いま、わたしたちの世界は
「1」「2」「3」という
みっつの原理で
動いているように思われます。

そして現在、もっとも優勢なのは
「2」の原理にしたがう考えかたです。

他方で、そうした「2」の原理に対し、
「1」の原理に立っている人たちが
猛烈な反発をしています。

彼らにとって「アッラー」とは、
情報化もできないし、計算もできない。

つまり「2」の原理に
徹底的に反するものです。
それを越えているものだから、
「2」の原理にしたがって
つくられている世界は、決して認めない。

情報化され、豊かな富でかたちづくられた
「2」の世界に対し、
あれは人間の本当の幸せではない、
ああした生きかたは
人間のこころのもともとの構造に
反しているんだと、反発しているのです。



しかし、もうひとつ、
「1」でもなければ「2」でもない。
「3」の原理に基づく世界があります。

これは、ごく自然な
人間のこころの構造に忠実な考えかたです。

そこでは、
人間のこころのはたらきを越えた、
その外側から溢れてくるような
動きにしたがっています。

絶対に合理化できないし、
矛盾のない論理であらわすことなど
できないものが、セットしてあるのです。

そこでは、世界を「1」の原理に
還元してしまうことを、拒絶します。

つまり、人間のこころは
「三位一体」の「3」という原理からできていて、
それがもっとも自然なかたちだからこそ
「1」には還元しない、という姿勢ですね。

しかし、「1」と「3」とは、
ふかい奥底で
つながるものがあるような気がします。

わたしたちのこころの奥底に
はたらいているもの、
わたしたちの本質をかたちづくっているものは
流動的な知性である。

人間の思考を越えたものが
わたしたちのこころの大もとをなしてるのだ、
という共通認識が
「1」と「3」の原理のあいだには、あるのです。

ですから、
わたしたちの思考に収まらないもの、
不合理なもの、過剰したもの、
こういったものをすべて排除したうえで、
計算可能な、商品として交換可能な、
あるいはすべてを情報につくりかえてしまう
「2」の原理に対し、
それでけでは決して十分でないし、
そうした世界のなかでは
人間は幸福にならないだろうということを
「1」と「3」の原理は
共同して主張することになるのです。



ですから、われわれ日本人が、
この「3」の原理、
つまり「三位一体モデル」を通じて、
自分たちが抱えてきた世界観や人生観、
あるいは自然についての考えかたを
もういちど捉えなおしてみることは、
とても有意義なことであろうと思います。

わたしたちは、
一神教のような宗教を持たない民族です。

社会のつくりかたにしても、
経済のつくりかたにしても、
こころの構造そのものが
ごく自然なかたちで成長してくるような、
そんなシステムを通じて、
経済活動や社会構造、そして人間関係を
かたちづくろうと、してきたのです。

そのために、一神教をはじめ、
ヨーロッパが考えるような宗教は
持たなかったのですね。

わたしたちのこころには、
あるいは
わたしたちの生きる世界の根本的な構造、
つまり「日本文化」には、
この「三位一体」というモデルが
いたるところに含まれています。

人間の本質とは、ただ流動的知性のみである。
あるいは、こころを超越した一個の神だけである。
われわれ日本人は、そんな認識を持ちませんでした。

われわれは、「三位一体」のモデルを
たくさん組み合わせて世界をつくっていけば、
それがもっとも自然なかたちであって、
そのなかで十分に幸せになることができるような
文化の構造をつくりだそうと、
努力してきました。

現在、世界を覆い尽くそうとしている
「グローバリズム」は
「2」の原理に、基づいています。

それに対し、強烈に意義を唱える
「1」の原理の人びとがいます。

そこで、わたしたち日本人は
「三位一体モデル」の
「3」の原理に立つ文化のなかで
こころを育ててきた者たちとして、
この現代世界に
とてもユニークな位置を
保つことができるような気がするのです。

「3」の原理をもとにした、
「三位一体」的な経済システム。
そのシステムは、
新たな資本主義というかたちをとるでしょう。

それを構想することは可能ですし、
「三位一体モデル」に基づく人間関係を
再構築していくことも可能だと思います。

わたしたちがいま、
たいへんな困難をまえにしていることは
多くの日本人が意識していることです。

もし、これを乗り越えることができるとしたら。

それを導いていくひとつのモデルたりうるのが、
「三位一体モデル」であるような気がしてなりません。

1時間の講演でした。
どうもありがとうございました。

<つづきます>



2007-02-02-FRI