みんなCM音楽を歌っていた。 大森昭男ともうひとつのJ-POP


名作「三ツ矢サイダー'73」のCM

糸井重里 この時代のことで、みんなに前提として
知っておいてほしいことは、
吉田拓郎が歌謡曲の市場でヒットした、
という特殊な例をのぞいては、
アーティストの集客キャパが
とても小さかった、ということなんです。
5つのバンドが集まってコンサートをして、
日比谷公会堂や渋谷公会堂が
ようやくいっぱいになる、というくらいです。
キャロルとサディスティック・ミカ・バンドが
いっしょにやっていたし、
大瀧詠一・細野晴臣・シュガーベイブ・
ムーンライダーズで
ひとつのコンサートをやったりしていました。
つまり、いまみたいに、
洋楽的な音楽を仕事にする市場なんてなかったし、
逆にいえば、その人たちが芸能の商品にならずに
いちおう、生きていられるところにいたんですね。
こういう人たちの魅力を世に伝えるお皿として、
大森さんが、「ロッテ歌のアルバム」ではない場所、
テレビのコマーシャルという場所で、
彼らの音楽を流す場所をつくったんです。

(糸井重里)



今日の立ち読み版

ただ、吉田拓郎はすでに“時の人”だった。
「結婚しようよ」で爆発的に火がついた
“フォークの貴公子”が作った
コマーシャルソングというだけで話題性は十分だった。

そういう流れで言えば、
ポップスとコマーシャルソングという関係で
決定的な意味を持っていたのは、
1973年に大森昭男が手がけたアサヒビールの
「サイダー'73」だと言って間違いない。
作詞・伊藤アキラ、作曲は大瀧詠一
(ペンネーム多羅尾伴内で作曲)である。
彼は、“日本語のロックの元祖”と言われたバンド、
はっぴいえんどの一員だった。
「演出家の結城臣雄さんと
 新しい人を起用しようということで
 いろんな音楽を聴いたりしていたんですよ。
 その中ではっぴいえんどに出会った。
 どうやら解散するらしい、
 メンバーの大瀧詠一はソロアルバムを出す、
 そんな状況でしたね」

はっぴいえんどがアルバム「はっぴいえんど」で
デビューしたのは1970年8月。
レコード会社はURCだった。
デビューする直前まで
岡林信康のバックバンドをつとめていた。

大瀧詠一(G・VO)、細野晴臣(B・VO)、
松本隆(D)、鈴木茂(G)という4人。
粘りつくようなリズムと湿った情感、
日常会話の平易さと
文学的な難解さが混在した日本語の詩情。
4人の個性が強烈に主張し合うようなアンサンブルは
それまでのグループサウンズともフォークソングとも
違う音の厚みと世界観を持っていた。

1972年、彼らは、10月に三枚目のアルバムの
レコーディングをロサンジェルスで行い、
その過程で解散を決めた。
「HAPPY END」と題されたそのアルバムが
発売されるのは1973年1月。
大瀧詠一はそれに先駆けて1972年12月に
ソロアルバムを発表した。
大森昭男が彼に「コマーシャルソングをやりませんか」
と持ちかけたのはそんな時だった。
「朝11時ぐらいだったと思います。
 コマーシャルソングをお願いしたいんですけど、
 って大瀧さんの自宅に電話をしましたね。
 『何でしょう』『三ツ矢サイダーです』。
 ちょっと間があって『分かりました』と。
 『で、詞はどなたが』『鶏郎門下の伊藤アキラさんです』
 っていう話をしました」

伊藤アキラは、広告関係者の中でも
フォークに理解を示していた一人だった。
「フォークのコンセプトは
 “生活歌”だと思ってましたからね。
 鶏郎さんの作っていたコマソンも生活歌でしたから、
 全く違和感なかったですよ」

そういう伊藤アキラも、大森昭男から
「大瀧詠一です」と言われた時、
彼の名前も知らなかった。
とはいうものの、彼も
「どういう人ですか」とは聞かなかった。
大森昭男は「色々注文を出すと思いますけど」
とだけ付け加えた。そして、伊藤アキラは
二回目に大森昭男から電話を受けた時、
大瀧詠一からの“注文”を聞かされた。
「始まりの音は母音の“あ”で始めてくれ
 ということでしたね。
 三音四音の組み合わせで最初は“あ”。
 自分でも歌う人ですから
 イメージがあったんでしょうけど、
 かなり厳しい注文でした(笑)」

なぜ“あ”だったのか。

2000年に『コマーシャルフォト』で掲載した
「日本のCM音楽50年」の取材で会った大瀧詠一は
そんな質問に、
「まだ現役を続けるつもりだから」
と笑って明かそうとしなかった。

ただ、ヒントは残されている。
彼は、「サイダー」の話が来た時の彼の状況を
「解散は決めたものの次の仕事は決まっておらず、
 しかも子供が生まれるという大変な状況で、
 解散決定後、最初の仕事だった」と言った。

はっぴいえんどの傑作であり
日本のロック史上の名盤とされている二枚目のアルバム
「風街ろまん」には、
大瀧詠一が初めて書いたオリジナルという
「愛餓を」という曲が入っている。
そして、一曲目の「抱きしめたい」は
“淡い光が 吹き込む窓を”という歌詞で始まっている。
はっぴいえんどの言葉を書いていたのは松本隆だった。
彼は、1983年に音楽評論家、萩原健太が書いた
『はっぴいえんど伝説』(八曜社)の中で、
「見破られない形で七五調をやる」
と自分の手法を語っていた。

解散後の初仕事を“あ”で始まる
三音四音の組み合わせにする。

それは、彼の第一歩という意識の表れであり、
はっぴいえんどで掴んだ方法論の
実践だったのではないだろうか。

 “あなたがジンと来る時は
  私もジンと来るんです”

伊藤アキラが書いた歌詞は、
見事にそんな条件を満たしている。

1973年2月26日、青山のKRCスタジオ。
大森昭男の手元には「サイダー'73」の
そんなレコーディングデータが残されている。

一年持たないのではないか──。

発足二年目。
CMソングの歴史に残る名作「サイダー'73」が、
ON・アソシエイツのその後を決定づけたと
言って過言ではないだろう。

大森ラジオ 1973年
アサヒビール「サイダー'73」
作詞 伊藤アキラ
作曲 多羅尾伴内
アーティスト 大瀧詠一

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2007-08-28-TUE





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