぇ〜。 |
糸井 |
なぜ設計図がないかというと、
木の性質がぜんぶ違うので、
そのとおりの寸法で刻んでもできないんですよ。
だから、
「できあがったものは、こうなるだろうなぁ!」
という、漠然とはしているけれども
作るぞという強い意志の伴った気持ちが、
作り手の間に、浸透している。
で、作りながら、こことここのやり方は違うとか、
この木とこの木の組み方は違う、ということを
臨機応変にやりながら、
あの高さの五重の塔を、奈良時代に作ったんですよ。 |
土屋 |
おぉ……。 |
糸井 |
もっと言うと、
法隆寺ができた時って、
奈良という都を作った頃なので、
60年であの都の主たる建造物を
ぜんぶ作っちゃったんです。
ものすごいですよ。
60年って、ひとひとりの一生ぶんですよね。
その期間に、奈良の都の建造物を、
材料の調達から含めてぜんぶやった。
そこに設計図があって都市計画があって、という
今のやり方をやっていては、できないんだけど。 |
土屋 |
せいぜい、あのへんに、こうあって、
というものだったわけでしょ? |
糸井 |
うん。
……こんな話になって、
どう展開していくかわからないけど、
平らな板っていうのをカンナで削ることを
技をして名人がやると、真っ平らな板を作れる。
ところが、ほんとうに真っ平らなものを作ると、
真ん中がへこんで見えるらしいんです。
人の目に平らに見えるように映るのは、
すこしふくらんだ面なんだそうです。
それを、カンナで作るそうなんですね。
そういったことをコンセプトとして
理解しあっている人どうしじゃないと、
馬鹿は真っ平らなものを作っちゃうんですね。
でも、親方はふくらますものを作るはずで。
それでエンタシスというふくらんだ柱が、
「まっすぐ」を表現するために作られた。
ああやって、ある種の目分量で作られている。
しかも、裏側を見ると、
やりかけのものとかがガンガンあるそうなんです。
法隆寺の内側を見ると、
「え?こんな雑でいいんですか?」
というようなものが、ナマのまま残っている。 |
土屋 |
へぇー。 |
糸井 |
そうしないと、あの期間では
とても作れなかったそうなんです。
その作り方をされたものがああいう塔になって、
それが千何百年残って……。
それを聞いて、
「ほぼ日のやり方は、それをしよう」
って思ったんです。
つまり、現代人が徹底的に設計図を作ってやったら
どうなるのか、ということはもちろん知っていて、
それでなおかつ、いちばん納得できる
唯一無二のすばらしいものを作ろうとなったら、
その法隆寺の宮大工のやり方だろうなぁ、
と考えました。
小川さんのおっしゃったことで
ものすごく印象に残った言葉があるんだけど……。
「法隆寺を作った大工たちは、まさか
千何百年も経ったあとの人たちが、
この建物を見るなんていうことは
想像もしなかっただろう」
せいぜい、次の世代の人が見るぐらいのことしか
考えていなかったものが、
ほんとうに幸運にも生きちゃった。
「これだけ長く残すだけの技術が、
奈良時代に、既にあったんですねぇ」
って、今の人が感心しているのは、
ぜんぶデタラメだ、と小川さんは言うんですね。
そんなことを考えている人は、
ひとりもいなかったというか。
テレビでの職人さんたちの仕事の中にも、
ひょっとしたら、残そうと意識していなかったのに、
千何百年生きちゃうものが、あるのかもしれない、
とぼくは思うんです。
「何の意識もしていないのに残るものがある」
ということにも、可能性やカギを感じるんです。 |
土屋 |
なるほどねぇ。 |
糸井 |
……で、話がとてもまわり道になったけど、
「流しっぱなしでノーカットの放送」
っていうのは、たとえるなら、
素人でも50階だての建物が作れるよ、
ということだと思うんです。
暮らすことはできないけれども
50階だての建物ができれば、
みんなが拍手をくれるという
コンセプチュアル・アートになるというか。
やはりそこはウォーホールの流れで、
「誰でも、3分間は有名になれる」
という言葉に象徴されるものが、
根っこになっていますよね。 |
土屋 |
うん。 |
糸井 |
ところが、ウォーホール自体の欲望としては、
「ぼくはリーバイスのジーンズを作りたかった」
という言葉が今でも残っているわけで……。
誰でも3分間は有名になれるというのの逆に、
誰でもが欲しがるものを作りたいという考えがある。
その両方があって、ウォーホールなんですよね。
ぼくも若い頃には、
「誰でも3分間は有名になれる」
というほうにものすごく興味がありました。
コンセプトひとつで動くことのすごさというか、
「コンセプトって、バケモノだなぁ」と思っていた。
だけど、俺もリーバイスをやりたいんです。
作った人がいくら忘れられても、
ジーンズが残っているというのは
「究極の好色ジジイの夢」ですよね。
ずっと残る子種をまきまくる、というか。
それを、やりたいなぁとなった時に、
「じゃあ、中間にどういうものがあるだろう?
その中で、運のいいものが
五重の塔なりリーバイスなり、
中間的にはカローラなりができるんじゃないか」
と、そうなったほうが愉快なんですよね。 |
土屋 |
うん。 |
糸井 |
何が愉快かというと、
人の喜ぶ顔が見えるからなんです。
研究するよろこびも、発見するよろこびもあるけど、
「イトイさん、あれ、よかったよぉ……」
と言ってくれることの励みを、
ぼくは「ほぼ日」をはじめたことで
知ってしまったから、
「もっとよろこばせるよ!」っていう。
自分の欲望の外側に、
巨大な欲望ができあがっちゃったんですよ。
人にそれを美しいと言われると困るんですけどね。
自分の心からの欲望が、
みんなの欲望に重なっちゃっただけで。 |
土屋 |
「よかったぁ」ってことですね。
そうなるとですね、もっと話してみると、
「もっとたくさんの人に、よかったと言われたい」
なのか、
「すでによろこんでもらった人に、
もっとよかった!と言われたい」
なのか、というのがありませんか? |
糸井 |
そうなんですよね。 |