あらゆる場面での『寝床』構造。
2009-07-13
なんかさ、世の中が『寝床』になってないかね。
『寝床』っていうのは、
落語の名作『寝床』のことね。
『寝床』という落語がどういう話かってことについて、
数十行ばかり書きはじめたんだけど、
あらすじを熱心に書くのがめんどうになっちゃってさ、
やめたんだ、消しちゃった。
だって、検索エンジンに「寝床」って記せば、
ぼくがはしょって書いておいた内容よりも、
ずっと詳しく知ることができるもんね。
なんでもネットで検索して済んだ気になるな、
ということも思うんだけれど、
こういうときは、「他で読んできてね」っていうのも、
あると思います、だよね。
つまり、『寝床』の旦那は、
大店の旦那さんで、長屋の大家さんでもあるわけで、
いわば、庶民のなかの「ぜいたく階級」だったわけだよね。
お金もあるし、時間もあるし、
聴衆を集めるような権力もある。
だけど、いまの時代は、
みんなが『寝床』の旦那役をやれるわけだ。
下手な歌を聴かせるとか、
どうでもいい講釈をたれるとか、
じぶんの本を出版しちゃうだとか、
写真だとか映画だとかを見せちゃうだとか、
素人なりにシェフになっちゃうだとか、
なんだったら選挙に出て公僕になっちゃったりね、
そういうことまでできるわけだ。
受け手がどう思ってるか、なんてこと、
まったく気にしないでガンガン『寝床』できちゃう。
そりゃ、気苦労もあるだろうし、稽古もするだろう。
お金もかかっちゃうし、時間だってかかっちゃう。
でも、やりたいんだなぁ、旦那の義太夫みたいなこと。
こうやって書いてるあたしの文そのものが、
もうすでにね、『寝床』の構造になっているわけで。
もっと言えば、朝日新聞であろうが、文藝春秋であろうが、
日本テレビであろうが、ほぼ日刊イトイ新聞であろうが、
民主党であろうが、オバマであろうが、
ある角度から見たら、みんな『寝床』なんだよなぁ。
書いたりうなったり、世話をやいたり、
演者の側になりたい人が増えると、
受けてくれる観衆の側を集めるのが大仕事になる。
しかも、受け手のほうは、
旦那に恩義があったって
下手な義太夫をほめる筋合いはないのだから、
酒をほめたり卵焼きを頬張ったりするばかりだよね。
そりゃ、そうなんだ、それが当たり前だ。
旦那のような「ぜいたく階級」になってしまうと、
どうしても『寝床』やりたくなっちゃうんだろうね。
そんで、おんなじような人たちが集まって、
かわりばんこに義太夫をうなるということになる。
ほら、カラオケ屋でさ、他の人の歌を聴かないで、
次のじぶんの歌のことばかり気にしているような感じ。
趣味の同人みたいになってて、
たがいに「おれの話を聞いてくれる人」になり合う。
そういうことになってきているんだね。
だって、純粋に客席に座ってくれる人は、
探して、お願いして、サービスしないと集まらないもの。
ほんとのほんとは、旦那の義太夫が、
他じゃ聞けない「いいもの」だったら、
人は集まってくれるんだろうけどねぇ‥‥。
この『寝床』の構造って、
なにも芸術だとか芸能の表現ばかりじゃないと思うよ。
あんまり喜ばれない商品(義太夫)をつくる
企業(旦那)が、手を替え品を替えしていることも、
市場(長屋のみなさん)への、
的外れなサービス(酒や料理)ともとれるもんねー。
でも、それがまったくトンチンカンな行為かといえば、
そういうことでもないような気がするんだよね。
『寝床』の旦那にしても、長屋の皆さんが言うには、
「あの旦那は、義太夫さえ唸らなきゃいい人だ」
っていう評判だからね。
もういっそ、酒と料理を楽しむパーティにしちゃったら、
状況を突破できるかもしれないんだよなぁ。
まぁ、その、なんにせよ、
ぼくが毎日、『今日のダーリン』のあとで、
今日も「ほぼ日」に来てくれてありがとうございますって、
言ってる意味っていうのは、
じぶんが多かれ少なかれ
『寝床』をやってるっていう意識があってさ、
その「すいませんね」な感じを、
「ありがとう」に変えてね、
バランスをとりたいっていう気持ちがあるんだ。
なんていっても、人が集まってくれるからこそ、
下手な義太夫でも聞かせられるんだもの。
ぼくにしたって、たったひとりで暗闇に向かって
ぶつぶつものを言ってるほどには、
おしゃべり好きじゃぁないもんね‥‥。