第3回 副田さんご本人のこと
広告界の副田さんにお会いしてきました。
アートディレクターという仕事は、
自分がないからこそ、おもしろいんだそうだ。
・・・それは、なんだ?すごくききたいことです。
その前に少し、副田さんの今までについてきいてます。
「たぶんぼくがこういうことをやっているのは
いろいろな流れもあったし。
生まれて育った環境もあって、
見るものきくもの影響によって、
普通のサラリーマンにはなりたくないな、と思ってた。
親の姿を見て、親は普通のサラリーマンだったから、
なんかネクタイしめて背広着て
毎日おなじ時間に帰ってくるのはいやだなあ、とか。
で、ちょっと小さい頃に
漫画を描いているとうまかったり、
自分がおもしろいと思うことを職業でできたら
親父とは違う感じじゃないかなと思っていました。
学校を選ぶときも、家が貧乏だったりしたからね。
ぼくらの時代だから、まだみんな貧乏で」
そういう時代だったんでしょうね。
「ぼくは九州で生まれたんですけど
東京で育って、高校進学のときには親に、
『公立じゃないとうちは経済的に無理だ』
と言われたんです。そうなると都立高校で、
そのなかに都立工芸高校デザイン科というのがあって、
デザインというのが、なんかちょっと近いかな、と、
中学3年くらいに自分が漫画描いたり
絵を描いたりしているうちに、思ったんです。
これなら、普通のサラリーマンに
ならなくてもすむかな、と」
うん。うん。
「そこは東京都で40人くらいしかとらない学校でした。
ちょうどデザインという言葉が新鮮だったし、
競争率も日本一高くて、
5人にひとりくらいしか入れなかったんだけど、
受けたらたまたま受かったんです。
学校に入って、デザインのこととかをわかってきた。
でも、世の中に出ても、
自分のやりたいことはよくわからなかったですよ。
いい会社には入れなかったですから。
ちょうど有名な大きなデザイン会社とかが、
急に高卒とかだと太刀打ちできなくなっちゃった
時代だったんだよ。芸大とか、そういうひとたちは
そこに入れたんだけど、それで何かぼくは
ちっちゃな事務所に入ったりとかして、
でもやることが違うなあ、というかんじで」
それは、なんでですか?
「カタログのパンフレットとか印刷物とか、
グラフィックデザインでもいろいろあるでしょ?
ポスターもあれば、チラシだってデザインだし。
パンフレットもあるし。
ぼくが入ったのはそういう事務所で、
『何かおもしろくないなあ・・・。
サラリーマンじゃないんだけど、
これはこれで違うし』なんつって。
その頃ぼくは18歳だったから、
デザインの新聞広告や求人募集を見て、
けっこうそういうのを受けにいったりしました。
まだ勤めて1年もしないうちなんだけど、
やっぱり子供だから、なんか無垢だったと思うね。
『うわあー、この職場じゃあ、なんかもうだめだあー』
みたいに思ってた」
そうやって、いやだからもうやめたいな、
と思っちゃう気持ちは、何となくわかります。
「わかる?
大学生だからわかるのかもしれないけど、
やっぱり目の前のことしかやれなかったから、
こういう仕事をいつまでやっていても
自分のやりたいこととは違うような感じもしていた。
でも実際はわからないけどね、
そこにいて、どうだったのかは・・・。
でも、まあだからそれで点々としていたたわけです」
不安定だったんだー。
すごく共感できますよね。
実際、交通事故に遭ってばっかり、
みたいな生活をしているぼくですから。
でも、ここまでなら、普通に学生していたり、
一般的にアート好きなひとと、変わりがないよね。
きっと、そういう普通の不安なひとと違うところに
副田さんはいつしか抜けてゆくことができたのでは?
若いときの先に、どう副田さんのいまがあるのか、
つづけてそのことをきいてみたいと思いました。
(つづく)
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