みんなCM音楽を歌っていた。 大森昭男ともうひとつのJ-POP


“デビュー前の起用

糸井重里 坂本龍一さんって、すごく一所懸命な人で、
無敵の人になりたかったんだと思うんです。
「それまでは、自分にとってはバイトだった」って
この回で言っているんだけれど、
プロになっちゃうと無敵ではいられないからだと思う。
そんな存在で、意地っ張り。だから面白いんですよね。

大森さんは、坂本さんのピアノのファンだったんです。
「坂本さんのピアノを入れると色気が出るんです」って
言っていました。
知識以上に、坂本さんの演奏のファンだった。
当時の坂本さんは、けんかっ早いので有名で
誰もが大好き、っていうタイプではなかったんだけれど
そこを大森さんがじょうずにとりなしていたんですね。

(糸井重里)



今日の立ち読み版

1977年、「丸井のメガネ」「HONDA CB‐TWIN」
「資生堂SOURIRE」「日立“伝統美”センサー」
「丸井レジャー用品」「丸井インテリア」──。

1977年、ON・アソシエイツは、
坂本龍一作曲で、それだけの作品を制作している。

坂本龍一が初のソロアルバム
「千のナイフ」を発表するのは1978年10月のことだ。
彼が細野晴臣からYMOの構想を聞かされたというのが
1978年の2月。
YMOのファーストアルバム
「イエロー・マジック・オーケストラ」が
発売されたのも1978年11月だ。

つまり、大森昭男が作曲家として彼を起用した
1977年というのは、
坂本龍一がソロアーティストとして
世の中に出る前ということになる。

「スタジオミュージシャンの仕事というのは
 ホントに雇われ仕事なんですよ。
 忙しくてもいつ仕事がなくなるか分からない。
 自分で曲を作るところはないわけです。
 全く別のものですよね。
 大森さんから頂いた仕事で
 細々と作曲家としての命を
 繋いでいたという感じですか。
 だって、他には何も作っていないんですから(笑)。
 “習作”と言うとクライアントには失礼になりますが、
 そういう感じで作ってましたね」

その頃のCMで、二人が異口同音に
「忘れられない」と言うのが
1977年に制作された「日立“伝統美”センサー」だ。
「まだ日本にシークエンサーが入ってない頃で、
 持っている人も何人かしかいなかった。
 大森さんに使いたいと言って探してもらったんですよ」

大森昭男はツテをたどって、
神田の医者の息子が持っていることを突き止め、
頼み込んで借りて
大久保のフリーダムスタジオに持って行った。
坂本龍一は、「CM/TV」の解説で
「隔世の感がある」と書いている。
まだYMOの構想すら持ち上がっていない時代である。

坂本龍一が「印象深い」というのは
1978年の「キヤノン」の「キャリアガール」である。
レコーディングされたのは1978年3月30日。
スタジオはサウンドシティ。
エンジニアは山下達郎とのコンビで知られる吉田保。
坂本は、作曲と演奏を全て一人でやっている。
彼がソロアルバム「千のナイフ」の
レコーディングを開始するのがその年の4月。
YMOの初のレコーディングは6月からとなっている。

「それまでの作品は全部、
 誰かミュージシャンが入ってるんですけど、
 全部一人でやったのはあれが最初ですよ。
 曲もわりとクラシカルでしたし、
 あれがオンエアされてから、
 作曲家やアレンジャーから
 『あれは誰』という話があったということを
 大森さんから聞きました」

1978年「キヤノン」「SEIKO・QUARTS」
「バルバローゼン」。
1978年に坂本が手がけているのはその3本である。
本数は多くない。
でも、彼が「次に印象深い」と挙げるのが
「SEIKO・QUARTS」である。
レコーディングされたのは1978年9月13日。
メンバーは、坂本龍一がピアノとシンセ、
松原正樹(G)、細野晴臣(B)、高橋幸宏(D)という
顔ぶれで行われている。
言うまでもなく細野晴臣、高橋幸宏はYMOのメンバーだ。
スタジオは大久保のフリーダムスタジオだった。

「あれがYMOの『BEHIND THE MASK』の
 オリジナルなんですよ。
 あの曲は実はマイケル・ジャクソンが
 カバーしたいと言ってきたんですけど、
 出版権を100%寄こせというんで
 冗談じゃないって断ったんです。
 もし断らなかったら、
 世界中に別荘が10戸くらい建ってたでしょう(笑)」

「BEHIND THE MASK」は、
1979年9月に発売され、
爆発的なブームのきっかけになった
YMOの二枚目のアルバム
「ソリッド・ステイト・サバイバー」に収録されている。
1986年にはエリック・クラプトンにもカバーされ
世界的に知られている曲だ。
その原型となったのがCM音楽だった。
坂本龍一にとってCM音楽と自分の作品は
同じ流れにあると言って良さそうだ。

大森昭男から坂本龍一に依頼されている本数が
最も多いのが1979年である。
「PARCO・フェイ・ダナウェイ」シリーズ3本
「西武スペシャル・ゴーマンミチコ」
「トヨタ企業CM・燃える大地」「EDWIN」
「東芝新技術紀行」「パイロット・ジャスタス」
という8本。
「CM/TV」にはその中で6本が収録されている。
西武シリーズはどれも1分30秒から3分。
トヨタも2分である。
1977年の「日立伝統美」は4分ある。
どれも通常のCMの範疇に入らない長さだろう。
テクノロジーとオリエンタリズムやエスニック。
当時の坂本龍一の作風であるだけでなく、
ビートルズやバート・バカラックを
彷彿とさせるものなど、幅も広い。

「いま思えば、あの頃はクリエイターに
 気概があったのでしょう(笑)。
 僕も普段使ってない引き出しを使っていますね。
 その頃使わなかったら、
 きっとそのまま消えていたかもしれない(笑)。
 YMOの二枚目が売れてしまって、
 音楽が本業と認めざるを得なくなった。
 それまでは、自分にとってはバイトだったんです。
 ですからCMであるにもかかわらず
 クライアントのことなど全く考えてなかったです。
 ただ、面白いことをやろうと。
 クライアントに分かるような音楽をやってたら、
 クリエイターとしては駄目じゃないですか。
 大森さんも、僕達には
 『坂本感性で裏切ってください』と言ってましたし。
 僕も大森さんの顔だけ見てました。
 大森さんがいいと言えば通るわけですから。
 僕達のことを鷹揚に見ていてくれていたのでは
 ないかと思います」

大森ラジオ 1978年
キヤノンNp5500
「キャリアガール」
作曲・アーティスト 坂本龍一
▲クリックすると音楽が流れます。

2007-09-12-WED





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