岩田さんの本をつくる
任天堂の元社長、
岩田聡さんのことばを集めた本をつくりました。
編集を担当した永田泰大が、
本ができるまでのことをすこし振り返ります。
待っているみなさんへの、
みじかい挨拶みたいにして。
「社長が訊く」の起ち上げ。
2000年、岩田さんは
任天堂の社長だった山内溥さんに見込まれて
任天堂の取締役経営企画室長に就いた。
そして2002年、42歳という若さで
同社の代表取締役社長に就任する。
自分の経歴の説明を重ねてしまって恐縮だけれど、
ぼくもそのころ長く勤めたゲーム雑誌の編集部をやめ、
一瞬のフリーランス期間ののちに
糸井重里のいるほぼ日へと移ることになった。
糸井重里のつくったほぼ日刊イトイ新聞は、
岩田さんが移ったことにより、
任天堂といっそう強いつながりができていて、
しばしば任天堂の情報をコンテンツにした。
ゲーム雑誌で勤めた経験のあるぼくが
その記事を担当するのは必然的なことだった。
つまり、ぼくは、またしても、
糸井重里と岩田さんのいる場に同席できるようになった。
やぁ、なんたる幸運、と、
こうして書いていてもしみじみ思う。
糸井と岩田さんは、しばしば会った。
それは録音されてコンテンツになることもあったし、
ただ会っておしゃべりするということもあった。
ふたりは、なんというのだろう、
友だちとして、仕事仲間として、先輩後輩として、
とても強い結びつきがあった。
互いに互いを強くリスペクトしていた。
忙しい最中にスケジュールを調整し合って
ふたりはよく会って話したけれども、
その話がおもしろくなかったことなんてただの一度もない。
もちろんぼくが同席できたのは
ふたりが会って話した場のほんの一部に過ぎない。
けれども、ぼくが同席する岩田さんと糸井の話は
毎回、かならず、おもしろかった。
コンテンツになる前提で録音しているときも、
ただふらりと岩田さんがやってきて、
録音を気にせずにしゃべるときも、
ふたりの話はいつももれなくおもしろくて、
終わりの時間が来るのが、毎回、毎回、惜しかった。
そして、2006年、
ぼくは岩田さんから二度目の指名を受ける。
「Wii」という新しいハードをリリースするにあたって、
岩田さん自身がインタビューアーとなって
任天堂の開発者たちを取材するという
かなり規模の大きなコンテンツをつくることになり、
その起ち上げの構成と編集を任されたのだ。
岩田さんはなによりも、
大事なハードを世界に向けてリリースする間際で、
「このハードになにを込めたかということ」を、
じぶんたちのメディアから直接(「直接!」)、
ユーザーに伝えたいと思っていた。
いまにして思えば、それは『スマブラ』のときに
ぼくが呼ばれたことととてもよく似ている。
ぼくは岩田さんたちと
そのコンテンツの名前や構造を話し合い、
それをかたちにしていった。
実際のインタビューの時間も含めて、
ぼくは岩田さんとけっこう長い間、
一緒に過ごすことができた。
あんな濃密な場で岩田さんとやりとりできて、
幸運だったと思う。
取材そのものは9つのセクションに分かれていて、
それぞれにたっぷりと時間を取った。
取材の前後には、
「永田さんはどう思いましたか?」なんて
感想を求められることもあった。
そこでぼくがいくつかの仮説を投げると、
即座に答えが返ってきたり、
あるいはすこしの沈黙のあとに
岩田さんから新しい仮説が飛び出したりして、
それはもう、とんでもなく刺激的な経験だった。
そのコンテンツは「社長が訊く」と名付けられ、
長く続く任天堂の名物コンテンツとなった。
インタビューは英訳され「Iwata Asks」という名前で
いまも世界中のゲームファンに読まれている。
「社長が訊く」をかたちにしたあとも、
ぼくはしばしば岩田さんに呼ばれて
いくつかの取材をまとめた。
それは「社長が訊く」のなかの
新シリーズにとして掲載されたこともあるし、
ほぼ日のコンテンツになったこともある。
めずらしい例としては、
雑誌BRUTUSの「糸井重里特集」に
岩田さんに出てもらったことなんかもある。
思えば、1996年にお会いして以降、
ずいぶんぼくは岩田さんのことばを編集してきた。
岩田さんの登場するコンテンツは
どれもたくさんの人に読まれて、
誰かが熱い感想をくれたりするたびに
ぼくもしょっちゅう読み返したから、
岩田さんが口にした重要なフレーズは
いくつか諳んじることさえできる。
岩田さんのフレーズが自分にしみついていることを、
なんだかとてもうれしく思う。
変な話だけど、岩田さんが亡くなったあと、
糸井重里といっしょに、
「岩田さんがいたらなんて言うかね?」というのを
冗談で言い合うことがある。
つまり、岩田さんが言いそうなことを、
言いそうな口調で言い合うのだ。
ぼくと糸井は、
冗談のレベルでなら十分にそれができる。
こういう言い方でこういうことを言うんじゃないかと、
おもしろがることができる。
もっといえば、ぼくは
糸井と岩田さんのやり取りをずっと編集してきたから、
こういうふうにふたりが言い合うんじゃないかという、
ちょっとした架空のやり取りさえ
たぶんつくることができると思う。
でも、そういうことができるなあと思った瞬間、
あるいは糸井と「岩田さんならこう言うね」を
たのしく言い合ったあと、
ほんのちょっとだけ悲しい気持ちにもなる。
もう新しいことばを聞くことは
できないんだな、と実感するからだ。
「私はこう思うんですけどね──」という、
いかにも岩田さんらしいフレーズは思い浮かぶけれど、
そのあとに岩田さんはあたらしい発見や仮説を
たのしそうに続けてくれはしない。
当たり前のことだけど、
なんだかそれは、とてももったいなくて、
やりきれないことなんですよ、ほんとうに。
岩田さんの本をつくろうと思った気持ちの根っこには、
そういう、もったいなくて、やりきれない気持ちが
やっぱり作用していると思う。