── |
深澤さんのデザインって、
「ありそうでなかった」と
形容されることが多いと思うんですが‥‥。 |
深澤 |
ええ、よくそう言われますし、
僕自身、その表現は気に入っていますね。 |
── |
で、言葉の使いかたが適切かどうかは
分からないんですけれども、
それを僕たち消費者が表現するとなると、
「シンプル」と言うと思うんです。 |
深澤 |
はい、そうかも知れません。 |
── |
深澤さんにとって
「シンプルなデザイン」って
どういうことなんでしょうか?
「デザインをしない」
ということとは、違いますよね? |
深澤 |
「合理的で、必然的」、
ということでしょうね。 |
── |
それは言葉にすると、
一体どんなデザインなんでしょう? |
深澤 |
違和感のないデザイン、ですね。 |
── |
どんな場所に置いても違和感がない、
ということでしょうか? |
深澤 |
いま私たちが共有している
状況とか環境ということで、
どこでもということではありません。
でも、そういうデザインになっていなければ、
僕のやってきたことは、失敗でしょうね。
ありそうでない、という言いかたも
もともと、そのモノが存在する前から
その場所には、そのモノのイメージがあった、
つまり
みんなが「良いもの」として共有していた
イメージを表現したんだ、
というふうに、捉えています。
だから、そういうふうに言われると
嬉しいんですよね。 |
── |
デザインとは気づくことだ、
というようなことも
おっしゃっていますね。 |
深澤 |
やっぱり、たいがいの場合には、
どういうデザインのモノが欲しいのか
分からないことが多いんじゃないかと。
で、僕が何かをデザインして、
それが、いいデザインだ、
とても魅力的だと、言ってもらえたとします。
あ、これが欲しかったんだよ、って
言ってもらえたとしますね。 |
── |
はい。 |
深澤 |
そういうときって、みんな
「欲しいデザイン」は知っていた。
でも、気づいていなかったんです。
つまり、
「自分のなかに
しみ込んでいたんだけれども
具体化されていなかったイメージ」が、
僕という人間を通じて
具現化された、ということ。
だからその場合には、
その人の気づいていなかった思いを
具現化したわけで、
「僕のデザインではない」んですよ。 |
── |
深澤さんのデザインではない? |
深澤 |
僕はただ、プロとして、
みんなが欲しかったものを
具体物として表現して、
「気づく」ことをサポートしただけ。
そういうスタンスで、
いつも、デザインをしています。 |
── |
では、深澤さんにとっての「シンプル」、
つまり「合理的で必然的」というのは
モノの表面的なデザインだけを
指しているわけでは、ないんですね。 |
深澤 |
欲しかったけれど
気づいていなかったイメージを
具体化したとき
そこに違和感はないでしょう。
そいういう意味で、
合理的であり、必然的なんです。 |
── |
過不足がない、ということ? |
深澤 |
そういうことです。
だから、僕のデザインは、
表面だけ見たら、
むしろインパクトが少ないと思う。
でもそれが、
僕の考えるデザインなんです。 |
── |
でもそれは、一般的な
デザインにたいする理解とは‥‥。 |
深澤 |
違うこともあるでしょうね。
デザイナーも、一般の人も
「デザイン」というのは、
刺激的なものだ、というふうに
思い込んでいるかもしれません。
でも、「デザイン」という意識を
取り去ってモノを見たら、
つまり、
いま、自分に必要な道具って
どんなものなんだろう、
という意識でモノを見たら、
必ずしもそうだとは言いきれない。
むしろ僕は、人とモノとが
「いい関係」を結んでいるものを、
「いいデザイン」だと思っています。 |
── |
なるほど。 |
深澤 |
だから、逆に言うと、
その「いい関係」をだめにしてるのは、
刺激的でなければならない、という
現代のデザイン観そのものかもしれない、
と思うんですよ。 |
── |
人とモノとの関係性、ですか。 |
深澤 |
でも、ファッションをはじめ、
刺激を与えることが重要視される分野で
「デザイン」という言葉が使われ、
理解されてきたから、
それはある意味で、
無理のないことだとも思います。
ただ、僕がやっているデザインは
おもに「人間の道具」ですし、
さりげなく謙虚に
そこに佇んでいてほしいようなモノ、
そういうモノを
つくっていきたいなと思っているんです。
<続きます>
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