糸井 |
大学というものの構造が、
固定化してしまっている、と。 |
中沢 |
はい。
ですから講義をしていても
どこか、限界を感じちゃうんですよね。 |
糸井 |
今日の「神田出張所」は、
「大学」とは違うんですかね? |
中沢 |
来てくださっている人は、
必ずしも大学生ではないですよね。 |
糸井 |
じゃ、こういうイベントを
やったりすることで
「大学」は流動するんじゃないですか? |
中沢 |
そうですね。
でも、社会人の集まる大学が
今日の「神田出張所」とか
「青山分校!」みたいになるかというと
そうでもないんですよ。 |
糸井 |
社会人入学の場合には
固定化した大学の知性を認めてる人が
そこに参加したいと言って
入学してくるから‥‥。 |
中沢 |
流動しないんでしょうね。 |
糸井 |
うーん。そういう意味でいうと
たとえば、「大学」を
そのまま交差点のまんなかに
置いたりすれば、流動するんですかね?
つまり、路上大学みたいなものが
もしあったとしたら‥‥。 |
中沢 |
寺山修司の演劇みたいですね。 |
糸井 |
あ、街頭演劇。
あれは、そういうことか。 |
中沢 |
演劇の構造に「聖霊」を入れてる。
観客と演じている者との
境界をなくす、とかって言ってね。
あれは、
そいうことだったんじゃないかな。 |
糸井 |
ああ、なるほど。
じゃあ、やっぱり
固まった構造を流動させるためにも、
今いる場所で、自分なりに
丸をみっつ描くことを
とにかく始めてみるのが‥‥。 |
中沢 |
いいですよね。
今度、映画について
ちょっとものを書き始めたんだけど、
映画って「三位一体」かな、なんて
思って考えてみたら、その通りでした。 |
糸井 |
ああ、そうですか。 |
中沢 |
だから、自分が抱えてる問題とか
ちょっとすっきりさせたいなっていう
問題なんかがあったら、
まず、丸をみっつ描いて考えてみる。
すると、すーっと、
そこにはまってくことが
多いんですよね。 |
糸井 |
それは、このモデルが
すごく原始的というか‥‥。 |
中沢 |
ええ、原始的なモデルです。
もちろん、
複雑な現代世界に起こっていることが
このみっつの丸で、
すべて完全に
解決できるわけじゃないですけれども、
でも、どんな複雑なできごとでも
大もとで起こってるのは、
だいたい原始的なことですから。 |
糸井 |
中沢さんご自身としては、
みっつの丸で考えるときに、
どこから最初に、埋めるんですか? |
中沢 |
僕は性格上、あの‥‥。 |
糸井 |
性格上なんですか(笑)。
|
中沢 |
「聖霊」ですよね。 |
糸井 |
そうですか。 |
中沢 |
たとえばいま、この現場で、
何て言うのかな、
表面には出てきてないけれども、
固定化した構造に
揺さぶりをかけてくる
ちからって何だろう、と
考えてみるんです。
そして、その揺さぶりかけてくるものを
「聖霊」の部分に描いてみる。
そうすれば、あとのふたつは
自動的に出てくるような気がします。 |
糸井 |
ほう。 |
中沢 |
以前、糸井さんと話してるとき、
映画の『キングコング』についての
話になったじゃないですか。 |
糸井 |
『キングコング』を
「三位一体モデル」で‥‥。 |
中沢 |
ええ、考えてみようって。
その場合、やっぱり
「キングコング」が
聖霊の部分に置かれますよね。
コントロールできない存在ですから。 |
糸井 |
何をしでかすかわからない。 |
中沢 |
どっち行くかもわからない。
人間の意志を越えた
動きをするちから、です。
そして、
どっち行くかわからないちからとしての
キングコングが、恋をするわけです。
恋というものは
必ず「イメージ」と結びつきます。
イメージというのは「幻想力」とも
言い換えられるわけですけれども、
そこで出てくるのが、あの女優さんです。
でも、このキングコングと
女優さんの恋愛だけで
お話が成り立つかっていうと、そうではない。
キングコングの悲劇は
それだけでは生まれないんです。
そこに「ニューヨーク」や「映画会社」、
つまり「市民社会」という「父」が出てきて
それらみっつが組み合わさったとき、
キングコングの悲劇が
生まれたというわけですね。 |
糸井 |
あれ、「都会」が出てこなかったら
『キングコング』って映画は
成り立たないですよね。 |
中沢 |
「社会」「イメージ」「聖霊」の
みっつがそろってはじめて、
あの悲劇の物語は、生まれたんですね。
<つづきます>
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