ハードカバーの本が売れていくのって、 見ていてワクワクしてくるんですよ。

── 今回、赤瀬川さんには
カバーの「三位一体」のイラストを
お描きいただいたわけですが‥‥。
赤瀬川 はい。
── まだ内容をお見せしていなかったとき、
自分の頭からでてきたものじゃないと
絵にしづらいなぁと、おっしゃっていました。
赤瀬川 ええ。「三位一体モデル」って、
かたち自体はもう決まってるものですからね。
みっつの丸がある、と。

僕は、プロのデザイナーや
イラストレーターとはちょっと方向が違うので、
こうこうこうだっていうものを、
できるだけいいかたちにしていくというね、
それがどうも、難しいんですよ。
── でもゲラを読んでいただいて‥‥。
赤瀬川 はい、すごく納得したといいますか、
中沢さんの理論の骨組みにね。
逆に言えば、
そうじゃないと描けませんしね。

── 中沢先生は芸術というものも
「三位一体モデル」で考えられると
おっしゃっているんですが、
赤瀬川さんからご覧になって、
なにか、感じたことなどございますか?
赤瀬川 うーん、そうですね‥‥。

芸術が「聖霊」にあたるっていうのは、
とうぜんなんでしょうけど‥‥。

増えたり、漂っていくといいますか、
なにか消えていくようなもんだっていうのが、
芸術ってものにたいする、僕の実感でね。
── 消えていくもの?
赤瀬川 うん、逃げていくと言いますかね。
── 作品として残しても、ですか?
赤瀬川 作品から蒸発するっていうこともあるし。

あと、いわゆる「芸術」というかたちに
飽きちゃったってこともあるんですよ。
これは芸術ですよって
あらかじめレッテルを貼られてるものから
得るものって、本当は少ないんです。
── それで始められたのが
「トマソン」などの路上観察なんでしょうか?
赤瀬川 そうですね。そっちのほうが
だんぜんおもしろくなってきて。
つくるのよりも、
新しいものを、見られるんですね。

へんな言いかたですけどね、
路上観察を始めたころは、
芸術っていうのは
消えて路上にいったんだな、
隠れたんだなっていうことを感じながら、
夢中でやってたんです。
── 増えたり、漂ったり、消えていったりとは
動きだけでもまさに「聖霊」のようです。
赤瀬川 もっと言いますと、これは芸術です、
素晴らしいですよって与えられて、
そういうスタイルで美術館に
出たり入ったりするじゃないですか。
── ええ。
赤瀬川 それはそれでいいんだけど、でも逆に、
そうやって芸術が「公認」されちゃってると、
本気でおもしろいものっていうは
それぞれが自分で探さなきゃならない
ものになると、思ってるんです。
── なるほど、なるほど。
赤瀬川 そうなると、
芸術ってのは逃げ水のように、
逃げていっちゃうもんなんですよね‥‥。
これ、表現のしかたは
ちょっと難しいんですけれど。
── 一方で、いまは
たとえば高級ブランドのカバンに
現代芸術家のイラストが載っていたり
するわけじゃないですか。
赤瀬川 それはようするに、
ま、デザインですよね。
── 逃げていくものとは違う、と。
赤瀬川 いま、隆盛なのは、デザインですよ。
そのあるものを
「芸術」という名前で呼んで、
プラスアルファをつけているんですね。

芸術ってのは反面サギですし。

── サ、サギですか!
赤瀬川 経済世界のなかでは、
「芸術」と呼ぶと、けっこう惑わされて
売れるってことがあるんですよね。

でも、惑わされる快感というのも、
もう一方では、あるわけですからね。
── ええ、ええ。
買うがわにとってみれば。
赤瀬川 まあ、そんな単純な話でもないんだろうけど、
なんて言うかな、
芸術が活用されてるんじゃないですかね、商売に。

そして、おおいに活用しがいの
あるものだと思いますよ、
芸術っていうのは。
── 芸術と、商品のデザインや広告なんてお話は、
まさに「三位一体」で
考えたくなるような素材ですね。
赤瀬川 だから、いまの世のなか、
実際に謳歌してるのは
デザインなんじゃないかと思うんですよ。

それに、僕なんかも
デザイン物件のほうが感動するっていうか、
すごいなって本気で思うのは
デザインの作品とか建築なんですね。
制約のなかでのものといいますか。
── あ、それは意外です。
赤瀬川 世のなかの歯車と
かっちり合ってるわけですよね。
実用の世界に片足を踏ん張って
立ってるといいますか。
そういうものって
見ていて、強いんです。

3〜4年前に、上野の博物館で
アールデコの展覧会があったんですけど
そこでいちばん感動したのは、
肉だかハムを切る機械。
あれはもう、欲しくなった(笑)。

アルミでできていてね、
すごいかたちなんですよ。
── ものすごいと言いますと?
赤瀬川 単純な言いかたをすると、
余分なちからが入ってるんです。
── 余分なちから。
赤瀬川 いまとは違って、経済性や合理性が、
まだ世のなかの一部分であった時代のね。
それに、感動したんですね。

たとえば、むかしは
大工さんの仕事にしても
もうそのへんでいいんだよ、って言われても
職人の意地として、
ここで仕事は終えられないっていうので、
お金とは違うちからをそそぐというのが
あったと思うんです。
── それがいまでは、
耐震偽造なんて事件も起きたり‥‥。
赤瀬川 経済性なんて追求していないような
さっきのハムの機械にしても、
そういった「伝票に書けないちから」が
入ってるんですよね。
── ああ、伝票に書けない‥‥。
赤瀬川 今はぜんぶ、伝票的に計算できる、
数値化できるものになってますよね。
だからこそ、職人として気が済まないっていう、
いい意味での「余分なちから」に、
感動したりしているんじゃないでしょうかね。



<つづきます>



2006-12-27-WED