いままでのニュース
  日本テレビ『明日の神話』ライブへの
参加募集。
2006.06.16
2006年、7月7日に
巨大壁画『明日の神話』は
除幕が行なわれます。
(一般公開は7月8日からはじまります)

その除幕に先駆け、
『明日の神話』前で
岡本太郎をリスペクトする
アーティストのみなさんによる、
一夜かぎりのライブイベントが
日本テレビにて行なわれることになりました。
このライブに“自らを表現する「出で立ち」”で
ご参加いただく「明日の岡本太郎200人」が
募集されています。
参加を希望される方は、まずはオーディションを
お受けいただくことになるそうです。
くわしくは、日本テレビの
こちらのページを
ごらんくださいね。
  『明日の神話』修復が
完了しました。
2006.06.07
愛媛で修復が行なわれていた『明日の神話』の
修復作業が、2006年6月6日に終了しました。
修復メンバーの吉村絵美留さん、山田星仁さん、
上條法子さん、村木玲子さん、石井匠さん、
そして、これまで応援していただいたみなさん、
ありがとうございます。
これからは、2006年7月8日からの
東京・汐留での一般公開に向けて、
準備に入ります。
公開まで、あと1ヶ月です。
楽しみにお待ちください。
  『明日の神話』特別番組の
放送予定が決まりました。
2006.06.02
『明日の神話』は、この夏 東京・汐留の日本テレビ内日テレプラザで
世界初公開されることになっています。
その公開にあわせて、特別番組の放送が決定しました。

■6月10日(土)
 16:25〜16:55※
 日テレBe TARO!宣言特別番組
■7月7日(金)
 16:00〜16:25※ 公開直前番組
★21:00〜23:24
 岡本太郎の生涯や『明日の神話』の運命などを
 ドラマとドキュメンタリーで描き、
 『明日の神話』除幕の瞬間を伝える特別生放送。
■7月15日(土)
 15:30〜16:55
 『明日の神話』が公開されるまでの道のりを
 克明に記録したドキュメンタリー。

日本テレビ系全国ネット放映です。
(※印は関東ローカルで放送します)
なお、『明日の神話』壁画の一般公開は、
7月8日(土)〜の予定です。
  4月2日(日)は、テキスト中継と
イベントの動画生中継をします!
2006.03.31
2006年4月2日(日)に行なわれる
『明日の神話』カウントダウントークイベントにあわせ、
この『明日の神話再生プロジェクト』のコーナーでは、
ほぼ日刊イトイ新聞によるテキスト中継と
トークイベントの動画生中継を行ないます。

動画生中継は、
4月2日14:00前後から約1時間の予定です。
岡本太郎記念館の平野暁臣さん、
オリジナル・ラヴの田島貴男さん、
日本テレビの土屋敏男さん、糸井重里さんの
4人が出演し、『明日の神話』と岡本太郎について
話します。
そこでいよいよ、『明日の神話』の
公開スケジュールも発表されますよ!

「ほぼ日」取材班によるテキスト中継は、
時間が変更になり、
4月2日11:00からはじめます。
こちらの中継は、イベント会場から
離れた場所からお送りする予定です。
テキスト中継では、
みなさまからのメールのご紹介を
したいと思っておりますので、
『明日の神話』修復現場チームのみなさんへの
応援メッセージなどを、どうぞ
postman@1101.comまでお送りください。

スケジュールをまとめますと、
4月2日(日)
11:00〜テキスト中継
14:00ごろ〜動画生中継
です。
カウントダウントークイベント会場に参加ご希望の方は、
↓この下に掲載している、前回のニュースを
お読みくださいね。
では、日曜日に、お会いしましょう!
  4月2日、『明日の神話』公開カウントダウン
トークイベントを行ないます。
2006.03.23
  2006年4月2日(日)に、
東京・汐留の日本テレビで
岡本太郎記念館館長の平野暁臣さん、
オリジナル・ラヴの田島貴男さん、
日本テレビの土屋敏男さん、
ほぼ日刊イトイ新聞の糸井重里さんによる、
『明日の神話』公開カウントダウンの
トークイベントが行なわれることになりました。
『明日の神話』の一般公開について
くわしい情報も発表します。

日時:4月2日(日)14:00〜15:00(13:30入場)
会場:汐留・日テレプラザ1F クリスタルホール
入場:無料
※事前申し込みは必要ありませんが、
 当日の混雑状況によっては、
 入場が制限されることもあります。
 会場のようすは、現地屋外に設置されている
 日テレビジョンでも見ることができます。

また、このようすは、第2日本テレビ
ほぼ日刊イトイ新聞内の当ページでも
ストリーミング中継を行なう予定です。
当ページでは、前日の4月1日より
(※時間が変更になり、4月2日11:00開始となりました)
「ほぼ日」による
出張テキスト中継も行ないますよ。

『明日の神話』について、ご意見や
修復についてのご質問などがありましたら
どうぞお気軽に
postman@1101.comまでお寄せくださいね。
  東京都写真美術館の、
太郎の写真展。
2006.01.22

「玉川のアトリエにおける岡本太郎氏」
1947年 稲村隆正撮影
東京の恵比寿ガーデンプレイスにある
東京都写真美術館の2階展示室では、
2006年2月18日まで
「写真展 岡本太郎の視線」が開催されています。
会場内には、岡本太郎の写真や言葉をはじめ、
岡本太郎と関わりのある写真や映像が
展示されています。
まさに、岡本太郎が、
その視線の先で見つめた世界を
体験できるような空間になっています。

場所:東京都写真美術館(恵比寿ガーデンプレイス内)
   2階展示室
会期:2006年2月18日(土)まで
時間:10:00〜18:00(木・金は20:00まで)
   ※入館は閉館の30分前まで
休館:毎週月曜日
  (休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
料金:一般1,000円/学生800円/
   中高生・65歳以上600円
  「燃える手」がキャンドルツリーに。2005.12.15


岡本太郎の作品「燃える手」が
日本テレビの『GO! SHIODOME Xmas』で
クリスマスのキャンドルツリーとして
展示されています。

場所は、汐留の日テレプラザ1階の大屋根広場。
9.2mのツリーの内部に、
赤い「燃える手」が飾られています。
内部にも入れるようになっていますので、
点火された「燃える手」を
どうぞ間近でごらんになってみてください。
12月25日までの毎日16時〜、
キャンドルの炎が消えるまでの展示です。
※このツリーとは別に、4.5mのツリーも展示されています。
 まちがえないようにしてくださいね。
  『明日の神話』が立ち上がりました。2005.12.08
ジグゾーパズルのようにバラバラだった
壁画『明日の神話』のパーツの接合が完了し、
全体が立ち上がりました。
37年前の制作当時を除いて、
これまで誰も見ることのできなかった全体像が
はじめて公開される記者会見を
12月5日に開きました。
記者会見では、ゼネラルプロデューサーの平野暁臣氏、
絵画修復家の吉村絵美留氏、
テクニカルスーパーバイザーの中田捷夫氏が
修復が順調に進んでいることを報告しました。


また、「太郎の船団(TARO's Boats)」メンバーの、
オリジナル・ラヴの田島貴男さんが現地入りし、
『明日の神話』と初対面を果たしました。
田島さんは、
「想像以上の大きさと、
 絵というよりも遺跡のような壁画の雰囲気に
 最初は圧倒されました。
 この絵のなかには生と死が含まれていて、
 生きている人も死んでいる人も、
 みんなが踊って遊んでいますね。
 中央の骸骨を見つめるうち、
 岡本太郎さんがこちらに挑みかかってくるような
 感動がありました」
と、絵を前に話してくださいました。
※現在の修復状態について
作品を寝かせた状態で行なっていた
大きなパーツの接合と、
アクリル樹脂板と金属による裏面の補強が終わりました。
現在、作品を立ち上げ、
絵画表面の修復に取りかかっているところです。
具体的には、画面の洗浄、付着物の除去、
メキシコで回収した
小さな絵の具片を画面に戻すとともに、
欠損部への充填、補彩下塗り等の作業を進めています。
作品の画面状況は、
埃、ゴミ、汚れ、鳩の糞等が付着しており、
亀裂や割れ、大小の欠損があります。
現存する4点の下絵と
制作時の写真や映像が存在するので、
復元に支障をきたす欠損部はありません。
(吉村絵美留)
第2日本テレビで『太郎爆弾』増殖開始。2005.10.28

2005年10月27日の深夜、
日本テレビがインターネットのなかに生んだ
ふたつめのテレビ、
「第2日本テレビ」www.dai2ntv.jpが
オープンしました。

この第2日本テレビは、
商店街のような構造になっています。
たくさんの商店が並ぶなかに
岡本太郎の映像が、
わきあがるようにふつふつと
公開されていく場所があります。
『太郎爆弾』というタイトルの、この一角では
いままで秘蔵されていたレアなプライベート映像や
伝説のようになった名言などを見ることができます。
生きて、力強く喋っている岡本太郎が
まるで爆弾のようにボンボンと飛び込んでくる感覚を、
ぜひ味わってみてください。

※「第2日本テレビ」商店街に入るには、
 こちらにアクセスし、
 会員登録(無料)が必要です。
 コンテンツには、有料のものも無料のものもありますが
 『太郎爆弾』は無料で視聴できます。

岡本敏子さんの書斎


見つかった直筆原稿
『明日の神話』 岡本敏子未発表原稿 2005.9.28

岡本敏子が岡本太郎のもとへ旅立ってから
5ヶ月がすぎようとしていたある日、
書斎から、手書きの原稿がひょっこり出て来ました。
岡本敏子が生前に
『明日の神話』を制作している当時について書いた、
未発表のものでした。
誰に読んでほしくてこの文章を書いていたのかは、
本人にしかわかりません。
このページを通じて、みなさまにお届けしようと思います。
岡本太郎が『明日の神話』を描いていたころの
ビビッドな臨場感が伝わってきます。

未発表原稿をもっと詳しく観る(クリック!)
第6回 そして、34年間の封印へ。

1969年の9月末には『明日の神話』はほとんど完成した。

いや、岡本太郎の仕事としては、絵は完成したのだ。
しかしヒガンテのアトリエから、
オテル・デ・メヒコの現場に移し、
壁に取りつけなければならない。
重いし、大きいし、簡単な仕事ではない。

取りつけ終ったところも見に行ったが、
何しろ工事現場だ。埃もうもう、足場は立っているし、
床には資材が積み上げてあるし、
とても仕上げの出来る環境ではない。
移動の間にちょっと傷んだところもある。
内装仕事が完了し、ロビーの空間がきれいになったら、
来て最後の筆を入れ、
サインをして完了ということにしよう。また来るよ、
と言って帰って来た。

ところが、それっきり。工事が終わりましたよ、
と言ってこない。駆体は出来上がっているのに、
内部は遅々として進まず、
立ち腐れのような状態で放置されているらしい。

日本ではもう万国博の仕事は計画・設計の段階を終えて
実際の工事、制作に入っているし、
プロデューサーであり、製作者でもある太郎さんは
幾つ身体があっても足りないような忙しさ。

しかも、その間を縫って「芸術新潮」に、
『わが世界美術史』という連載をはじめた。
岡本太郎という人は、大きなプロジェクトで
多勢のスタッフが動き、会議、折衛、幾つもの現場、
と湧き立ってくればくるほど、
逆に己の根源的な、本質的なモチーフに
沈潜してゆきたくなる、
生命の欲求としての対極主義を持っていて、
どんなに無理でも、きつくても、
それをやらずにはいられないのだ。
この時も、およそ考えられないような
スケジュールの中で、
後に『美の呪力』という本にまとめられた
哲学的な芸術論を連載していった。

更に文化人類学者・泉靖一氏との対談による
『日本列島文化論』。
これも広範な人類文化の根源の問題を
縦横無尽に論じあう、凄い企画だ。

メキシコの壁画のことを忘れた訳ではなかったが、
あのホテルはどうなるんだろうねえ、と
気にかけながらついそのまま時が過ぎて行った。

そのうちにマヌエル・スワレスが亡くなった。
『明日の神話』は外され、
どこかにいってしまったのだった。

(岡本敏子 未発表原稿『明日の神話』 おわり)


第5回 幻の、太郎の海。

日本のグラン・メートル、タロー・オカモトが
凄い壁画を描いているというのが評判になって、
ジャーナリストや美術関係者、社交界の人たち、
引きもきらず押しかけてくる。そして、
「ああ、何という原色だ!」
「凄い絵だ。美しい!」
メキシコの人たちが、何という原色だ、といって驚くのは
愉快だった。この連中、おかみさんのお料理に感激して、
「近頃こんな純粋なメキシコ料理は滅多に食べられない。
 レストランでは絶対に出ない味だ。大したもんだ」
とほめながら、パクパクと御馳走になる。
こういう人たちは身分もいいし、裕福だし、
結構な暮しをしているに違いない。
ここの番人のインディオの夫妻なんて、
比べようもなく貧乏なのに、御馳走になる方も、
御馳走する方も、まったく平気。こだわりがない。
私たちなら、ただで御馳走になっちゃ悪い、と
ちょっと包んで渡したり、したくなるところだが、
誰もそんなこと気にしないようだ。
このメキシコ人のおおらかさ。
見ていても気持ちがよかった。
岡本太郎さんは
「見ろよ。どっちも全然平気で、
 にこにこして食べてるじゃないか。
 いいねえ。ケチケチした小市民的な意識や
 計算高さがないんだよ。
 昔は日本だって、こうだったんだよ。
 今だって、沖縄なんかこうじゃないか。
 知らない人でも、平気で呼び入れて酒もりになる。
 ここだっておんなじだ。ノーブルだろ。
 こういう、こだわりのなさがいいねえ」
とすっかり気に入っていた。
この時は十日間くらい居たのだが、
おかみさんの作る料理は毎日変わって、
一回も同じものが出たことはない。これにも驚いた。

太郎さんを感激させた、
こういうところは馬鹿に平等で、おおらかなのだが、
この人たちも意外に階級意識が強い。

この夫妻には出戻りの妹がいて、
同居というのか、居候していた。
親族なのに、彼女は窓の外に
簡易ベットを置いて寝ている。
家の中には入れて貰えないのだ。
夫婦と赤ちゃんは中で寝る。
外といっても、ちゃんと屋根の下で、大きな館内だから、
差し障りはないのだが、厳然と区別しているところが、
ちょっと意外だった。

もっと厳然としているのは、われわれに対する態度だ。

高さ6メートル近くもある壁画だから、
高い台に乗って描いている。
絵具が切れると太郎さんは私の方を見て、
「おーい、赤」だとか、「緑」とか叫ぶ。
他の助手の人たちはそれぞれの部署で
一生懸命描いているから、私が走って行って、
台の途中まで登って、その色を届ける。

そうすると、このおかみさんが怒るのだ。
「シニョーラが、なんでそんなことをなさるんですか。
 女主人様はゆったりと笑って、
 見ていなさればいいんです。そういうことは、
 あの弟子どもがやる仕事です」
レディが走って絵具を届けるなんて、
とんでもないと思うらしい。

太郎先生が絵を描くことにも、
ほんとうは納得がいかないようだった。
「グラン・メートルは、笑って、
 指図していなさればいいのに」
と不満顔だ。昔は支配階級、主人側と、仕える側との、
厳然たる差別があったのだろう。
革命前の地主階級の無茶苦茶な横暴、
残虐を描いた映画があったが、
そういうものはメキシコ革命で払拭されたとはいえ、
意識はまだ残っているようだ。

その頃、パルケ・デ・ラ・ラマの
オテル・デ・メヒコの前庭には、
シケイロスのポリフォルムが七分どおり出来上がって、
最後の仕上げにピッチをあげていた。
巨大なドーム型の空間、その内部も外部も、
シケイロスの作品、レリーフで埋めつくし、
今までの美術館というものの概念を超えた、
壮大な彼の世界を現出しようというのだ。

スワレスはホテルの前庭、
丁度シケイロスと対になる位置に、同じ大きさの、
岡本太郎のポリフォルムを作るという計画を立てていて、
壁画が終わったらすぐそれにかかるから、
構想を立てていてくれと言う。

パルケ・デ・ラ・ラマの事務所に行く度に
スワレスは太郎さんをポリフォルムに連れて行き、
その現況、進渉状況を得意そうに説明しながら、
シケイロスに会わせる。

シケイロスもフランスに行っていたので、
結構フランス語を話すから、
「フランスの近代絵画のように、
 プチブルジョワのサロンに
 ポン・グー(趣味の良い)の絵を描いたって、
 それがなんなんだ。芸術は社会に対してもっと
 激しく働きかけ、社会を変革しなければならない」
などど、大いに気が合って、もりあがっていた。
それをスワレスは嬉しそうに、
にこにこしながら眺めている。

クエルナワカのシケイロスのアトリエにも何度か行った。
クエルナワカで部分に分割したレリーフを作り上げ、
ポリフォルムに持って来て取りつけては、
全体のバランスによって修正したり、色を加えたり。
とにかく大きいから大変な仕事だ。

スワレスという人は、根っからの芸術好きらしい。
ホテルの仕事の方はケチったり、滞っても、
ポリフォルムの方にはいくらでも金を注ぎ込む
という話だった。

ここにもう一つの、
岡本太郎のポリフォルムが出来ていたら、
どんなに面白かったろう。

太郎さんはこのポリフォルムに、
海をイメージした世界を作ろうと考えていた。
あらゆる“いのち”を生み出す豊鐃の海。
不思議な形の生きもの、神秘にみちた、
深海のめくるめく渦巻。

シケイロスの荒々しく、暴力的な強さに対して、
岡本太郎の力は繊細で、リリカルで、シャープで、
そして激しい。
まったく異質な、対照的な二つの世界が、
並び立ち、競い合うことになったのに。

だがそこに至る前に、
スワレスの事業は挫折してしまった。
第4回 番人役の若夫婦。

メキシコの仕事も、
オリンピック前にホテルを開業しようと、
日程は決まっているのだから、
のんびりやっている訳にはいかない。
何とかスケジュールを調整して、出かけることにする。

羽田空港には
サブ・プロデューサーや万博協会の人、
映像やら建設側、等々、
決めておいて貰わなければ滞る案件を
いっぱい抱えた連中が、
太郎先生を取り囲んで、
早い者勝ちであれもこれも突きつける。
いつもは厳そかなのだろう貴賓室は、
まるで現場事務所のような騒ぎだ。
その片隅では私が、仕上げて置いていかなければならない
原稿をせっせと書いている、という具合。

帰ってくると、また待ち構えていたあれやこれやが
わっと殺到して、太郎先生の奪いあい。
元気だったから平気でこなしていたが、
よく続いたものだ。

だがそんなに深刻に、
あえぎあえぎやっていた訳ではない。
太郎さんはメキシコが大好きだ。
行くこと自体が楽しいのだ。
それに空港に着くと、タラップの下まで、
スワレス氏をはじめ建築家連中、
その他スタッフが勢揃いしてお出迎え。
しかもぞろりと多勢のマリアッチを引き連れて来て、
大合奏がはじまる。
何様のお成りかというようなお祭り騒ぎで迎えてくれる。
入国手続きも税関も、特別扱いの一番先で、フリーパス。
国賓待遇なのだ。
気分よくメキシコの地に足を踏み入れる。

またその上に、思いがけぬ楽しいことが
いっぱい待っていた。

二度目に訪れたとき、
殺風景だったアトリエの内部の様子は一変していた。

大きな屋根の下に、ちゃんとした一軒の家。
小じんまりしているがツインのベットルーム、
シャワー室、小ぶりのキッチンまでついた居間、
と生活機能の揃ったスペースが出来ている。

「グラン・メートルが休息するための部屋だ。
 ここで昼寝でもしながら、ゆったりと仕事して下さい」
という。

岡本太郎さんという人は、
とてもそんなところでゆっくりお昼寝なんか
していられる性質(たち)ではないのだが、
でも御厚意は有難い。

その次に行くと、また様子が変わっていた。
万博プロジェクトの調整がうまくいって、
思いがけぬ暇がちょっととれたので、
予告なくメキシコに飛んだ。
スワレスに電話して、来たよ、と告げ、
とりあえずヒガンテのアトリエへ。

見知らぬメキシコ人の夫婦が、丁重に出迎えてくれる。

あの休息室の窓には鳥籠を幾つもぶら下げ、
洗濯ものなども干してある。
しかもアトリエの広い床に、鶏を飼って、
十何羽もコココッと駆けまわっている。
何とも牧歌的な風景だ。

メキシコシティの真中とは思えない、
あったかくて楽しい雰囲気。
太郎さんはすっかり喜んでしまった。

スワレスもすぐ駆けつけて来て、
こんな立派な屋根のある建物、
無人にしておくと浮浪者が住みついてしまう。
太郎先生は一週間くらいづつ、
とびとびにしか来られないのだから、ほとんど空き家だ。
不用心なので、この若い夫婦を
番人として雇ったのだという。

しかし、太郎先生がいらしたら、
お前たちはすぐ出て行くんだぞ、
おいでにならない間だけだぞ、
という約束で入れているので、すぐ出て貰うから。
いらっしゃることを知らせて下されば、
ちゃんと始末しておいたのに。と申し訳なさそう。
すぐ追い立てるつもりらしい。

だが太郎さんは
「いや、待ってくれ。僕はどうせホテルから
 通って来て描くんだから、
 こんな部屋を使わなくてもいい。
 彼らの暮らしぶりが気に入った。楽しいから、
 このままここに置いてやってくれ。
 いいじゃないか。僕はどうせ何日もいないんだから」
とスワレスにかけあって、
駄目だ、追い出すというのを、
強引に置いて貰うことにした。
彼らは太郎先生のおかげで、思いがけず、
こんないい住居に住みつづけられることになったのだ。
嬉しくて、有難くて、
何とかその気持ちを表そうとするらしい。

おかみさんは三十四〜五。
小柄だが足腰の強そうな、しっかりした人で、
上流階級のお邸に奉公していたそうだ。
もの腰もなかなかちゃんとしている。

御亭主は背の高い、胸板の厚い、
ヘビー級の拳闘選手みたいな立派な体なのだが、
気が弱いらしく、女房の言うとおりに、
はいはいと従っている。
二歳の女の子がいて、大きな拳、太い腕で
この子をかわいがる様子がほほ笑ましい。

このおかみさんは料理もうまかった。
お礼の気持ちだろう、毎日、お昼に
メキシコの伝統料理を作ってくれる。

昼前、大きな身体の御亭主が買出しに出かけて行き、
両手に包をぶら下げて帰ってくる。
隣はヒガンテのスーパーマーケットで、
トルティーヤなど機械で作ったのが
面白いように大量生産されて出来てくるのだが、
彼女は「あんなのはまずい」と言って、
ちゃんと自分で粉をこねて、
掌でペチャペチャと叩いてのばし、
石のカマドの上に乗せた焙烙で、
いい焼き色に焼きあげる。それにつける具も、
純粋のメキシコ料理、正統のレシピだそうだ。

われわれは毎日お招ばれで、
こってりしたお昼を食べにいかなければならない。
おいしそうだけれど、食べられないんだといって断る。
すると彼女はひどくしょげて、
「グラン・メートルは、あたしたちの作ったようなものは
 汚いと思って、食べてくれないんだろうか」
と歎くのだ。それが辛いので、形だけ、と思って
一つつまむと、これがおいしい。
第3回 太郎の純粋さが人を呼ぶ。

助手を選ぶにあたって、彼は
「僕がいつも傍に附いていられればいいけれど、
 附きっきりという訳にもいかない。
 メキシコ人だとスペイン語しか話せないから、
 太郎先生の意志を伝えにくいだろう」
と言って、息のかかった絵描きさんの中から
手伝いのできそうな日本人を選んで、連れて来てくれた。
その一人が今もメキシコに住んで、
オアハカ州立大学の美術部長になっている竹田さんだ。
後で聞いたところによると、
彼はその頃どこかの美術学校の先生をしていて、
月給が600ペソだった。
ところが、太郎先生の壁画の手伝いに行ったら、
スワレスは3000ペソ払ってくれた。
これは予想もつかない破格の待遇で、
びっくりしたと言っていた。スワレスの意気込みが解る。

ルイスもスワレスも
「メキシコは壁画の国だ。
 画材については十分研究が進んでいる。まかしてくれ」
と頼もしいことを言う。
確かにあれだけの壁画運動をやって、
オロスコ、リベラ、シケイロスと
大量の壁画を描いているのだから、
彼らの言うとおりの絵具を使うことにした。
これがアクリル系の水溶性なので、すぐ乾く。
色を重ねることも出来る。
しんねりむっつりやるのは苦手で、
パッパッと動きたい太郎さんにはもってこいの材料だ。
大画面も意外に早く進行するので、
彼は機嫌よく仕事を進めた。

と言っても、万博もあるし、
日本での他の仕事も山積しているので、
そんなに長くはいられない。せいぜい一週間とか十日。
帰って日本での仕事を大車輪で片付け、
時間をひねり出してはまたメキシコへ飛ぶ。

何しろこの頃は万博テーマ館のプロジェクトは
常任理事会で承認されたばかり。
これからいよいよ具体的な展示計画を練り、
実施計画・設計作業に入らなければならないという
大事な時だ。
テーマプロデューサーが時々いなくなるなんてことが
許される状態ではないのだが、
岡本太郎は基本的な哲学、理念はぴしっと据えて、
強烈に主張するが、
細々した技術的な検討やヤリクリにはこだわらない。
四人のサブ・プロデューサーに持ち場を割り振ると、
あとはお前さんたち、勝手にやれよ、
至極おおらかな態度でまかせてしまう。

だからあんな大仕事を併行して進めるという
離れ技が出来たのだが、
実際綱渡りのような行ったり来たりだった。

ところでメキシコでは、
助手の日本人たちは今までそんな大きな絵を
描いたこともないし、第一、
岡本太郎の絵は彼らの想像を絶するものだ。
ほかのどんな画家ともまるで違うのだから、
どうやったらいいのか、戸惑うばかり。

太郎先生がいる間は、「違う違う」とか、
「ああやれ」「こうやれ」と指示されるから、
おっかなびっくり手を動かしているが、
彼が日本に帰ってしまうともう途方にくれ、お手あげ。
平塗りの部分の色くらいは塗るが、
結局放り出してサボっていたらしい。

岡本先生が来るぞ、という連絡が入ると、
あわてて駆けつけて仕事していたフリをする。
ズルというより、見ていてくれないと怖くて、
やたらに手をつけられないのだ。
だが彼らはこの壁画を手伝ったことで、
人生、計り知れない大きな経験になったと言っていた。

ルイスは画材の手配や彼らの人事管理など
細々と気を配ってくれたばかりでなく、
太郎さんがいる間は自分の仕事を放り出して、
毎日のように通って来て、不都合がないか、
眼を光らせてくれた。
自分で手を下して拡大を手伝ってくれたし、
若い未経験な日本人たちに絵具の扱いから、
細かい具体的な注意点を指示して、
現場監督をやってくれていた。
まったく無償の好意なのだ。

太郎さんは遠慮のないストレートな人だから、
「どうしてこんなに親切にしてくれるの?
 何がきっかけでルイスと知りあったんだっけ」
と聞いたことがある。
「僕も日系だから、日本人がこんな大作、
 しかもこんな凄い絵を
 メキシコに描き残してくれることは、
 ぞくぞくするほど嬉しい。
 それに、太郎さんが大好きだから。それだけだ」
と言っていた。その通りなのだろうと思う。
その純粋さが、太郎さんにはピンとくる。
太郎さんには解っている、ということも相手に通じる。
面白いものだ。

ルイスが後にこんなことを言っていた。
利根山さんを頼って日本に来た時、
青山のアトリエを訪ねた。初対面だったそうだ。
話しているうちに夕方になったら、
太郎さんが銀座に連れて行って、
ふぐを御馳走してくれた。
「これは猛毒のある魚なんだけれど、
 日本の料理人はちゃんと特別の修行をして、
 その毒のある部分を取り除いているから大丈夫だ。
 食べて御覧」
と丁寧に説明して、食べ方をやってみせてくれた。
真似をして、恐る恐るたべた。

その後、何度も日本に行っているけれど、
ふぐなんて御馳走してくれる人はいなかったから、
とてもよく覚えている、と。

こちらはそんなことすっかり忘れていたが、
太郎さんは相手に応じて等級をつけるとか
差別するという意識の全然ない人だ。
こんな奴には解らないだろうとか、
外国人だからいわゆる外国人向けの、
見てくれのいいまがいものを食べさせればいい、
とは絶対に思わない。いつでも、その時自分が食べたい
最高のものを御馳走する。解ろうと解るまいと。
それが太郎流。

ルイスには印象的だったらしい。
第2回 日系メキシコ人画家、ルイスとの再会。

さて、どこで絵を描くかが大問題だ。
壁のある建築現場ではとても仕事はできない。
それにスワレスの信念で、
「建築というものはどんなに立派に、堅牢に作ったって、
 いずれ壊される。寿命のあるものだ。
 しかし、絵画は永遠だ。だから
 必ず取り外せるようにしておかなければならない」
という、この考えは正しい。

その為に、太い鉄骨を組んで壁材を貼り、
分割して運べるように、七枚に切ってある。
土台はできているのだが、とにかく巨大だ。
クエルナワカに大きなお邸の空いたのがある。
それを提供するからアトリエに使ったらどうかとか、
幾つか候補を見せられたが、
そんなところまで通うのでは仕事にならない。

岡本太郎という人は根っからの都会児で、
パリ育ちの江戸っ子だから、
街の真中にいないと落ち着かないのだ。

そのうちにスワレスにいい考えがひらめいた。
彼はヒガンテというスーパーマーケットのチェーンも
経営していて、市内のミスクワツクにも店がある。
ここが大繁昌で、客を裁ききれないので、
三倍にひろげようと増築にかかっていた。
まだ屋根を架けはじめたところだったが、
広さも高さも十分ある。

大急ぎで屋根と外壁を仕上げ、
そこをアトリエにしてはどうかと言う。
雨天体操場のような空間で、ドーム型の屋根に、
明かりとりの半透明のプラスチックが並んで、
光線の量も申し分ない。
太郎さんも気に入って、
ここで仕事をはじめることにした。
1968年の4月末のことだ。

ルイス・西沢という日系メキシコ人の画家。
この国の美術界でもかなりの地位にいる人だが、
利根山光人さんの友達で、前から親交があった。

この人が画材の面倒から、助手の手配まで、
親身になって一切を仕切ってくれ、
太郎さんはただ描けばいいという、有難く恵まれた状態。

ルイスは武骨な大柄な人で、
見た眼はまったくのメキシコ人だ。
日本語は駄目だが、
フランスに留学していたことがあるので、
まあまあフランス語が通じる。
太郎さんは専らフランス語で会話していたから、
不自由はなかった。私は片言のスペイン語で、
ルイスの片言の日本語と、何とかやっていけた。

彼の限りなく優しい、あたたかい笑顔。
ぽつりぽつりと、いかにも誠実に、朴訥に話す。
昔の日本人の良さと、メキシコ人の良さだけを
併せ持っているような人で、信頼できるし、魅力的だ。

彼の奥さんのエバも、飾り気のない、あたたかい人柄で、
浮わついたお世辞めいたことは言わないが、
とても親しめる。いいお友達になった。

スワレス氏は太郎先生の為に、
いつもマリア・イザベルという、
レフォルア大通りの真中にある一流ホテルを
定宿にとっておいてくれた。
ロビーやダイニングルームも豪華だし、
部屋もいいのだが、掛けてある絵が気に入らない。
太郎さんは目障りになると言って、
読みおえた新聞をその上にかぶせてしまった。

一応荷物を解くと、まずルイスに電話した。
すぐ来てくれるという。
部屋を訪ねて、入って来たルイスは、
その新聞で覆った額を見て破顔一笑、

「太郎先生はやっぱり絵描きですねえ。
 これは面白い。僕も今度から、これをやりましょう」
と喜んでいた。

(明日につづく)
第1回 離れることが出来ない一枚の絵

以前、原爆の壁画 『明日の神話』発見の話を書いたが、
これを描いている時のエピソードがいろいろあって面白い。
もう少し書いてみようと思う。

スワレス氏に請われ、メキシコシティに飛んで
パルケ・デ・ラ・ラマの現場に立ったとたん、
太郎さんの頭にはこの絵がひらめいたらしい。

帰ってくるとすぐ、翌日からもう
エスキースを描きはじめた。1967年9月8日のことだ。

中心には炎を噴いて燃えあがる骸骨。
華やかに、と言いたいほど、
ひらききって画面を圧する紅蓮の炎。
それを取り巻いて、原爆のキノコ雲が、
幾つも幾つも、むくむくと湧き上がり、増殖してゆく。
先の方の小さいのは無邪気な子供の顔をして、
ペロっと舌を出しているのもいる。
右下の方には、死の灰をかぶった第五福竜丸が
ヒョコヒョコと、マグロをひっぱっていたり。

彼は頼まれて現場に立つと、その瞬間に、
出来上がった作品の形、彩り、ディテールに至るまで、
くっきりと浮かびあがるたちなのだ。
それが置かれる空間全体との対応、響きあいまで。

ひらめいたものを具現するために、
デッサンを重ね、エスキースも描くが、
それは自分の内にはっきり見えているものを、
みんなに見えるように、正確に、
率直につたえようとする為であって、
迷ったり、試行錯誤ということはない。

この時も、ずっと前から予定し、
あたためていたモチーフであるかのように、
ぐんぐん描きすすめていった。

キノコ雲の下、骸骨の背景には、
シルエットとなって燃えあがる人間たちの群が、
それぞれ小さい炎を噴きあげて連っている。
無限に続く亡者の行進。

右端、一番外側には、
奇妙な虫のような魚のような不思議な生きものたちが、
わらわらと逃げてゆく様子。
さまざまのディテールが
次から次と繰り出すように描き加えられ、
一週間もすると、
第二弾の幅1.95メートルの原画が描きあがった。

だが、とにかく最後は幅30メートル以上の大きな壁だ。
2メートル足らずの下絵から拡大するのでは誤差が大きい。
更にだんだんと大きくして行って、
太郎さんは遂に三分の一、
10メートルの原画を描くことにした。

キャンバスは五枚に分割して、
出し入れにも、運ぶのにも差し支えないようにしたが、
アトリエにはとても並べられない。
どうしても全体を一ぺんに見たいときは、
テラスに持ち出して眺めるしかない。
これもいちいち、大変だ。

体育館でも、工場の隅でも、
どこかアトリエに貸してくれるところはないか。
探しているうちに、耳よりな話が飛び込んで来た。
飲み友達だった三菱地所の偉い人が、
皇居のお堀に面して建った国際ビルが、
まだ全館うまっていない。
九階のワンフロアーがあいている。
今のうちだけなら、そこを使ってもいいと言ってくれた。
渡りに舟だ。

早速行ってみると、ひろびろとしたワンフロアー、
10メートルなんて何でもない。
ひきもとれるし、皇居の緑を一望する
窓からの眺めも気持ちよく、
勿体ないような贅沢なアトリエだ。

有難く拝借して、67年の12月から翌年1月にかけて、
毎日ここに通い、一気に大作を描きあげた。

さあ、これを持って行って30メートルの壁にかかろうと、
渡航の手続きをはじめたところへ、やはりメキシコだ。

壁の寸法が変わった、と言って来た。
プロポーションも少し違うし、何よりも、
左右の下の部分が階段の踊り場になって、
スパッと削られる。

となると、右下の、第五福竜丸が
マグロを引っ張ってるところも切れてしまうし、
左下の未来の人類のユートピアを思わせる楽園も
チョン切られてしまう。
向こうに行って、それを修正しながら
大画面を描くのは大仕事だ。

せっかくの10メートルの三分の一原画は使えなくなった。

急遽、旅行をのばして、
その踊り場の部分を削った画面に描き直し。
さすがに、もう一度10メートルを描くのはしんどいし、
時間的な余裕もないので、五分の一にして。
これが今、名古屋市美術館に入っている最終の原画だ。

いろいろ苦労させられたが、
太郎さんは困難があればあるほど
燃えあがって挑むタチなので、結構楽しそうだった。

パルケ・デ・ラ・ラマの仮事務所、
現場の本部で、巻いて行ったキャンバスを貼って、
スワレスに見せた。

「うーむ」

とうなった。眼をむいて、

「凄い。これはすばらしい。これこそ世紀の傑作だ」

吸い込まれるように、近寄っては眺め、
離れては、そり返るようにして全体を味い、
まわりに人がいることなど完全に無視して、
絵に没入している。

お昼すぎに絵を披露して、
太郎さんはホテルに引き上げたのだが、
スワレスはそれからずっと、
椅子を据えて絵の前に座ったまま、離れることが出来ず、
とうとうそこで夜を明かしたそうだ。
※展示想定図。実際とは異なります 「明日の神話」に会えるのは、
 2006年夏です。
2005.9.9

愛媛で修復が行なわれている壁画『明日の神話』は
すべての修復を終えたあと、
2006年の夏に、東京・汐留にある日本テレビで
イベント「GO!SHIODOMEジャンボリー」で
一般に公開されることが決まりました。
日本テレビのイベント会場での展示は、約2ヶ月間となる予定です。
くわしくは、日本テレビのこちらのサイトをごらんください。

左右30メートルの、視界からはみ出るような
巨大壁画の実物を見ることができる世界ではじめての機会となります。
いまから約1年後となりますが、どうぞたのしみになさっていてください。

また、日本テレビ社屋ロビーには、修復現場の中継カメラ画像や
『明日の神話』の下絵となる原画を左右に操って見ることのできる
「ユビクウインドウ」というスクリーンが設置されています。
ぜひお出かけになってみてくださいね。







愛媛で修復作業が進んでいます。2005.9.9

岡本太郎の描いた巨大壁画「明日の神話」は
メキシコから日本に運ばれ、
愛媛県東温市にある作業場で、
修復作業を行なっています。
「明日の神話」修復を手がけるのは、
日本を代表する絵画修復家のひとり、
吉村絵美留氏率いるチームです。

壁画は現在、細かいかけらを合わせると
2000にものぼるパーツに解体されています。

修復には、大きく分けて
以下の8つのステップがあります。
1 大きなパーツを相互に接合
2 背面に補強用構造材を接合
3 小さなパーツの接着
4 画面洗浄
5 絵具欠損部の補填
6 補填部補彩
7 保護膜の塗布
8 全体調整

これらのステップのうち、現在は
1を進めながら2の準備をしているところです。
赤外線による絵の分析や、
温度や湿度を細かく測定したりすることで
どこにどんな絵の具が乗っていたか、
行方不明になっていた間にどんな原因で損傷があったのか
などを調査します。
その結果をもとにして、
この壁画に最適な方法をその都度模索しながら
修復を進めています。
たいへん大きな作品(縦5.5メートル、横30メートル)
ですので、作業は困難を極めますが、
現在、おおむね順調に進んでいます。

作業の進捗は、現場からのレポート
「『明日の神話』の現場から」のコーナーで
お読みいただくことができます。
吉村絵美留(よしむら・えみいる)氏プロフィール

哲学者・谷川哲三、修復家・黒江光彦両氏に師事した後、
1973年に修復家として独立。
アメリカ、ヨーロッパ、カナダなどの修復研究所と技術交流を重ねながら、
さまざまな修復を手がける。岡本太郎作品の修復実績も豊富。
『明日の神話』再生プロジェクトのメンバーのひとり。
岡本太郎について、くわしくは
岡本太郎記念館
川崎市岡本太郎美術館
ほぼ日刊イトイ新聞「なんだ、これは!ー岡本太郎は、生きているー」
のページをごらんください。
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