夢か馬鹿か。
水中考古学って、知ってますか?

第12回 黒船(7)
船長の手記


前回は、苦労して手に入れた、
ニューヨーク・タイムス紙をひもどくことによって、
黒船の名前や沈没の事実、その歴史的背景の一端などが、
うっすらと見えてきたところまで、お話をしました。
でも、別のニューヨーク・タイムスには、
いったい何が載っているのでしょうか?
今回は、それを追ってみることにしましょう。
1869年4月22日付の新聞です。
130年以上も前の、古びた記事ですから、
読み手側の僕も思わず緊張してドキドキする瞬間です。

「PERILS OF THE SEA」(海難)

という見出しで始まっています。
船の船長ニュエリの手記によるもので、遭難時のもようが、
実に生々しく綴られています。
その前段には、次のような記者のコメントが
書かれています。
「蒸気船ハーマン号の沈没をご報告することは、
 わたしたちの義務とはいえ、
 とても悲しむべきことであります。2月13日の夜9時頃、
 彼女は100マイルほど沿岸を下った海域で、
 岩礁に乗り上げました。
 霧がとてつもなく深い夜の惨事でした」
と。

そして、以下が船長ニュエリの物語です。
「2月13日の朝でした。
 わたしは、船が江戸から横浜へ戻ると即座に、
 つぎの出港命令を出しました。
 すぐに350人の乗客と80人の乗組員が
 次々と乗船を開始しました。
 前日からの南西からの強風は、やがて北東に変わり、
 気圧計は、天気回復の兆しを示しています。
 出航!! わたしは、大声で合図の号令をかけました」。

ちょうど正午に横浜港を出帆したハーマン号は、
浦賀水道に向かって進みました。相模岬をかわすと、
南西からの大きなうねりがありましたが、
北東からの風は、とても新鮮でした。
船は、1時間におよそ7ノットの速力で、
東から北北東に向け進んでゆきました。
彼女はやがて、白波が立つ暗礁地帯を
通り過ぎようとしていました。
同船した日本人の水先案内人が、
付近には、暗礁があると船長に告げました。
その暗礁の存在は、海図上にも示されていなかったのです。
その晩は、極端にもやのかかった暗い海で、
視界も最悪でした。
さて、この船の運命はいかに。
つづきは、次回をお楽しみに。

井上たかひこ



「水中考古学への招待」
井上たかひこ著 成山堂書店
2000円(税別)
ISBN4-425-91101-6

2001-01-25-THU

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