ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「時々笑われています」考。

家のものが3泊ばかり実家に帰ることがあった。
ぼくも出張で東京にいないということで、
犬もいっしょに里帰りすることになった。

たしか、ぼくがカナダに行ってるときだった。
海の向うから、実家にいる妻に向けて
メールを出した。
義理の両親によろしくというようなことと、
犬は溺愛されていますか、というような内容だった。
溺愛という表現は、冗談めかして言っただけで、
ちゃんとかわいがられているだろうか、
というような意味だった。

しばらくして、返信が来た。
両親によろしく伝えました、
というようなことに続いて、
「ブイヨンは特に溺愛はされてませんが、
 時々笑われています。
 まぁ、連れてきてよかったみたいです」
と、あって、
雪景色のなかでおすわりしている
犬の写真が添付されていた。
『気まぐれカメら』2008年の01/21 17:21の写真

「時々笑われています」
ということで、いやがられてないことと、
犬に視線が注がれていることがよくわかった。

その後も、この
「時々笑われています」というフレーズは、
よく思い出すことになった。
そういえば、里帰りではなく、
自宅にいるときにも、
犬は「時々笑われています」なのだ。
そして、ぼくらは「時々笑われています」の犬を、
時々笑うために、犬をよく見ている。
犬のほうから、見られにやってくることもあるし、
ゆっくり寝ている犬を起こしてまで
「時々笑われています」の場面を
つくろうとすることもある。

おそらく、小さな子どものいる家などでは、
子どもに「時々笑われています」の役が
あたえられているのだろう。

「時々笑われています」というのは、
すてきな仕事だなぁ、と、
ぼくは思うようになっていた。

よく、笑いの芸について
「芸人は笑われたらあかん。
 笑わせるんや」
というようなことが言われる。
笑いを仕事にするというのは、
ほんとうは、そういうことなのだと思う。
しかし、このごろ、
そうともかぎらないのではないかと、
考えるようになっている。

「笑われる」ということを、
役割として、仕事にできるのだとしたら、
それは「笑わせる」のとはちがうけれど、
「笑われてあげてる」とも言える。
だとしたら、それはそれで、
笑われているものとしての存在価値は、
かなり高いのではないだろうか。

犬は、笑わせてはいない。
しかし、時々笑われてくれている。
目上とか、目下とかを考え合わせたら、
人間が目上で主人の役割りではあるし、
犬は、文字通り「飼い犬」として目下の存在だ。
それはそうなんだけれど、
ほんとうは「笑う」人間と、
「笑われる」犬との間に、あるのは、
上と下の関係というよりは、
たがいに見たり見られたりする
親しみのやりとりをする場面
なのではないだろうか。
それは、蔑みの嘲笑のようなものではなく、
好きなものを見つめる視線のなかに、
おそらく自然に生れる微笑みなのだ。

人々の大好きな、
愛嬌だとか色気だとかいうものも、
実は「時々笑われています」に、
限りなくよく似たものなのだと、ぼくは思う。

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