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“80年代という時代を後世に語るなら
ブラウン運動の時代だったと言わざるを得ないだろう”
‥‥そんなふうに、むかし、書いたことがあります。
水の上に花粉を落とすと
てんでばらばらな、ちりぢりの動きをするけど、
それって、動いていることそのものが重要なんです。
そこから何かが生まれるかもしれないということ、
出身地や未来を問わずに、
いま、何が動いているんだろう?
そういうことに注目している時代でした。
川崎徹さんが、東京乾電池の人たち
(柄本明さんやベンガルさん、高田純次さんら)を
CMにどんどん出した時代。
ロックに続いて、小劇場がCMに出てきたんですね。
小劇場とテレビが並行に動いていくときに
CMの15秒の世界がおもしろい役割を果たしていたんです。
YMOは、中華街で発表会をするようなバンドで、
細野晴臣さん設計した小プロジェクト。
いわば小劇場だったんです。
外国のひとがわかるバンド名、曲名、
歌詞のいらないオリエンタルな楽曲。
これって細野さんが考えた、
日本発のグローバリズムです。
イチローがメジャーに行くのと同じで、
言葉の垣根さえなければ世界に行けるし、
高田賢三が「JAP」っていう言葉をブランド名にして
パリでやっていたんだけれど、
「YELLOW」もそれに近い抜群のセンス。
日本人の批評眼を組み入れて、しかも、おしゃれ。
すごいですよね。
リズム&ブルースの天才の細野さん、
すぐれたドラマーで
ファッションに精通している高橋幸宏さん、
音楽の生き字引の教授こと坂本龍一さん。
そこに、東洋の神秘のような存在の矢野顕子さん、
そしてバックに、お金のあるアルファレコード。
みんな世界に出ていくチャンスをうかがっていた。
それがぴったり合ったんですよね。
(糸井重里) |
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雑誌『宝島』の1983年8月号で
広告評論家の天野祐吉は、こんな話をしている。
「いま広告は乱世なんですよ。壊れる前兆には、
70年代のパルコの
石岡瑛子さんなんかがいたんだけど、
その新しいコミュニケーションを探す乱世の中で、
糸井(重里)さん、川崎(徹)さんなんかが
出てきたんだと思うんです。
その地殻変動みたいなものは
他の領域でも起こってると思うんですけど、
広告はお金も使うしハデだし目立つ。
で、時代に受けなきゃならない
キワドイ場面にいるわけでしょう。
だから“広告がいま一番面白い”って
ことなんでしょうけど。
ある人に聞いたんですけど、
時代と時代の大きな裂け目に
道化が出現するんですって(笑)。
いい意味であの人たちは
そんな出方をしたなあって思うんです」
雑誌の特集は「広告狂時代」というものだ。
表紙にも“時代を演出する超広告時代をクールに楽しむ”
というサブコピーがついている。
ちなみに特集は他に二つある。
それぞれが人物クローズアップであり
一つは佐野元春のインタビューでもう一つは川崎徹だ。
佐野元春の方には“ニューエイジ宣言”とあり、
川崎徹には“おもしろまじめに”という
タイトルがついている。
80年代前半という時代を
こんな風に切り取ってみせた表紙は
サブカルチャーマガジンならではだろう。
乱世・地殻変動・裂け目。
その発信源となっていた街が原宿だった。
「落ちこぼれなんですよ、原宿の広告屋なんて。
広告業界からすると離れ小島なんです。
やっぱり銀座なんですよ。本丸は銀座だった。
でも、僕らのやり方は銀座から発信出来ないような
前衛的なものだったんで、
向こうがビックリしたんでしょうね」
というのは当時、原宿の“セントラルアパート”に
事務所を構えていたコピーライターの糸井重里である。
同じ建物の中には雑誌『話の特集』の編集室や
写真家の浅井慎平の事務所、
鋤田正義や宮原哲夫らを擁し、
糸井重里も在籍していた広告制作会社
デルタモンドなども入っていた。
『話の詩集』は、カメラマンやデザイナーが参加、
寄稿することで活気づいていたカルチャーマガジンだった。
糸井重里はこう言う。
「雑誌のサブカルチャーの本丸と
広告のサブカルの気配が一致したんですね。
僕があの会社に入ったのも
久保田宣伝研究所に行ってた時、
髪が長かったんで、お前の行くところはあそこだ、
って言われたんです(笑)。
つまり、銀座には入れませんよ、
ということなんですよ。
大森さんは、その中にいて、本流じゃないけど、
アメリカ本土とつながっているというか、
銀座出入り自由だったんです。
そういう人は珍しかったですよ」
大森昭男の仕事の流れは、
そのままジャパニーズポップスの軌跡と重なり合う。
一人のプロデューサーが、
しかもレコード業界の“本丸”とは距離を置いた
コマーシャル音楽という分野で
それだけの業績を残しているのは彼だけだろう。
その歩みをたどってみようというのがこの連載でもある。
レコード業界も巻き込んで過熱した
“タイアップ戦争”の余熱が冷めない70年代後半、
音楽の分野でも新しい方法論が芽生えていた。
1978年2月19日、
新しいアルバムをレコーディング中の細野晴臣は、
自宅にキーボーディスト・坂本龍一と
ドラマーの高橋幸宏を呼び、
新しいレコーディングの方法論から来る
ユニットの構想を話している。
シンセサイザーを使ったダンスミュージック。
賛同した二人を交えてその日に誕生したのがYMO。
つまり、イエロー・マジック・オーケストラだった。
デビューアルバム
「イエロー・マジック・オーケストラ」が発売されたのは
1978年7月だった。
糸井重里は原宿界隈のクリエイター仲間として
彼らのジャケットなどを手がけたデザイナー・
奥村靫正とも交流があった。
「YMOも最初は貧乏でしたからね。
適当にいろんな知り合いを集めて
都合がつくヤツに頼んでいたんですよ」
1978年、大森昭男は、細野晴臣、坂本龍一の二人に
それぞれ別の作品で依頼している。
坂本龍一は、「資生堂'78 PR映画」、
細野晴臣は、「資生堂Fressy」である。
資生堂は“東京・銀座”が売り物だった。
レコーディングが行われたのは
それぞれ1978年1月11日と1978年5月18日だ。
「Fressy」の作詞は松本隆である。
70年代の日本のロックの源流となったのが
70年にデビューした、
はっぴいえんどであることは以前に触れた。
メンバーは、細野晴臣(B)、大瀧詠一(G)、
鈴木茂(G)、松本隆(D)。
1973年に解散し、ソロになった。
大森昭男は、すでに
1973年に大瀧詠一を「サイダー'73」で起用し、
細野晴臣は、1976年に「リーガルスニーカー」で
起用している。
この時の演出家が川崎徹だった。
鈴木茂は、1976年の
「不二家チョコスナック ピッキー」で
作詞作曲を手がけている。
つまり大森昭男を軸に
はっぴいえんど全員が関わっている。
そんな風に仕事をしてきた
プロデューサーは彼だけだろう。
大森自身はこういう認識だった。
「でも、そういう意識はあんまりなかったと思いますよ。
これは松本さんに書いてもらいたいなあとか、
細野さんに遊んでもらおうとか、
茂さんのかわいい部分が欲しいとか、
そういうことだったんでしょうけど。
そういう人たちを生かせるバイタリティーが
コマーシャル音楽にあったと
いうことじゃないでしょうか」
彼が、レコーディングに参加するミュージシャンとして
つきあいのあった坂本龍一を、
単独の作曲者として起用したのが
1977年の日立家電販売の
「“伝統美”センサー『中村吉右衛門』編」だった。
「まだシンセサイザーがそんなに発達していなくて、
教授が使いたいと言ったシークエンサーが
なかなか見つからなくて、
秋葉原の知り合いが持っているのを
探して借りに行きましたね。
いまだったら一時間くらいで出来ちゃう音像感を
一日がかりでやったのを覚えてますね」
その時、レコーディングの機材を扱った
マニピュレーターが松武秀樹だった。
もう一人のYMOと呼ばれたエンジニアである。
YMOは、1979年、
アメリカやヨーロッパで評判になり、
逆輸入される形で日本で広まっていった。
あえて自分たちを“イエロー”と呼び
外人から見た日本を逆手に取ったような
カルチャーギャップとマジックという言葉が醸し出す
オリエンタルなイメージ。
中国を意識したメロディーと
最先端のテクノロジーを駆使したダンスミュージックは
世界でも前例がなかった。
従来のような国内のデビューでは、
きっと受け入れられるのに時間がかかったに違いない。 |
2007-09-04-TUE
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(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
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