特別WEB掲載東京工業大学柳瀬博一教授の
メディア論B
メディアメーカー、
岩田聡さんについて
参考テキスト:『岩田さん』

任天堂の元社長としてゲーム人口の拡大に努め、
2015年に亡くなったあとも世界中のファンから
リスペクトされている岩田聡さん。
岩田さんの母校である東京工業大学で、
柳瀬博一教授が岩田聡さんを紹介する
メディア論の授業をしているということで、
教室におじゃまさせていただきました。
参考書籍はもちろん『岩田さん』です。

第1回はじめてのゲームと
はじめてのお客さん

ゼロから
メディアをつくった人

今日の授業は、
ほぼ日イトイ新聞の方が取材に来られてます。
この授業の模様はほぼ日で後に公開されます。
どうしても顔出しはNGという人は言ってください。
むしろOKという人も言ってください、
写してもらいますから(笑)。
なぜ、ほぼ日さんが来てるかというのは、
のちほど説明しますね。

では、授業をはじめます。
今日はメディア論の最終回ですね。

最後はメディアをつくった人について話します。
これまでずっと話してきましたね、
メディアをつくるというのは、
8割、理系の仕事だということ。
メディアをつくるためには、
ハードウェアとプラットフォームを
つくらなくてはいけないということ。
それには、理系の技術が必要で、
それを身につけた人たちが
つねに新しいメディアをつくり続けてきました。

きみらの先輩、東工大の卒業生も
じつは世界を代表するメディアをつくっています。
だから、真面目な話、
ここにいるみなさんのうちの何人かが、
つぎの時代のメディアをつくる、
という可能性は十分あります。

今日は、その東工大の先輩の話をします。
代表的なメディアメーカーであり、
世界に受け入れられたメディアを
ゼロからつくった人。

それが、任天堂の元社長、岩田聡さんです。

岩田さんはこんな人

岩田さんは1959年12月6日生まれ。
北海道出身なんですね。
東京工業大学、工学部情報工学科の卒業です。

最初はHAL研究所というところに入社して、
1993年にそこの社長になります。
2000年に任天堂に移って、
2002年に任天堂の社長になります。

岩田さんはもともとプログラマーです。
開発者としてさまざまな傑作ゲームを作る一方で、
任天堂の社長に就任してからは、
きっとみなさんも子どものころに
お世話になったであろう、
ニンテンドーDS、Wii、
といった革新的なハードをリリースします。

岩田さんのテーマは「ゲーム人口の拡大」でした。
たくさんの人がゲームを楽しめる世界、
それを目指していました。
岩田さんは2015年に若くして亡くなりました。
55歳です。実は今の私と同じ年です。
自分の年齢と重ねてみると、
岩田さんという方がどれだけのことを
やってきたのかとびっくりします。
東工大のホームページにも
岩田さんのことは記事になってますので、
あとで読んでみてください。

そして、それ以上に岩田さんのことを
知りたいという人はこの本を読んでください。
はい、今日、ほぼ日の人たちが
取材に来ている理由もこれです。

じつは、岩田さんの公私に渡る大親友が、
ほぼ日刊イトイ新聞をつくった
糸井重里さんなんですね。

生前、岩田さんは糸井さんと
しょっちゅう会って話をしていました。
それはほぼ日刊イトイ新聞に対談として
いくつも掲載されているんですが、
それを本としてまとめたというわけです。

これ、とても貴重な本だと思います。
というのも、名経営者というのは、
往々にして自分の本をつくらないんです。
なぜかというと、忙しくて、
そういうことをしている暇がないんですよ。
で、この本、いま生協にも売ってますので、
興味を持った方はぜひ手に取ってみてください。

メディアの三層をすべてつくった

岩田さんがおもしろいのは、
ただゲームをつくったというだけの
人じゃないんですね。

この授業でずっと言っている
「メディアの三層構造」があります。
すなわち、コンテンツ、ハード、プラットフォーム。
岩田さんは、ゲームの世界で、
この3つのレイヤーをすべてつくった稀有な人です。
こういう人って、なかなかいないと思います。

じゃあ、具体的に岩田さんはなにをつくってきたのか。
ざっと話していきましょう。
まず、岩田さんはプログラマーとして、
たくさんのコンテンツをつくっています。
ゲームの場合は、ゲームソフトですね。

初期の代表作は任天堂から発売された
ファミコン用ソフトの『ゴルフ』。
このプログラムをほとんど岩田さんが
ひとりで手掛けたといわれています。
あと、有名なのはHAL研究所の
『星のカービィ』シリーズ。
こちらはプロデューサーを務めています。

それから、重要な仕事としては、
糸井重里さんとタッグを組んだ
『MOTHER2 ギーグの逆襲』があります。
このゲームはコピーライターの
糸井重里さんがつくったゲームなんですが、
開発が進まなくて頓挫しかけるんですね。
そこを救ったのが、岩田聡さんだったんです。

あと『大乱闘スマッシュブラザーズ』。
これも岩田さんがプロデューサーとして、
ときにはプログラマーとして関わってます。
岩田さんがHAL研から任天堂に移ったあとは、
『脳トレ』の愛称で知られる
『脳を鍛える大人のDSトレーニング』。
これは川島隆太さんという東北大の教授と
タッグを組んでつくったゲームで、
大人にゲームをさせるきっかけになりました。

岩田さんが手掛けたハード、
プラットフォームはなにかというと、
まずは2004年のニンテンドーDSですね。
それから、2006年のWii。
家庭にある大型画面のテレビに
どうやったらゲーム機がつないでもらえるのか、
ということを真剣に考えて生まれたハードです。
実際、Wiiは世界中のテレビにつながれます。
だから、ゲームを遊ぶということが、
個人がやるオタク的な趣味から
ファミリー向け、パーティー向けの娯楽になる
きっかけをつくったのがWiiだったんです。

電卓とプログラミング

岩田聡さんは、どうやって
メディアメーカーになったのか。

はじまりは、じつは高校時代にあります。
札幌南高校という北海道では有名な進学校で、
東工大にもたくさん進学していますね。
もしかしたらこのなかにも卒業生がいるかな?

高校時代に彼はすでに
プログラムを書いてゲームをつくっていたんですが、
まだ「パソコン」なんていうことばがなかった時代です。
なにをつかってプログラムしたかというと、
じつは、「電卓」です。
ヒューレット・パッカード社が出していた
プログラムができる電卓で、
世界的にも名機といわれていたマシンだったそうです。

これをつかって彼はプログラムをはじめます。
つくったのは、簡単な野球ゲームやゴルフゲーム。
それだけでもすごいことなんですが、
もうひとつ重要だったのは、岩田さんは、
ただゲームをつくるだけじゃなくて、
「お客さん」もつくったんですね。
それが誰かというと、クラスで
たまたま隣の席に座っていた友だち。
岩田さんはゲームをつくるとその友だちに
かならず遊んでもらっていたそうです。

メディアというのは、
かならずそれを見てくれる人、
消費してくれる人が必要です。
岩田さんは、最初にゲームをつくったときから、
自分のつくったものをたのしんでくれる友だちがいた。
これ、すごく重要なことだと思います。

そんなふうにしていろんなゲームを
つくっていた岩田さんは、
あるとき、自分のつくったプログラムを、
ヒューレットパッカードの日本支社に送ってみます。
届いたものを見て、ヒューレット・パッカードの人たちは
「北海道にすごい高校生がいるぞ!」って
びっくりしたわけです。
こんな小さな電卓で、プロ顔負けのゲームを
地方の高校生がつくって送ってきたわけですから。
たぶん、いまそういうことがあったら、
岩田少年はヒューレット・パッカード社に
若くして入社して‥‥ということがありそうですが、
幸か不幸か、そういうことはなくて、
岩田さんはそのプログラムの腕を独力で磨いて、
この、東工大へ進むわけです。
ただし、岩田さんがゲーム開発の才能を発揮したのは、
東工大の中ではありませんでした。

じゃあ、岩田さんは、
どこでプログラムの勉強をしたのか?
デパートだったんです。

(つづきます)

参考図書:
『岩田さん』(ほぼ日)
『岩田聡の原点 高校同期生26人の証言』
(岩田聡の記録を残す会 編 Studio Spark)

2020-07-11-SAT

これまでの岩田さんを知ってる人たち。