みんなCM音楽を歌っていた。 大森昭男ともうひとつのJ-POP


CMソングからイメージソングへ

糸井重里 この頃、レコード会社の人たちが
企業に、歌のテープをもって回っていました。
うちのアーティストをCM音楽に起用してください、って。
そういえば大瀧詠一さんの「君は天然色」の音源、
ぼくはどこかの化粧品会社で聴いた覚えがあるんです。
たしか「完成度が高すぎて、よくないんじゃない?」
なんて意見を言ったように思います。

アーティストが、CM音楽に使われることを目的にして
曲をつくることもありました。
シーナ&ロケッツの「ピンナップ・ベイビー・ブルース」、
ぼくが作詞をしているんですが、
そういうふうにつくった1曲なんです。
シャネルズが出てきて、竹内まりやが出てきて‥‥
そういう時代。
そうそう、「不思議なピーチパイ」
(安井かずみ/加藤和彦)のタイトルは、
最初に「ピーチパイ」っていう
キャンペーン名が決まっていて、
そこに「不思議な」っていう言葉を
あとからぼくがつけました。
そんなふうにコマーシャルをつくっていたんです。
お客さんの中に、作り手がいた、っていうことですよね。

(糸井重里)



今日の立ち読み版

「レコード会社は、概して冷ややかでした。
 CMソングを“シャリコマ”と呼んだりしてましたし。
 一段下に見ていたと思いますね」

大森昭男は、その頃のレコード会社と
CMソングとの関係についてそう言う。
シャリ、つまりお鮨で言うお米のご飯。
不本意ながらメシのためにやる音楽という芸能界風隠語だ。

彼が、自分の作ったCM音楽を
レコード化しようと動いたのは、
1974年のことだ。
曲はりりィの「春早朝」だった。
資生堂の「スプリングキャンペーン'75」の
「ナチュラルグロウ 彼女はフレッシュジュース」
用に作られた曲だった。
「キャンペーンは三カ月くらいで
 終わってしまったんですよ。
 でも、良い曲だったんで、
 彼女のレコードを出していた
 東芝レコードに売り込みに行ったんです。
 『コマーシャルですか?』って言われて
 やんわり断られたんですね。
 でも、彼女の事務所のプロデューサーが
 気に入ってくれていてB面に入れてくれまして。
 そうしたらそっちの方が良いという評判が立って、
 A面にして発売し直したという経緯がありました」

世の中の反応がレコード会社を動かして行く。
りりィは、翌1975年に作られた
「'76資生堂春のキャンペーン」にも起用されている。
その時の曲が「オレンジ村から春へ」だった。
その時は、最初からレコードにするということが
決まっていた。
「'75年春の『彼女はフレッシュジュース』から
 CFにおける音楽の役割が、
 従来とは異なった方向に傾いていく。
 本来CMソングとは言うまでもなく
 そのCFに付随して存在するものであるが、
 これがCFから独立したかたちで
 レコード会社から市販され、ヒットした時、
 そこにもう一つの宣伝手段としての役割が発見される」
「オリジナルの新曲として人々の耳に
 スムースに吹き込まれることが、
 おのずからプロモーションの
 宣伝効果へとつながってゆく」
「“CMソング”から“イメージソング”と
 呼ばれるようになった、この独特の音楽の誕生は、
 この時期の大きな事件と言って良いであろう」

資生堂が1979年6月に発行した上下巻
『資生堂宣伝史』には、こんな風に書かれている。

CMソングからイメージソングへ──。

そんなネーミングの変化はCM音楽だけでなく
レコード業界の発想も大きく変えた。

CMソングとして作られた曲が
レコード化されるというのではない。
当初からレコード化を前提とした形で制作される。
企業名や商品名が織り込まれているわけではない。
歌を聴いただけでは何のCMか判別できない曲が、
大量に流されてヒットチャートを席巻してゆく。
そんな現象が起きた。

イメージソング戦争、あるいはタイアップ戦争。
それが70年代後半の特徴となった。
その最大の激戦業界が化粧品だった。

具体的には“資生堂対カネボウ”である。

口火を切ったのは資生堂だった。
「それまではCM音楽はBGMでした。
 CMソングはNHKも流さなかったし
 どんなにヒットしても紅白では歌えませんでしたから、
 レコード会社も関心が薄かったと思います。
 でも『オレンジ村から春へ』がヒットして
 制作者の意識も変わりましたね」

というのは当時の資生堂宣伝部プロデューサーでもあった
田代勝彦である。

きっかけは1976年秋の「揺れるまなざし」だった。
歌っていたのは小椋佳である。
後に資生堂の社長になる当時の宣伝部長が
財務担当時代に第一勧銀の銀行員だった
小椋佳と知り合いだった。
“顧客”の頼みを断ることも出来ず、
小椋佳が手がけることになった。
銀行員アーティスト・小椋佳。
カネボウ化粧品が
「ワインカラーのときめき」に起用したのは
やはり電通の社員でもあった“二足のワラジ”的
シンガーソングライター、新井満だった。

田代勝彦は続ける。
「カネボウさんは基本的に資生堂のやり方を
 踏襲してましたから。
 でも、こちらも一社でやっても世の中は動かないと、
 敢えて競り合ったところはあったかもしれません」


'77年春 「マイピュアレディ」/尾崎亜美
'77年夏 「サクセス、サクセス」
     /宇崎竜童&ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
'78年夏 「時間よ止まれ」/矢沢永吉
'78年秋 「君の瞳は10000ボルト」/堀内孝雄
'78年冬 「夢一夜」/南こうせつ
'79年夏 「燃えろいい女」/ツイスト
'79年秋 「微笑の法則」/柳ジョージ&レイニーウッド

70年代後半の資生堂のイメージソングは
そんな風に続いている。

その中で大森昭男が手がけたのが
「サクセス、サクセス」「時間よ止まれ」
「君の瞳は10000ボルト」「夢一夜」である。

彼は、そんな一連の曲を振り返る。
「でも、その頃はタイアップというより、
 コラボレーションという関係だったと思いますね。
 “共作”です。
 物理的な意味よりクリエイティブな面でのタイアップ。
 キャンペーンのテーマやキャッチコピーが先にあって、
 それに合わせて曲を作ってもらうという
 やり方でしたから。
 イニシアティブは、広告サイドが握っていました」
「'77年度の資生堂の売り上げが2700億円。
 その内宣伝広告費が4〜5%として100億円前後。
 レコード業界の一年間の生産実績が2300億円。
 宣伝広告費が100億円前後」
 (『月刊ペン』1980年10月号)

早い話が全レコード会社の売り上げが
資生堂一社の売り上げに及ばない。
全レコード会社の宣伝費が
資生堂一社の規模に過ぎなかったのだから、
レコード業界が色めき立ったのも無理はなかった。

'76年11曲。'77年10曲。'78年15曲。'79年17曲。
『サンデー毎日』1980年10月5日号には
“売れたイメージソング”としてそんなリストが載った。

イメージソングでないとヒットしない。

大森昭男は、そんな激動の渦中にいた。

大森ラジオ 1976年
資生堂スプリングキャンペーン'75
「ナチュラルグロウ
 彼女はフレッシュジュース」
(「春早朝」)
作詞・作曲・アーティスト りりィ
▲クリックすると音楽が流れます。

2007-08-30-THU





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