ロシアでは、「三位一体」を
つぎのように、理解しています。

私たちの世界の根底には
聖霊=スピリットというものがある。
これは、目に見えないちからです。
その目に見えないちからというのは
人間が理解したり、
知覚したりしている世界の外から
私たちの世界に吹き出してくるちから。

だから、わたしたちの世界というのは
人間が理解したり、
それを計算できるものにつくりかえたり、
あるいは、
貨幣価値をつけて売ったりすることができる、
そういう世界だけでできているのではなくて、
その外側から、聖霊というちからが
わたしたちの世界に向かって
吹き上げてくる、吹き付けてくるのだ。

そして、その聖霊のちからを受けながら
「三位一体」のシステムは
動いているんだ、という考えかたです。

これに対して
西ヨーロッパで発達したキリスト教では
「三位一体」をそのようには考えなかった。

つまり、聖霊というものが
得体の知れない、
人間の世界の理解の外にある領域から
わたしたちの世界に吹き上げてきたり、
わき上がってくるという考えかたを、
西ヨーローッパの「三位一体」では、
受け入れなかったのです。



ロシアでは、「三位一体」を構成する
「父」「子」「聖霊」は、すべて同格です。

聖霊のちからが
わたしたちの人間の世界の外から吹き上げてきて、
わたしたちの世界を覆い尽くしていく、
そのちからによって
神も子も動くのだ、と考えているんです。

ところが、西ヨーロッパの「聖霊」は、
「子」と「父」、つまり
イエス・キリストと
その父である神が一体になったものから
流れ出してくると考えたのです。

ようするに、「聖霊」というものは
イエス・キリストと神のセットになった概念から
流れ出してくる、溢れ出てくるものとして
捉えられていたわけですね。

ですから、
おなじ「三位一体」といっても、
西ヨーロッパのローマ的な
「三位一体」の考えかたでは、
人間の世界の外の領域から
聖霊が吹き上げてくるという考えが、
最初からカットされてしまう、
そういう可能性があったんです。

ですから、近現代史において
東ヨーロッパと呼ばれる世界と
西ヨーロッパと呼ばれる世界が、
社会主義と資本主義、自由主義とに
わかれていましたが、
この対立は、とても古い起源を持っている、
と言うことができるのです。

ようするに、
ヨーロッパは中世のころに
最初の分裂を起こすんですけれど、
じつはここに、
いま述べたような
「三位一体」の理解の違いが、
ふかく関わっている、ということなのです。

その後、ご存知のように
東ヨーロッパでは経済的な発展が遅れ
反面、西ヨーロッパは資本主義と合体し、
猛烈な勢いで発展をすることが
可能になっていきました。



このことの大もとの部分にも
「三位一体」の理解法の違いが、関わっています。

経済発展の遅れたロシアが
最後まで固執していたのは、
「聖霊」という存在は
私たちの世界の外側から
生命を通して吹き出してくるちからであって、
それは決して「父」と「子」に
従属するものではない、ということ。

ところが、西ヨーロッパでは
「聖霊」というちからは
「父」と「子」という概念に
従属するものだと考えていました。

そして、従属すると考えたとたんに
うまく動きはじめたのが、
ほかならぬ
「資本主義」というメカニズムだったのです。

<つづきます>


2007-01-19-FRI