さらに、「三位一体」というモデルを用いると、
私たちの生活にとって重要なもの、
たとえば映画やテレビ、あるいはお金、
さらには社会のつくりかたにいたるまで
うまく表現できるようになってきました。
というのも、
この「三位一体」のなかには、
ひじょうに不合理なパラドックスが
仕込んであるからなのです。
パラドックスとは
論理的思考で考えると、
絶対矛盾に陥ってしまうもの。
しかし、それがないと
私たちの世界は成り立っていかない。
それが「パラドックス」ですが、
ある意味で言うとそれは、
まことに不合理的なものです。
ときどき神秘主義だなどと
批判されてしまうこともありますが、
しかし、人間が生きているということの
全体性を捉えようとすると
かならず、そうした不合理な部分を
わたしたちの思考のなかに
セットしておかなければならない。
そうした不合理、
つまりパラドックスを
「三位一体」説で考えると
とてもうまくセットできるのです。
これは、「2」の原理では、だめなんです。
それは、不合理を排除する
コンピューターと同じ原理だからです。
「2」の原理に立った瞬間、
世界を情報化したり、
すべてを貨幣価値として換算していくシステムに
陥ってしまいます。
このことは、「2」の「三位一体」に基づく
西ヨーロッパのキリスト教の内部に
経済的合理性や、
あらゆるものを情報化していこうとする
システムが発達したことと、深くかかわっています。
実際、西ヨーロッパのキリスト教の内部では
資本主義と科学技術とが発達し、
大もとのキリスト教を、うち倒してしまいました。
食い尽くしてしまったんですね。
ですから、西ヨーロッパの「三位一体」からは
鬼っ子のようにして、
現在の資本主義や科学万能主義、
あるいは合理主義というものが、
「三位一体」の構造を喰い破り、
外へあらわれてきて、
それがいまや、世界中に蔓延しようとしています。
しかし「3」の原理に基づいた「三位一体」で
この世界に起こっていることを考えてみると、
それまで思考のなかに組み込めなかった
パラドキシカルな部分を
うまくセットできるようになります。
それは、「聖霊」というものが
大変な不思議な‥‥合理化できない部分を
抱え込んでいるからです。
このことは、「三位一体」の図を
よく見てみると、わかります。
「三位一体」とは、
円をみっつ、重ねたように見えますけれど、
じつは、そうではないのです。
どういうことかと言うと、
「父」と「子」と「聖霊」が、
輪のように組み合わさっていて、
しかも、決して外れないようになっている。
つまり、ある部分を
どんなに引っ張ってみても
バラバラにならないようにできているのです。
そのなかのひとつ、「聖霊」について
すこしくわしく説明してみましょう。
これは、
人類が「こころ」を持った瞬間に、
その内面、あるいは自然の世界に
その実在を感じたものです。
わたしたちホモサピエンスには、
それまでの人類とは違う
こころの構造が発生しました。
『カイエ・ソバージュ』という本で
このことを繰り返し説明していますけれど、
わたしたち人類は
200万年、ひょっとすると300万年くらいの
長い歴史を持っている生きものですが、
現代のわたしたちのこころの構造が生まれたのは
そんなに古いことではなく、
およそ9万年から
10万年くらいまえだと言われています。
アフリカ、タンガニーカ湖のほとりでうまれた
わたしたちの先祖のこころには
ニューロンの構造が
ひじょうに複雑に発達した結果、
いろいろな機能のあいだを横断していく、
「流動的な知性」が発生したのです。
それまでの人類のこころのなかでは
たとえば、社会に起こることを考えたり、
植物の世界のことを考えたりする部分が
分離していたのですが、
それらを接続していく回路ができて、
そのあいだを縦横無尽に流れていく、
流動的知性が発生したのです。
そして、この知性が発生したとたん、
わたしたちの祖先は
宗教や経済、あるいは芸術などの活動を
スタートさせていったのです。
<つづきます>
|