「ほぼ日刊イトイ新聞の本」が出るよ! |
【以前のほぼ日 その10】 1999年8月に書かれた、夏の渋めの決意集。 このページを編集するの、楽しいんです。 「今日のダーリン」をふりかえってまとめるのですが、 ストーリー重視のマンガを、単行本になった状態で まとめて何冊も読む感覚に近いような気がします。 このコーナーが終了するころになって、 「抜粋編集」がもっともうまくなるかもしれない、 という、矛盾した状態になりそうです〜。 今日は、1999年8月から、7篇を選んでみました。 選者としては、ある意味で自信のラインナップだよ。 ----------------------------------------- 1999-08-10 図鑑で見るゾウの大きさは、せいぜい10センチくらいだ。 テレビで見るアイドルたちも、 ちっちゃな人形のような大きさだ。 インドアの生活を続けていると、 原寸大でものを認識するということが、 だんだん少なくなってくる。 山は大きいとか高いとか、海は広いとか青いとか、 意味はわかっているつもりでも、 驚きや感情のこもった「大きい」や「広い」が、 わからなくなってくるように思う。 そんなことはないよ、と言われるかもしれないが、 やっぱり、ぼくらはゾウの大きさをわかっていないのだ。 かつて見たことのある現物のゾウの記憶を根拠にして、 ゾウは大きいと、疑いもせずに言っているけれど、 どのくらい大きいのかは、実感としては、 やっぱりわかってないと言えるんじゃないかなぁ。 数年も前に、ロスアンジェルスの海辺でロケしてるとき、 遠くのほうに鯨が泳いでいるのが見えたのよ。 そんなに大きい種類のやつじゃなかったんだけど、 こころから、というより、身体から驚いたんだわ。 この感じが、「大きい」なんだよなぁって、思ったよ。 大きいって、何メートルくらいだった?とか、 聞かれたって答えられません。 数字じゃないんだもん。 「息を呑むくらい」と言うしかなかったな。 パソコンと毎日付き合っていると、 なんでも知れたり出来たりするような気になるけれど、 それは、現実のうちのほんの一部の情報にしか 過ぎないんだということを、 忘れちゃいけねぇよな、と、思ったりしてます。 「足のついた頭」になりたいものだと、ね。 1999-08-11 去年の今ごろって、何をしていたんだっけなぁ。 5月の中頃に、いまの鼠穴に事務所を引っ越しして、 6月6日に「ほぼ日」をスタートしたところまでは、 はっきりしているんだけれど、 その後、どんなふうに毎日を過ごしていたか、 まったく憶えていないのだ。 たしか、この目次の前の文も、数行程度だった。 更新するぺージも、せいぜいひとつかふたつだった。 それでも、毎日徹夜していたような気がする。 「こんな過酷な日々がずっと続くわけはない」と、 みんな思おうとしてはいたけれど、 仕事の量は加速度的に倍々増していった。 自分たちに「やれること」が、よくわからないうちは、 まだ区切りがつけやすかったような気がする。 いまは、どこがどう足りないかとか、 何をしたら、もっとおもしろくなるかとか、 ちょっとは考えられるようになってきている。 そうなると、「やりたいし、やれるのにできない」という 口惜しい力不足があらわになってくる。 ナイスなプランを考えても、ひとつずつ実行できる パワーがまだついていないので、 いろんなことが先延ばしになっていくのが残念なのだ。 「努力」だの「根性」だのでできる範囲のことは、 もうすでにやっているという自負はある。 一年間で、ずいぶんぼくらも強くなったもんだとは思うが、 ほんとに、まだまだ、 プロの試合ができるところまでには、なっていない。 きっと、甲子園球児のような状態なんだろうな。 まだまだ泥だらけになって球を追うこと くらいしかできないことを、知っておきたいと思う。 1999-08-13 「熱帯夜って、あたし・・・ねったい、ヤ!」 みなさまに、自信をつけていただくために、 つまらない駄洒落からスタートしてみましたが、 いかがおすごしでしょうか。 もう先を読む気力もなくしたかなぁ。 なんとなく、いまの時期の「ほぼ日」ってさー(ごろり)、 二次会の後の、ほんとの内々だけの集まりみたいな、 雰囲気があるんだよねー(ごろごろ)。 その理由は、お盆休みってやつ? 人が少ないのよ、街に。 「ほぼ日」のアクセス数も1割くらい少ないんだなぁ。 学校からのアクセスが減ってるんですよね。 そりゃあそうだよ、夏休みだもん。(ごろ) こういう時だけの、ほんとに無駄な話がしたいもんだと、 思ってみたんだけど、頭のなかがやすんでないから、 やっぱり、余裕のあるくだらなさがでないんだなぁ・・・。 でも、このページ、朝礼じゃないんだから、 もっともっといろいろくだらないことも、 できるはずなんだけどねぇ(ごろんごろん)。 みんな、夏風邪ひくなよー。 ーっくしょんっ。 この頃、高木ブー、売れてるねぇ。 野村サッチーの話題、収まってきてるのかなぁ。 ヨーグルトの申し込み、自分でもしちゃったよ。 抽選は自分でやるわけじゃないから、当たるとうれしいな。 8月13日の都心のかったるさがでたでしょうか? そんなこと言いながらも、今日も7本立ての大盛りさ! なーんて働き者なんだ、「ほぼ日」よ! 1999-08-16 自分にひいきの野球チームのある人は、 敵チームに大嫌いな選手を持っていることが多い。 しかし、ほんとうのことを言えば、 大嫌いな選手とは、たいていは「いい選手」なのである。 自分の好きなチームに移籍してきたら、それは、 大好きな選手、頼りになる選手になる可能性が高い。 スワローズの石井一久選手も、ぼくの大嫌いな選手で、 彼が故障でしばらく休むというニュースを、 残念な気持ちで読んだ。 この石井に「奪三振」について取材した番組を見た。 彼は、次のようなことを語った。 『僕は三振をとる以外のアウトの取り方を知らないんです。 バットにボールが当たらなければ、アウトを取れるけど、 当たってしまったら、その打球が ヒットになるか、アウトになるかわからないでしょう』 バットに当てさせないことを、 投手としての自分の目的にしているのだから、 そのためには四球も多くなるし、投球数も多くなる。 しかし、それが、彼のできる「投手としての仕事」なのだ。 プロには、時々こういう凄みのある発言がある。 むろん長いこと野球を続けてきているのだから、 打球でアウトをとることを知らないできたはずはない。 しかし、一試合27のアウトのうちの 約10個を三振で取るピッチャーだからこそ言える 「野球論」はやっぱりおもしろい。 『三振がとれなくなったら、引退です』とも言っていた。 もちろん、この考え方に反論することもできるだろうが、 「野球」を、こんなふうに 独自の解釈でプレイしている選手がいることは、 野球の豊かさを感じさせてくれるものだ。 大嫌いな石井一久、がんばれ! 1999-08-21 甲子園の高校野球を観るのを、昔は嫌いだった。 「精神主義的」なものに、なんでも反発を感じていたから 丸刈りの高校生が青春を賭けて、なんて姿は、 いやだなぁと思っていた。 しかし、だんだんと、そんな反発そのものが ケツの穴が小さいという気がしてきて、 素直に高校野球を楽しめるようになった。 昨日は南波先生のメールに刺激されて、 桐生第一と樟南の準決勝戦を、かなり真剣に観た。 0対0で進行して9回表、桐生は2点を入れた。 桐生のエース投手が、裏の攻撃を封じれば勝ちという場面。 その正田投手が画面にアップで映った。 3人を打ち取れば勝ちが決まるという場面で、 マウンドに向かう表情が、気負っているわけでもなく、 落ち着きすぎているわけでもなく、 カッコよかったんだなぁ。 才能ある投手だけれど、大人じゃないんだよ。 「ぼーっとした女子高生」と同い年だ。 その年齢の、ぼくにしたら「ちびちゃん」が、 怖くもたのしい「現実」に真正面から立ち向かう姿は、 そのまま彼の心の強さを感じさせてくれた。 あの歳でも、あれだけ強くなれるのだと思うと、 目汁がにじんできた。 あんなふうな「逃げないこども」たちが、 このあとの時代をつくってくれると思うと、 もっといっぱい生きていきたいもんだと、欲が出るね。 1999-08-22 いっやぁ、26時30分にスタジオ入りっていうのは、 経験したことがなかったですねぇ。 日本テレビの24時間テレビ、 深夜の3時30分に始まって朝5時45分に終わるという、 おっそろしい番組に出演しました。朝帰りさ。 でも、思うんだけど、 こういうとんでもない時間の番組って、 1分1秒をケチケチしなくていいんだよね。 この2時間以上の枠を、たのしく埋めてくださいって、 そういうお気楽なスタンスで作るものだから、 「時間を広く使える」ってわけですよ。 なんつーか、「たこ焼き」にしたって、 たこが主役かもしれないけれど、あげ玉とかネギとかを、 たのしむものじゃないですか。 そのへんができているのが深夜番組だったはずなんだけど、 この頃は、深夜番組もせちがらくなって、 やっぱり1分1秒も商品なんだって感じの ケチ臭さが出てきてるんですよね。 しかし、24時間という長い番組をやることになると、 いい意味での杜撰さが出てくるんだよなぁ。 どうでもいい時間が、ちょこちょこ混じるわけよ。 そういうことが、ぼくには豊かさに思えるんだけど、 多くの人は、「手抜き」という目で見るのかもねー。 自慢じゃないけど「ほぼ日」は、十分に杜撰ですよ。 だって、この文章だって、なくてもいいくらいでしょ。 1999-08-23 ぼくらは、例えば野球を観るとき、 あれが「痛い」スポーツであることを忘れていたりする。 内角を突く速球に140キロのスピードがあったら、 素人ならバッターボックスに立っていられない。 自打球が当たった痛みも、よく解説者が説明するように、 とんでもない痛みがあるはずだ。 野球ばかりではない。 サッカーにしても、バレーボールにしても、 痛みを伴わないスポーツなんて皆無だと思う。 水泳はどうなんだ、とか突っ込まれるかもしれないが、 それだってトレーニングには、苦しみや痛みがあるだろう。 スポーツをプレイする人間と、観戦する人間の間には、 この「痛み」という河があるような気がする。 ぼくらは、どんなに素晴らしい観戦者であっても、 プレイヤーの痛みをわからない。 ぼくはかつて、こういう提案をしたことがある。 「テレビで野球を観る人は、硬球を手に握りながら ゲームを想像するといい」と。 そういうふうに観たら、 選手たちが、どんなに闘争心と勇気のある人々であるか、 よくわかるはずだと思う。 しかし、まてよ。 精神的な痛みなら、もしかすると、 ほとんどの職業人、いや、ほとんどの人間が、 毎日のように経験しているのかもしれない。 そんな痛みくらい、たいしとことないですよと、 スポーツ選手たちのように耐え続けている プロフェッショナルたちは、たくさんいるはずだ。 がんばれ、みんな! --------------------------------------- (明日に、つづきます) |
2001-04-17-WED
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