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糸井 |
クリント・イーストウッドが
アカデミー賞の複数の部門で受賞したときに、
この映画の栄光を自分への賞賛と受けとめなかったら
これからも作品を取りつづけることができる、
というようなことを言いました。
それと同じように、渡辺さんも
作品を自分よりも上位概念としてとらえている。
そこがすごく似ているように思えます。
渡辺さんにとって「ああいうふうになりたい」という
人物がいるとしたら、クリント・イーストウッドは‥‥ |
渡辺 |
かなり、思ってますよ。
この次の映画は、クリントの監督作品ですが、
彼は、親父みたいなんです。
さっきから、肉親が多すぎるな(笑)。
つまり、クリントは、親父のように
超えられない存在なんです。
しっちゃかめっちゃかにぶつかっても
絶対に、はね返される。
そのはね返され方が、とっても気持ちいい。 |
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糸井 |
きっと「映画とはなんぞや」という議論や思考から
あの人ができあがったのではないですね。
「こういうことをやったらおもしろいだろうな」
と自分で思ったことをしてみたり、
「おまえ、おもしろかったよ!」
とお客さんに言われる、
そういうことをただただくり返してきた。
そして巨木のようになり、
みんながえらく心打たれてしまうような
人になってしまった。
あの人のベースのところには、きっと
「たくさんの人の力を信じきっている」
ということがあると思います。
「ここまでなら大衆向けで、わかりやすいよ。
でも、これはどうかな?」
「みんな、嫌いだよこんな映画」
なんていうことを周囲に言われても、
「いや、わかる」と、
断固としていって、信じきって
やってきたんだと思います。 |
渡辺 |
『許されざる者』も、
こんな暗い映画、誰が観るんだろうって
彼、思ったらしいですよ。
でも、クリントがこれをやりたい、
描きたいということに
すべてが集約していたんでしょう。
とはいえ、彼も映画人だから
躊躇はあっただろうと思います。
『明日の記憶』も、最初はそうでした。
でも「ぼくはそう思ったんだ」ということが
同じく勝っていたから。
堤さん自身も、
「自分にこの作品が撮れるだろうか」と
躊躇されたことと同時に、
この作品に向かうときのバネが
非常に強くあったんだと思います。 |
糸井 |
ぼくは堤さんと
性格的にちょっと似ているところがあって、
「ここだけをさわらないために
ドーナツ型に仕事をしてきた」
というところがあると思います。
たぶん堤さんはぼく以上で、
「ここ」にみんなの目がいかないように、
ドーナツの部分で
思いっきり大騒ぎしたり技巧的だったりしておいて
真ん中のところには
一生触らないでいるつもりだったんじゃないかな。
でもそこには空間があるから、
「俺が生きた」という証は残ります。
「あの隙間が俺だよ?」
そう言って死にたい、という願望が
おそらく堤さんにはあったと思うんです。
そしたら、こじあけられてしまって(笑)。 |
渡辺 |
こじあけたというより
「堤さん、入ろうよぉ!」
と、いっしょに入り込んじゃったんですね。
ほかの、可南ちゃんふくめたキャスト、
スタッフ、みんな同じでしたし、
ぼくにとってもそうでした。
ほんとに、そういう作品でした。
「これ、俺にとって大切なとこだから」
と言って、見せなくてよかったものを
「隠さなくてもいいよね」
「はい、わかりました」
「ドッボーン」
って、飛び込まざるを得ない瞬間が
それぞれにあったと思います。 |
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糸井 |
だからでしょう、すべてのキャストの人たちが
自分の考えで自分の芝居をやっている、ということが
すごくよくわかりました。
どの人からも、飛び込んだあとのあぶくが
プクプクと出ていますね。
自分も、このコンテンツに
「『明日の記憶』とつきあう。」
というタイトルをつけまして。 |
渡辺 |
はい(笑)。 |
糸井 |
自分でも何かを出ちゃうんだろうな、という
予感はしていました。
「こんなメールを書くつもりじゃなかったのに」
そんなのの連続で。 |
渡辺 |
いつも、ふーーーっと
長いひと息をついてから
PCに向かっていました。 |
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糸井 |
ぼくもそうです。
ふたりとも、メールを書くのは
たいがい休日でしたよね。 |
渡辺 |
また、糸井さんから返ってきてくるメールが
ちゃーんと読まなきゃいけない内容のものだから(笑)!
だって、こんな、面識のないぼくに、
あそこまで書いてくださっているんですよ?
たとえ3時間の濃厚な取材をされたとしても
ここまでぼくのことをわかってくださる方はいない、
というくらい、自分を見られた感じがしたんです。 |
糸井 |
いちばん守んなきゃなんないのは、
解説者になることはやめよう、ということでした。
この映画につきあう、という以上は、
研究者じゃなくて
どっかでいっしょに手をつないでいたかったんです。 |
渡辺 |
「向き合う」じゃなくて「隣り合う」ですね。
向き合ってたら、疲れますもんね。
糸井さんからベンチという言葉をいただいたときに、
ぼくはこの映画を
どうお客さまに届けたらいいのか、
道筋がわかったような気がします。 |
糸井 |
向き合って、どちらが正しいかを論じると
負けるか勝つかしかないですからね。 |
渡辺 |
この映画の取材を受けているとき、
「あのシーンはこうなんですけど」
とぼくが言っているうちに、
話を聞く立場の記者の方が
涙ぐまれたりなさるんです。
ぼくが最初にこの映画を撮りたいと言って
映画会社を巻き込んで、監督を巻き込んで
可南ちゃんを巻き込んで、キャストを巻き込んだ、
その同じ軸の上に、今度は
お客さんや記者の方や糸井さんや、
「ほぼ日」でメール交換を読んでくれたみなさんが
いてくださっている、そんな気がするんです。 |
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糸井 |
「ほぼ日」のスローガンのようなものに
Only is not lonelyという言葉があります。
「人はつながりたい、
つながろうと思えばつながれる」
いまの時代はこのことについて、
いろんな人がいろんなところで
考えているんじゃないかな、と思います。 |
渡辺 |
この映画の前にいるから、
「つながってしまう」があった、
というふうにぼくは感じています。 |
糸井 |
ベンチに座ることで
謙さんをはだかにしちゃいましたし、
ぼくもはだかになっちゃいました。
みんながこれをやるといいですね。 |
渡辺 |
ぼく自身、豊かになれたなあって
とてもうれしいです。
こうやって、お話しさせていただいたり
ふだんはつながれない方たちとも
つながれたわけだし。
いつでも、折りたたみ式の
心のベンチを持ち歩きたいと思います。 |
糸井 |
今日はありがとうございました。 |
渡辺 |
ありがとうございました。
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