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矢野顕子さんは打ち合わせをしない、
って、この回にあるんですけれど、
たしかにそう。
ていうのは、彼女は、
なにをお題にするかさえ決まれば、
大丈夫なんです。
そのお題は、ぼくとスポンサーのところで
できているわけで、
歌詞のなかに、明るいも暗いも含まれているから、
「あとは、よろしくね」で済んじゃうんです。
矢野さんとの仕事はたいていそんなふうで、
歌詞が出来ましたって渡したら、
翌日には曲ができている。
この頃になると、音楽を仕事にしている人たちのことを
「アーティスト」って呼ぶようになってきました。
でも、作家は家がたつけど、アーティストはたたない。
そんな時期でした。
「春咲小紅」のヒットで
あっこちゃんがテレビにどんどん出るようになって、
くたびれたーって言うとマネジャーが
「お家ですよ、お家!」って冗談で励ましてました。
つまり「アーティストは儲けちゃいけない」
っていう概念が
この頃にはまったくなくなっているわけです。
いけないのは、消費されきっちゃうことですから。
(糸井重里) |
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矢野顕子である。
大森昭男がこだわって起用してきている作家の中でも
際だっている一人が彼女ではないだろうか。
1976年のデビュー以来、
他の女性シンガーソングライターの追随を許さない
オリジナリティを発揮し、
ワン・アンド・オンリーの存在であり続けている。
彼女も、大森昭男の40年のキャリアをたどる上で
欠かせない登場人物になる。
矢野顕子は改めてこう言った。
「どんな仕事でも最終的には人ですからね。
誰とでも出来るというわけじゃない。
コマーシャルソングを作るということは、
表現が適切かどうかは別にして、
他人のふんどしで相撲を取る、
みたいなシチュエーションですよね。
でも、そこにはやっぱりその人の力量や
センスが問われるし、出てくる。
これは糸井さんとやれば合うんじゃないかと
引き合わせた大森さんのセンスが
凄かったということですよね」
大森昭男との出逢いは、矢野顕子のキャリアにとっても
重要な意味を持っていたと言って良いだろう。
CM音楽に限らず彼女の作品には
作詞・糸井重里、作曲・矢野顕子という
コンビの名曲が数多くある。
そんな関係の発端になったのが大森昭男だった。
大森昭男が初めて矢野顕子に作曲を依頼したのは1978年。
クライアントは丸井の「学習机」と「ひな人形」だった。
作曲のみの依頼である。
彼女にとっても「多分初めてのコマーシャル」だった。
大森昭男は、その時のことをこう言う。
「矢野さんのことは、『JAPANESE GIRL』を聞いた時に
何か面白いお願いが出来たら良いな、
相応しいテーマがあると良いなと思っていたんですね。
でも、その時は、歌でお願いしようというより
映像音楽が出来る方だと感じた。
丸井の『ひな人形』とか『学習机』とかは、
ちょっと夢っぽい世界の音楽が欲しいと思って
矢野さんにお願いしたんじゃないでしょうか」
1976年7月25日に発売になった矢野顕子のアルバム
「JAPANESE GIRL」は、
女性アーティストのデビュー作としては
日本のポップミュージック史上最大の
衝撃作だったと言って過言ではないだろう。
レコーディングは日本とアメリカ。
洋楽至上主義時代に、
民謡も歌謡曲もポップスも飲み込んでしまったような
自在なピアノと無邪気なあどけなさにあふれた歌。
まさしく型破りな作品だった。
そういう意味で言えば、
彼女は従来のポップス系はもちろん
CM音楽の作曲家の範疇にも
入らない存在のようにも見えた。
彼女自身の中では、CM音楽の依頼ということについて、
どう感じていたのだろうか。
「元々、スタジオミュージシャンもやってましたからね。
いまだったら、イメージを大切にするんで
女優さんはシャンプーのCMとかに
そんなに出ないとかあるんでしょうけど、
そんな意識は欠片もありませんでしたから。
音を職人的に作るということに抵抗はなかったですし、
そっちの方が本業のようになって行きましたよね。
だいたい、CM音楽に名前なんか出なかった時代ですよ。
隠れてやるお仕事とか、そんな風にも全く思わなくて、
これは自分の仕事としてやりがいがあるものだと
張り切って作っていましたよ」
ただ、大森昭男の方にすれば、
彼女に対しては、他の作家に依頼するのとは
少し違う配慮もあった。
「矢野さんは、演出家の方とかスポンサーの方とかと
打ち合わせをしなくて良いとおっしゃるんですよ。
もちろん誰に対してもそうなんでしょうけど、
彼女にお願いする時は、
特にテーマを自分の責任でしっかりとらえて整理して
自分の言葉で説明しないといけないという
緊張感がありましたね」
打ち合わせ不要。それはどういう理由だったのだろうか。
彼女の答えはこうだった。
「会議とか嫌いでね(笑)。ありますよね、
『とりあえず顔合わせで』とか。
そういうのを一切省いてくださいって言いますね。
私は音楽をやりたいんで、
それだけ見せてくれればいいからって。
せっかちなんですよ(笑)。
でも、大森さんからお話を聞けば、
それで足りないということはなかったですよ。
こういう感じでこういう絵コンテでとか
話を聞いているうちに、だいたい『出来ました』って
言ってましたからね(笑)。
しっかりと世界を組み立てて話をされるんで、
それを頭の中に描きつつ聞いていると
音が引っ張り出されてくるっていう感じ。
ただの音楽担当ディレクターという人とは
ちょっと違いましたね」
クライアントの意向を伝達するだけではない作品イメージ。
まさにプロデューサーとクリエイターの
やりとりではないだろうか。 |
2007-09-10-MON
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(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
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