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ぼくは、はっぴいえんどが100人のお客さんを前に
演奏をしていたとき、あるいは、
キャロルがサディスティック・ミカ・バンドと
公演していたとき、客席にいた人なんですよ。
作り手も客席も、おなじように
ガロと少年サンデーと少年マガジンを読んでいて、
自分の世界では自分が送り手で、
あちらの世界では客になるっていう、
入れ替えがつねに行われている楽しさのなかにいた。
細野晴臣さんが雑誌の対談の相手役に
林家三平さんを選ぶ、みたいな、
送り手と客がごっちゃになってきた時代。
そこに出てきたのが、ぼくなんです。
消費者出身の生産者、
ぼくはその視点でものを考えて、
いまもずっとそうなんだけれど、
自分のなかにモニターがいる、送り手なんです。
「TOKIO」の作詞のときも
そんなぼくを、レコード会社の人がつかんだんですよね。
(糸井重里) |
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そういう意味で言えば、大森昭男の仕事にとっても
1979年が転機になったと言って良いのではないだろうか。
その後の80年代を決定づけた仕事が並んでいる。
○日立家電「手伝える日立」
作詞・矢野顕子 作曲・矢野顕子 編曲・矢野顕子
アーティスト・矢野顕子
○松下電器「ナショナル自転車・僕の弟」
作詞・糸井重里 作曲・瀬尾一三 編曲・瀬尾一三
アーティスト・細坪基佳
○トヨタ企業CM「燃える大地」
作曲・坂本龍一 編曲・坂本龍一
○緑屋「amsオープン」
作詞・糸井重里 作曲・矢野顕子 編曲・矢野顕子
アーティスト・矢野顕子
○オリンパス光学工業「オリンパスOM TAKE IT EASY」
作詞・糸井重里・(CD+矢野顕子) 作曲・矢野顕子
編曲・矢野顕子・(CD+坂本龍一)
アーティスト・鈴木慶一・(CD 矢野顕子)
などである。
大森昭男が、初めて糸井重里に詞を依頼したのが、
1979年の「ナショナル自転車」だった。
糸井自身「僕はまだ有名じゃなかった。
知る人ぞ知る程度だった」という頃だ。
矢沢永吉の『成りあがり』(小学館)を
糸井がまとめたのが1978年だった。
彼はその時の経緯をこう言う。
「『自転車』は、弟に自転車の練習をさせるという
兄弟もののストーリーが最初にあったんですよ。
それを見た時、糸井さんにお願いしようと思いました。
紹介してくれたのは川崎さんだと思います。
彼はりりィの作詞をしていたんで
コピーライターというよりは、
新しい歌の詞を書ける人、という認識でした。
『ams』は詞が先でした。
すでにあったキャッチフレーズを見て、
アッコちゃんとのコンビがいいんじゃないかと思って
ご紹介したんです」
1979年は糸井重里にとっても決定的な一年だった。
1979年11月、沢田研二のアルバム
「TOKIO」が発売された。
その一曲目が「TOKIO」である。
作詞・糸井重里、作曲・加瀬邦彦。
アルバムのトータルなテーマも糸井重里の手によっていた。
シングルで発売されるのは1980年1月1日だ。
シングルよりアルバムが
先に発売されること自体異例だった。
80年代の幕開けを飾る曲として送り出された。
糸井重里はこう述懐する。
「いまでも覚えてますけど、
さあ正月が始まるという暮れに、
ジュリーがパラシュートをつけて歌ったんですよ。
それをテレビで見て本当にショックだったんです。
つまり、自分でやった仕事なのに、
『あ、俺はなんか違うところに行っちゃったな』
と思ったの。行っちゃったという根拠は
何にもないんだけど、80年代が始まる、
00と数字が並ぶ年が変わるその瞬間に
テレビで歌うジュリーを見て
『俺、運命は変わるかもしれない』
なんてドラマティックなことを思った。
同時にその反面、どうかなという
懐疑的なものもあったりもしましたけど」
1979年、東京はテレビゲーム
“スペースインベーダー”のピコピコという音で埋まり、
新発売されたウォークマンは、音楽の聴き方を変えた。
パソコンの本格普及型PC8001が登場し、
初めての電子キーボード、カシオトーンも出た。
ハイテク都市東京は、まさに“TOKIO”だった。
ロンドン、パリ、ワシントンDC、ニューヨークと
ワールドツアーを行っているYMOが
ツアー中の10月に発売した一枚目のシングルは
「テクノポリス」。
「TOKIO」の発売はその一カ月後だった。
東京を“TOKIO”と呼び、
スーパースターの沢田研二が電飾をちりばめた
パラシュートを背負って空を飛ぶ。
それは象徴的なシーンだった。
“地殻変動”が起きていたのは、
広告の世界だけではなかった。
日常生活の様々な局面での変化。
糸井重里は、それらを言葉を通して
遊んでいるように見えた。
それまで“裏方”として扱われていた
コピーライターのイメージを変えた。
「コピーライターがこれだけ
もてはやされるようになったきっかけは
糸井重里の登場であると言える。
従来、企業の代弁者的存在とみられていた
コピーライターの位置を、
広告の枠を取り去ることによって大きく変えた。
この人のコピーは、ただ、
単に商品を売れば良いということより、
生活とか物の価値みたいなモノを
日常のコトバの中で言おうとする」
前述の『宝島』の中の「いま、世の中の注目を
一身に集めるコピーライター10人衆」では、
糸井重里についてこう書いている。
大森昭男はこう言う。
「楽しみながら言葉を作っている感じでしたね。
単に技術的な意味の詞のうまさに留まっていない。
企業や商品と人間との関わりみたいなことや
時代の本質を洞察して、その上で楽しんでいる。
そんなフットワークの軽さは
三木鶏郎という人と通じる気はしてました」
ただ、糸井重里自身は、
大森昭男のそれまでの仕事などについて
ほとんど知らないまま臨んでいた。
「生意気だったんでしょうね。
それはいまもそうですけど。
その人がどういうことをやってきたとか
あんまり興味がない。
お互いが伸び伸び出来る組み合わせが好きなんですよ。
大森さんは何よりも伸び伸びさせてくれた。
多分、その向こうにはこれは良くないとか
言う人もいたんだと思うんですけど、
その存在を感じさせないんですよ」
糸井重里は、1948年生まれだ。
コピーライターの仕事を始めたのは20歳の時だった。
大学を中退して入った事務所が広告制作会社だった。
月給は2万9800円。
「食えないから」実家から
二年間仕送りをしてもらっていた。
1975年に東京コピーライターズ・クラブの
新人賞を取った時は、
中野の「公団住宅みたいなマンション」に住んでいた。
「当時ホームレスすれすれみたいな
生活をしてましたからね。
きっと食いっぱぐれるに違いないと思って
始めたのが食えてるって思えたのが
ちょっと不思議でしたね。
あれ、こんなに食えてるんだって。
エネルギーは余ってますし、
お釣りで食っているような気もしてたし。
だから面白く出来ることは
何でもやっちゃったんでしょうね」
彼は大学時代に一時、
全共闘運動に関わっていたことがある。
そこから離れるようにして大学を中退して始めた
長髪のロック少年にとって
広告の世界はどんな風に見えていたのだろうか。
たとえば、1973年に花形クリエイターの名を
ほしいままにしつつも広告の世界に身をもって
問題提起するかのように自らの生命を絶った
杉山登志についてはどう感じていたのだろうか。
「そんな大したもんじゃないだろって思った。
僕は生意気ですし、
『お前そんな大したヤツか』って思った。
だから一生お前には触らないぞって。
それは正しい判断をしたと思いますね」 |
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1979年
松下電器「ナショナル自転車・僕の弟」
作詞 糸井重里
作曲・編曲 瀬尾一三
アーティスト 細坪基佳
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音声・画像にノイズがまじる箇所があります。
あらかじめご了承くださいませ。 |
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2007-09-05-WED
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(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
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