糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

07月14日の「今日のダーリン」

・いまは、もっとちがう方法があるのかもしれないが、
 「乱数のプログラム」みたいなものを、
 後輩の誕生日のプレゼントにしている人がいた。
 ぼくは、そういうことについて詳しくないのだが、
 もらったほうの若い人がとてもよろこんでいた。

 ゲームのなかに、たとえばサイコロを振る状況がある。
 これも「自然なデタラメっぽさ」のプログラムが働いて、
 いかにも偶然のような感じを演出しているわけだ。
 でも、ほんとはデタラメはつくれない、んだよね? 
 自然そのものは人間にはつくれないが、
 自然に見えるような自然っぽさは人工的につくれる。
 その時期だったかな、コレクションできるカードを、
 バラバラにして販売するために、
 欧州のどこかの国の機械を使うんだという話を聞いた。
 印刷するときに「デタラメ」はできない。
 同じカードを、同じように印刷するしかないわけだ。
 しかし、そのカードを販売するときに
 同じ店に同じカードばかりが集まっていたら、
 当たりもハズレもコレクションも成り立たなくなる。
 規則性を感じさせないように「デタラメ」みたいに混ぜて、
 なんとか「自然」にいろんなカードがばらまかれるのだ。

 「デタラメ」はつくれない、ということが、
 ぼくはなんだか、とてもいいことに思える。
 いまの世の中、同じ、均質があふれている。
 ジャガイモをぜんぶつぶして成形したポテチができる。
 どこをかじっても、どこを味わっても同じ味がする。
 それが好きだという人がいてもいいけれど、
 ぼくは、もっとバラツキのある昔ながらのポテチが好きだ。
 お好み焼きなんかでも、均等に火が入っているより、 
 はじっこの方が焦げてカリカリになっているのが好きだ。
 絵や書の筆のタッチだとか、濃淡のムラなんかも、
 それが均質でどこも同じようだったらおもしろくない。

 デタラメや、マチガイや、ムリや、ムラみたいな
 いままで否定されてきたことの価値は高まっていると思う
 (管理できる自然を極めていく表現の進化もあるけれど)。
 人間の身体とか精神的の寸法にあった「デタラメ」は、
 考えようによっては「愛」や「思いやり」の元ではないか。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人に「休み」が要ることなんかも、自然なバラツキだよねー。