憧れというもの。
2010-05-31
いまのところ、ぼくのツイッターには、
考え途中のことを書くことが多い。
もともとこの「ほぼ日」というホームページが
そういう場だと思っていたのだけれど、
それをもっと意識的にやろうと思ったんだ。
ツイッターでは、140文字という
文字数制限もあるのだし、
ぜんぶを説明できるはずがないという前提で、
みんながことばをやりとりしている。
だから、ぼくは、
歌であれば「発句」になればいいと思って書く。
そういうつもりでやりはじめた。
その軽さは、とても新しい感覚だった。
親しいともだちを前にして、
ことさらな責任もなく、思いついたことを
そのまま言える雑談のようだった。
たとえば,
ぼくがiPadを入手して数時間後には、
こんなことを書いた。
iPad classic から、はじめてのおならぷーです。あれこれいじってみて、いまのところの印象は、「電子計算機から脱したもの」です。「電気屋さんのコンピューター」いや「電話屋さんのマック」かな。ぼくの気分としては、これが常識になった後の、書や紙への揺り戻しかなぁっぷー。
思いつきとしては、「説明」や「練習」ぬきの、
家庭用電気製品のようなコンピューターが、
とうとう実現したのかもしれない、
というような気持ちで書きはじめた。
実際のところ、練習のいらないコンピューターは、
「ケイタイ電話」で、ある意味
実現していたとも言えるのだけれどね。
で、その簡便さや使い勝手のよさのおかげで、
かなり一般的に普及するんじゃないかと思ったわけだ。
そして、同時に、こんな「道具」が常識になると、
そこで失われていくものに目が向くにちがいないぞ、と。
ちょうど、ぼく自身が「書」というものが、
「そこにあるかたち」ではなく
「書かれたときの動きの軌跡」なのだと知って、
こりゃぁ大事なことだと思っていたときだったので、
「書や紙への揺り戻し」ということを強く思った。
やがて、おおぜいの人が、
ぼくの「発句」に反応してくれた。
いわば「下の句」を
それを読みながら、ぼくはもうちょっと、
前に書いたことの続きを言いたくなった。
前半の「常識になっていくコンピューター」のことより、
後半の「揺り戻し」の話のほうに、
人々は反応したし、
ぼくの興味も、そっちのタネから出た芽のほうだった。
そうか。夜中に気がついた。iPadなどが常識になっていくときに、「書」や「紙」への「揺り戻し」がくる、というより「書」や「紙」が<憧れ>になっていくんだ。いまよりもさらに、尊敬すべき嗜みとしてとらえられてね。丈夫なプリント合板と天然の木材との関係みたいなものかもぷう~。
むろん、これでたくさんのことが言えてるわけではない。
しかし、ただデジタル化に対して、
揺り戻しとしてアナログなものが価値を持つ、
というようなことよりも、
もっとなにかじぶんの感じていることを、
足しておきたかったのだと思う。
これについても、また、「発句」である。
前に書いたものから展開しているというよりも、
あらためて、もうひとつぶのタネを蒔いているようだ。
ここで発した<憧れ>ということばに、
じぶんで反応してしまった。
そうか、「かくありたい」というような気持ち。
「いいものだなぁ」と見上げるようなこころ。
そういうものを感じさせるものがあるんだ。
それはデジタルに対してアナログ、というような
二項のバランスの問題ではなく、
「見えないもの」の価値についてのことだ。
ぼくは一度書いた思いつきの文を見直し、
「憧れ」と、ふつうのカギかっこでくくられていたものを、
これからも特別なことばとして
気にしてもらえるように<憧れ>と直した。
<憧れ>ということばが、どれほど、
たくさんのことを教えてくれるか。
ぼくはわくわくして、またまたタネを蒔きに出た。
<憧れ>ということば、ぼくも意識的につかったのは、はじめてかもしれない。仕立てのしっかりした古着のジャケットも、気立てのよさが輝いているような美人とはいえない少女も、円空の木彫も、よく育てられた果実も、良寛の書も、朝霧に煙る森林の風景も、宮澤賢治も‥‥<憧れ>のなかにある。ぷう。
<憧れ>には、そうだリスペクトが入っているのだ。
これまで、ぼくは<憧れ>ということばを、
ほんとうにつかってこなかったように思う。
使う場面がなかったのか、
<憧れ>という気持ちに気づいていなかったのか、
もっと別のことばをつかっていたのか。
どちらにしても、ぼくは<憧れ>を見つけた。
iPadが常識になった時代がきても、
デジタルなそれは<憧れ>られないのではないか。
デジタルなものは、どこまで行っても、
「ふたつとないなにか」にはならない。
「ふたつでもみっつでも、∞にでも」がデジタルだから、
それは人々を見上げさせる<憧れ>にはならない。
とても仲のいい親友にはなれるのかもしれないが‥‥。
こう書いてからも、
大量につくって人々を豊かにしてくれるものと、
どうしてもたくさんはつくれないタイプのものと、
両方があるんだということを思うことになる。
いっぱいあるもの、いっぱいつくれるものが、
悪いものであるという教義を語りたいわけじゃないのだ。
そこで、さらに発句ができる。
缶詰めがごちそうだった時代もあるんだよ、もぎたての野菜よりもね。インスタント食品も「便利なんだし、高くてもしょうがない」ものだったんだ。機能や便利は求められ普及して、安くなり「そこらへんのもの」に格下げされちゃう。憧れられるものっていうのは、機能や便利とはちがうところにあるぷう。
機能や便利のためにあるものも、
最初は、あがめられながら登場したんだよね、
というようなことを思う。
そして、やがて「常識」になり
「あたりまえ」のものになったら、
それは価値について語られることもなくなる。
そういうものなのだ。
<憧れ>は、機能や便利のような「実のもの」じゃない。
ここらまでタネをまくと、
ついつい、ぼくは「芸術」とか「たましい」とか、
そんなことを言えたらいいなぁとか、思ってしまう。
でも、それを急いではいけないのだと自重する。
<憧れ>ということばが見つけられただけでも、
すばらしい収穫のあった週末である。
このことの周辺をうろうろするのは、
もうむつかしくなったと思い、
問題から離れることにする。
今夜は、アジフライと「マカロニサラダ」さ。「マカロニサラダ」といっても、飯島奈美さんのレシピだからね。これ、めちゃくちゃうまいんだぷー。「ほぼ日」に出てるから
http://bit.ly/cyRFVeやってみるですかぷー。うちのは、いま味見したけどぐーぐーがんもでしたー。
そして、日曜日の夜中になって、
このツイッターでやってきたことを、
こんどは「ほぼ日」の『ダーリンコラム』という場所で、
もうちょっと順を追って書いておこうと思い、
こうして書いているわけなのですのだ。
さて、いまから、
以上のことについての「まとめ」を、
発句化して、ツイッターに記すことにしよう。